「やる」と決めなきゃいけない時がある
人には「決めなきゃいけない時」がある。
自分にしか出来ないこと、
誰も代わりにやってくれないことが、
人生にはいくつもある。
例えば英語を勉強すること。
英語コーチとして何百人ものサポートをしてきたけど、「私が代わりに英語を勉強してあげたら、相手の英語力が伸びる」なんてことがある訳ない。単なるサポートしか出来ない。英語力が伸びるのは、相手の力なのだ。
自分の心と向き合うこと。
どんなにカウンセラーやセラピストが優れていても、「代わりに傷の痛みを引き受けてあげたら、相手が元気になる」なんてない。これだって単なるサポートで、傷に向き合い、癒し、未来を向いて進んで行くのは、1人1人にしか出来ないことだ。
それから「トイレに行く」こと(笑)。
どんなに身体がだるくても怪我が痛くても、「誰か代わりにトイレ行ってきて〜」という訳にはいかない。例え入院してカテーテルとかの処置になっても、身体の中では自分の臓器が頑張ってる。それを誰かが代わりにすることなんて出来ないのだ。
・・・私は雪国出身なので、昔住んでた祖父の家がめっちゃ寒くて、冬になるとよく「誰か代わりにトイレ行ってきて欲しいなー」と思ってたな(笑)。
それから何も食べられなくなった時、本当にもー「食事を口に運んで噛む」のすらもだるくって、「誰か代わりに食べてくれ」と切実に思ってた。
誰も代わりにやってくれない。
自分でやるしかない。
代わりにやってあげることは出来ない。
本人がやるしかない。
・・・そんなことが、人生にはたくさんあるのだ。
ご飯を食べること、
トイレに行くこと、
風邪や病気を治すこと、
生きて自分の人生を歩むこと、
死ぬこと。
どれも自分がやらなくちゃいけない。
どれほど疲れて動けなくなっても、その領域のことだけは、自分がやるしかない。どんなに「もうだめだ」と思っても。
だけど、「代わりに出来る」という領域もあるのが人生なのだと最近思う。
英語を代わりに勉強することは出来ないけど、翻訳や通訳をすることなら出来る。ぴったりの参考書を探してあげることも出来る。
食べれない人の代わりに「ご飯を食べる」ことは出来ないけど、「ご飯を作る」ことは出来る。ご飯を食べてる場所に一緒にいることも出来るし、話を聞くことも出来る。
私も何度もそうやって、誰かに代わりにやってもらった。
そばにいてもらった。
励ましてもらった。
何よりもそんな人たちの存在が、私が「やる!」と決めるのを助けてくれたよ。ものすごい絶望の淵にいた時でも。
・・・「誰も代わりにやれないこと」をするのに疲れても、結局は自分で「やる!」と決めなくちゃいけない。
それって人生の時期によっては、絶望するほどすごく大変な決意だったりするかもしれない。
だけどその決意を助けてくれるのは、きっと横にいる誰かの存在なんだろうなと、今は思うのです。