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命の価値 -前提-

日本が、決定的に守ってきているのは、あらゆるひとつひとつの命の価値を「無限大」としていることです。
それが新生児でも、働き盛りの若人でも、老い先短い高齢者でも、意思疎通の叶わない障害者でも、等しく(数学的には分からないが)命の価値は「無限大」と定義されているように思います。

つまりは、「市井の人々が死ぬ」ことを徹底的に避ける社会的構造になっているということです。翻せば、「死なない程度の不利益をこうむる人がいるとしても、そのままでは死ぬかもしれない(死ぬとは限らない)人を救いにいく」のです。どんなに「死」側に近い存在も、この世界に引き戻そうとする力が働いているとも言えます。

これは道徳的、倫理的には全くもって正しい。近ごろ流行り、雑に消費または利用され、主義が歪曲されているのか、元々が散漫な定義なのかも分からなくなった「SDGs」とも、ある部分では共通因子を持っていて、この範囲については既に日本は達成しているとも言えます。

誰ひとりとして取り残さないためには、「引き戻す」莫大なエネルギーを必要としています。それほどに「死」というものは、「社会で『普通に』生きる」ことと距離が離れすぎてしまった。昔はもっと簡単に死ねていたので、こんな現象も起こりませんでした。
そして、ある一人を救うために要するエネルギーを捻出するのは、それ以外の人間ということになります。

だから、僕ら普通に生きられる人間は、救わなければ生きられない人間の命という、絶対に太刀打ちできない価値ある存在に、少しずつ協力しているということになります。そして、「救わなければ生きられない人間」が、ここ数十年で、飛躍的に増加しているのが現代です。そしてここ数年、新型感染症の流行により、その姿勢はさらに加速していきました。

これが誤った方策だとは思いません。ですが、不都合な方策だなとは思います。不都合だなと思いながら受諾する、これが民主主義の中で生きていくために、仕様のないことであることは確かなことなのでしょう。

ここまですすめてくると、たくさんの整理しなければならない疑問が湧いてくると思います。
・生きていればそれでいいのか
・救う側も含めた人間の「生き生きとした生」はだれが保証してくれるのか
・今生きている人間を救うことを優先するがあまり、同じく無限大の価値であるはずの、これから生き始める「新しい命」にまで手が回らなくなってはいないか
・そもそも、救う必要があるのか(命の価値は無限大か)

今日はここまで。
丁寧に言葉を選ばないと、誤解を産むので大変です。

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