【日記】12.8あたり | 半分こしたドーナツ
子どもが微熱で1日中外から出てなくて、でも夕方には平熱に下がった子どもが、晩ごはんを食べながら、見ていたYouTubeに、ドーナツが出てきたのか、「ぼくもドーナツ食べたい」と言い出した。
じゃあ、晩ごはん食べ終わったら買いに行こうか、と返事をすると、うん、そうする、と返ってきた。
食べ終わって、玄関に降りて、コートを着せる。病み上がりだからマフラーも帽子もつけてくれと頼んだけれど、いざ玄関の扉を開けてみると、思ったより寒くなくて、手袋はつけずに、子どもとてをつないでいった。
チョコがついてるから、ぼく食べれないわ、と、コンビニの棚のいちばん上にあったオールドファッションを見て言ったので、じゃあはんぶんこして、ママがチョコの方食べるから、どお?と聞くと、うん、そうしよ!と歯切れのいい返事。
帰り路も、手をつないで歩く。街頭に照らされたアスファルトに、ふたりの影がおちる。こうやって、手をつないで夜道を歩けるのは、あと何年だろう、と、唐突に思う。子どもが1歳になって、よちよち歩く子どもを支えるように、腰を曲げながら手をつないで家の前を歩いていて、ふと顔を上げると、小学生くらいの男の子と手をつないでゆったりと歩く親子連れを見て、あんなふうに大きくなるまでの途方もない時間の長さを感じて気が遠くなったけれど、4歳になってからというもの、こうやって子どもと手をつないだり、ママと呼ばれたり、寝顔を見つめたりするのは、あと何年なんだろうと、忙しい日々の隙間をぬって、そんなおもいがぽこぽこ生まれ始めて、目頭がじんわりとしてくるのだった。
そんなふうに約束された別れは、希望でもあるのに、約束されてるから、その瞬間だけじゃなくて、もっとずっと前から、淋しくて孤独だ。いくつになっても、さみしさってあるんだなっておもって、でも、こうやってさみしさの種類が増えていくのは、さみしさがいろんないろで彩られていくようなきもして、嬉しくもある。
ドーナツはふたりでわけて、ぺろっと食べた。
それでは、また。