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第2回 AXIS Design Round-table 「境界線を越えて  拡張し合う言葉とイメージ」に行ってきた

先日、AXIS社が主催の第2回Design Round Tableに行ってきた。登壇者もユニークで、内容も非常に良いイベントだったので、書き記しておこうと思う。

「壁ぎわの記憶」という連載のスピンオフ企画

第2回 AXIS Design Round-tableのテーマは、「境界線を越えて 拡張し合う言葉とイメージ」。もともとはAXISのWebマガジンが「空間を詩で表現すること」をテーマにした「壁ぎわの記憶」という連載を行っており、今回のイベントはその連載のスピンオフ企画という位置付けだった。詩人とラッパー、そして建築家による対談を通して、各々の言葉と空間に対する関わり方に迫ると共に、異分野を横断する表現では言葉がどのような役割を果たすかを考える、というかなり抽象度の高いテーマだった。登壇者は、大崎清夏(詩人) 、工藤桃子(建築家 )、 環ROY(ラッパー) 、 中山英之(建築家)、鞍田崇(哲学者)の5人。

対談は、哲学者の鞍田さんがファシリーターという形で緩やかに進んでいった。鞍田さんの比較的フレンドリーかつフランクな問いかけに対して、対する4人が自分の口から出た言葉を確かめるように、時には自身に問いかけながら慎重に言葉を選んで発言していく姿が、非常に印象的だった。特に面白かったポイントを自分なりに少し書き留めておきたい。

共通言語の束縛

「建築家にとっての設計図書」という話が面白かった。中山さん曰く、「設計図書は図と字で建物の全ての情報が記されており、そこには建築に関する様々な約束事も書かれている。建築学科の学生が、他人が見ても理解できる図面を書けないのは、一人きりで図面を書くからである。つまり、色々な空間に名付けを行わなければいけない設計図書は共同作業のための共通言語であり、社会に飼いならされた言葉をもって表現することを建築家は義務付けられている」と。この非常に納得できる例示を受けて、鞍田さんが「自分も哲学者としての話法に挟まれて身動きが取れなくなった経験がある」と発言されていた。つまり「誰かと繋がるために設定された哲学の作法に沿わせて表現する」、という仕組まれた言葉遣いを修練により身につけたけれども、結果として自分が本当に語りたいものが何かということ、またそれをどうやって伝えるかを見失ったと言ってしまった。個人的に、これは表現における大きなジレンマの一つのように思う。(環さんが、この蠢いている表現したい何かを未分化の状態と評していた。)

工藤さんが「設計をしていく中で、集団に入る手前が一人の時間が長くて、共有できないことが多い。そこが未文化と言えるところだと思うが、手放した瞬間の最も純度が高い状態を、どうやって集団に入っても保つのかだと思っている。トライしながら、死の間際には純度が高いものが発露できるようになると良いなと思う。」と最後に発言されており、非常に共感できる姿勢だった。

システムを使う矜持、与える開放感

施主の話を聞いて建築を組み立てる上で、施主に寄り添いすぎないことを中山さんが挙げたところから広がったシステムの話が興味深かった。曰く、「建築は結局のところ、人の命にも関わることになるので、施主の願望のこもった言葉に寄り添いすぎてはいけないと思っている。なのでそこにある感情というものから淡々として距離を保ち、システムによって翻訳した作業としての建物づくりに勤しむのが建築家であり、そのシステムより先に踏み出してはいけない矜持がある」とのことだった。僕はこれは表現者としての線引きというよりは、プロとしての姿勢に近いと思う。システムはそのシステムを理解している人間にしかわからない以上、正しく扱うことを求められるということ。

そして、その矜持によって受け取り側にとって心地の良い余白が紡がれるのである、ということ。環さんが「ガンバレ」を繰り返すストレートな歌が苦手なのは、受け取る側に余白が残されておらず、隙間がないからだという話をされていたが、過剰に意味を込めず受取側に解釈の余地を残すようにシステムを活用することで、いわば「システムを理解していない」人々がその作品に入り込む余白が生まれる。

さらに受け取り側が断片的にシステムを知っていることで、ある形式からの開放感を強烈に与える側面もあると。中山さんが、この側面を感じる秀逸な例としてマルジェラの話を挙げていた。マルジェラが若い頃、襟と胴が同じ太さである十字架のカーディガンをデザインした時に人々は大いなる自由を感じた。なぜなら、人々がただの4つの穴の空いた袋ではなく、襟と胴の区別を失ったカーディガンとして見たからである。つまり、「カーディガンは2つの腕と襟と胴という要素によって成り立っている」という誰もが知るシステムを裏切ることで、そこに強烈な開放感が生まれるということだと思う。これはコンテクストで良く出てくる議論だと思うが、システムがコンテクストを裏切ることで生まれる開放感は、確実にあることを示す素晴らしい例示だな、と感嘆してしまった。

ちなみに環さんは、自分が持っているラップを生み出すシステムの説明として、言葉の持つ音の繋がりと意味の繋がりの2種類を使っている、という前置きから、ラップを見せてくれて、それはその場を瞬間的に心地よい緊張感で包むスリリングで格好良いパフォーマンスだった。
(せっかくなので、関係ないけれど個人的に好きな環さんのパフォーマンスを貼っておきます。)

身体経験で獲得する言葉

「システムや約束事に寄り添うだけではない気もするのだが、果たして言葉はどのように紡ぎ出されていくのだろうか」という鞍田さんの問いに対して、環さんの独特の回答が面白かった。環さん曰く、「表現というか、アートは主観的なもの。表現する人間は、個人の単独の経験をいきなり普遍に持ってきて、その2つをつなげることにみんなトライしている。成功すれば広まるし、大抵は(成功することなく)どんどん死んでいく。」とのこと。工藤さんもそれに呼応する形で、「言葉は身体なのかと思うことが時々ある。例えば視覚障害のある方が観る映画のセリフ以外の部分を言葉で描写する仕事をしている人がいる。その人は、自分は戦うシーンの言葉が足りない、出てこないと仰る。なぜならば、戦った経験がないから語彙が少ないとのこと。なのでわざわざキックボクシングに行って、実際体験をして言葉の獲得を試みたと聞いた。建築もある空間に入った際の体感のようなものを体験として積み上げて、それを言語しながら空間に図形化していくので、身体的なプリミティブな体験みたいなものは、つながるのかなという気がする。」と仰っていた。語彙を獲得するためにキックボクシングを体験するのは、相当にプロだと思うのだけれど、でも確かに経験することによって、正しい言葉を獲得するというのは、面白い考え方だと思った。

「人は旅に出よ」とか「若いうちの経験は買ってでもしろ」など、格言めいんた言葉はあるけれど、それは沢山の自分にとって正確な言葉を獲得するためと言えるかもしれない。それこそが言葉を操る知性を獲得すること、環さんの言葉を借りれば「身体的な知性」を積み重ねていくことになるのだと思う。

対談の最後に鞍田さんが、身体性に引っ掛けてハイデガーの「考えることは手仕事と同じ」という引用で終わったのが印象的だった。これもきっと哲学のシステムの一つなのだろう。

仕事後の良質な対談イベントは癒し

対談イベントには何度か行ったことあるけれど、登壇者の発言に対して観客が全肯定的になっているような宗教感のある雰囲気だったり、ファシリテーターとゲストのレベルが釣り合っていなくて公開居残り授業のような雰囲気だったり、対談後の飲み会がメインというグリコのオマケ状態になっていたりして、期待を裏切られたり、残念な気持ちになることも多いのですが。今回の対談は登壇者も参加者も、皆でテーマに向き合っていて、この場で安易な結論に飛びつこうとか、綺麗にまとめようという妙な圧力もなかったので、知的好奇心を刺激する超良質な癒し時間だった。たまにこういう当たりがあるから、人からの誘いは出来るだけいつも応じるようにしているのだけれど、当たりの何倍も外れがあるのが何とも厄介である。

※ちなみにアフターパーティーで出会った同世代のお客さんともなんとなく仲良くなって、そのまま六本木でご飯を食べつつ、イベント談義で盛り上がってしまい、華麗に酔っ払いました。

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