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「できればずっと覚えていたい」

このごろ、"an hour after/before"ルールなるものを作った。

英語にするとなんだかかっこよく見えるけれど、ルールは単純。
起きた後の一時間と寝る前の一時間は、読書の時間にする、というものだ。

イギリスのyoutuberの女の子がはじめて良かった習慣の一つとして取り上げていて、秋も深まった、読書の秋だ、と思って取り入れてみた。
もう一週間以上たつけれど、かなりいい。「自分の時間」がとれているように感じるし、何より落ち着いて眠ることができる。読みたい本や取り入れたい知識のために時間をとれるのは幸福なことだ。

今読んでいるのは、精神科医でもありトラウマ研究などを行っている宮地尚子さんのエッセイ「傷を愛せるか」。

宮地さんの文章を読んでいると、冬の、雪の降る夜を思い出す。
「しんしんと雪が降る」という表現があるが、これは翻訳できない美しい日本語表現の一つだと思う。
雪が降っている。しんしんと、雪が降る。
あたりは厳かなまでに静まりかえっている。見慣れた風景は真っ白な雪の下で眠っている。歩くと冷たい空気が頬を刺す。息をしているのは私だけ。他には誰もいない。寂しいけれど、それがなんだか心地よい。寒い。冷たい。
風で開きかけたコートの前をぎゅっと寄せる。腕を組む。息を吐く。白いもやが雪の中に溶けていく。

その中に、「溺れそうな気持ち」というタイトルの文章がある。

この夏、留学先で毎日のように海に行っていた。
私は泳げない。小学校の時の「クロールで25m」が人生の最高記録だ。

泳ぎの得意な友人はいつも遠くの深い場所まで泳いで行ってしまった。
何かの映画の有名なセリフ "I'll be back…"を言い残して去っていくのだ。そしてひと泳ぎしたらその言葉通り、いつの間にかちゃんと帰ってくる。

その間、泳げない私はぷかぷかと浮かんでいることにした。
頭を上に向けて、次に足の力を抜く。そして手も体の中心も、すべての場所から力を抜く。体が水に解けていく。自然と一体になっているかのように感じる。

水が耳を覆う。水の音が聞こえる。水の音だけが聞こえる。
パチパチ、と何かがはじける音がする。他には何も聞こえない。
私はその「静けさ」がたまらなく好きだったのだ。

その一瞬だけ、日本語も英語も忘れて、すべての言語を失う感覚を味わう。
言葉を失うというのは、思考する方法を失うということだ。
その瞬間、私は私から自由になる。
「自由」”Freedom”といった言葉も私の頭の中から存在しなくなる。
ただ感じるのみ。

友人が以前、「言葉は入れ物に過ぎない」という話を大学で聞いた、と教えてくれたのを思い出す。その話を聞いてなるほど、とその時思ったものだが、留学の中で「日本語」や「英語」が「記号」であることを理解したように思う。言葉は感情の入れ物なのだ。私たちは言葉を使って、形のないものをどうにか入れ物に入れて、溢れないように注意しながらもう一人の誰かに運んでいるのだ。

さて、少し話がそれたが、宮地さんは「溺れそうな気持ち」を以下のように表現されている。

溺れそうな気持ち。必死で手足をばたつかせないと、沈んでいきそうな感覚。息苦しくて、なにがなんでも水面上に顔を上げてしまいたくなる気持ち。すくんで縮こまる身体。何かにしがみつきたくなる衝動。

傷を愛せるか(p.187)/宮地尚子

足もつかない深い水の中で、手足をばたつかせてしまえば溺れてしまう。
泳ぐのが得意なあなたは、その様子を岸から眺めていると、力を抜いて、と言ってしまいたくなるだろう。だけど、当の本人には無理な話なのだ。苦しくて、怖くて、身体を動かしていないと、このまま深い水の底に吸い込まれてしまいそうだから。

この数年、ずっと溺れているような感覚があった。
沈んだり、浮いてきたりを繰り返していたように思う。浮いていてもずっと唇のすぐそばには水があって、いつでも私はぎりぎりで、呼吸をしているけれどずっと苦しかった。少し水が入ると息ができずに沈みそうになる。でも溺れたくなくて手足をばたつかせる。それでも沈んでいく。呼吸ができなくなる。沈む。
海底の淵のぎりぎりで浮かんできて、また沈んで、を繰り返した。

あれやこれやを経て、今、私はようやく海から出られたように感じている。
留学という大きな決断や、それに至るまでの小さな選択、そして友人。力を抜く方法を学び、支えてくれる彼らが浮き輪となり梯子となり、ようやくたどり着くことができた。
今は決めた街に向かって、旅の準備をしているところだ。

私は正直、あの「溺れそうな気持ち」を忘れてしまいたいと思っていた。
思い出すと苦しいから。
だけど、知っているからこそ、その感覚を思い出すことで、今溺れそうになっている人に「もっと寄り添える」と宮地さんは言う。

だから、

上手に泳げるようになったら、忘れてしまうであろうその感じを、できればずっと覚えていたい。

傷を愛せるか(p.187)/宮地尚子

「できればずっと覚えていたい。」

この先で誰かを救えるように。

誰かに寄り添えるように。

過去の自分が、いなかったことにならないように。

どうか忘れないように。

できればずっと、覚えていたい。

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