見出し画像

匂い

星野源はくも膜下出血を機に、性格が京都シネマからTOHOシネマズ梅田になったわけですが、僕の器に合っているのは当然前者ということになります。
特に僕は『エピソード』というアルバムが好きで発売当時よく聴いていたのですが、とりわけ『くだらないの中に』の冒頭の歌詞は、今でも生きる指標のひとつになっているという確信があります。

髪の毛の匂いを嗅ぎあって
くさいなってふざけあったり
くだらないの中に愛が
人は笑うように生きる

当時、つまり高校生になったくらいの時期にはもうマクロ的な世界に期待をできなかった僕は、生きる意味を、その辺の道端に小さな幸せくらい落ちているだろうと、自分ひとりの周りの世界、ミクロの世界に求めました。そしてそれは今も全く変わっていない。世界にはずっと絶望していて、しかし破滅することはないと分かっているから終末思想に逃げることも出来ず、右だの左だの言う次元ではない世界の棒線上を行ったり来たりしています。

その頃から、忙しくしていたら死にたくもなくなるとはよく言われたもので、存外、的はずれな助言でもなかったように実感するところですが、かといって気持ちが麗らかになるわけでもなかったことには、やっぱりなという少々の落胆があります。とはいえ、確かにすることもできることも無くて万年布団の上に横たわりウンウン唸っていたあの頃に比べれば、そういった詮無い自分の課題の堂々巡りに嵌ることは減りました。最近ではほとんど出現せず、たまに思い出しては、自分は自分を後回しにしているな、と傍観的に思うのです。


なんでもない土曜の朝に、10年も前の髪の匂いが薫ってきました。勿論物理的にではなく、何かしらの脳の誤作動かと思います。人ははじめに声を忘れ、しかし匂いは忘れることが出来ないということを、しみじみと頷かされました。
そして、他人の家のそれと交じりあった、つむじ近くのツンとした匂いは当時の記憶と粘りこく結びついていて、湿的で不快な音を立てながら、あの薄暗い部屋の情景と一緒に、観念的な甘さも連れてくる。あまりに幼く、然しながら僕が生き延びるためには必要な世界がそこにあったのだと思い出させます。

翻って、今日の朝、実際にはそんな匂いはしていないのだから、僕はいったい何を思い出したのか、何を自分に自覚させたかったのか、判然としないまま。
後回しにされてきた自分が、実はもっと前から捨て置かれていて、もしかしてまだそこに居るのかもしれないと思うと、夏なのに肝の冷える思いがします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?