認知症レッドと認知症ブラック
うちは両親共に認知症になってしまったんだが、それぞれの症状は真逆である。母親は記憶を失うことに戸惑いを感じつつも、明るく今を生きている。父親は自らの不遇を呪い、世の中に黒い呪詛を撒き散らしながら過去を生きている。
それぞれ認知症レッド、認知症ブラックと俺は密かに呼んでいる。認知症レッドである母は、デイサービスに行くのが楽しみだ。ヘルパーさんの言によると、仲良し3人組でいつもおしゃべりに夢中で、毎回同じ話で爆笑しているんだそう。
ところが3人共に認知症なので、今日楽しく爆笑したことを忘れてしまう。なので、毎回初めましてな感じで同じ爆笑を繰り返す。楽しくお話したという記憶がないのに、毎回同じメンバーで同じ話をして同じ箇所で爆笑している。
認知症レッドたちは、楽しく話をした記憶は失っているのだが、楽しい感情を全身の細胞にいきわたらせながら、我が家に帰る。母親は今日デイサービスでやったこと、話たことは忘れているのだが、楽しかった感情は全身の細胞に宿っているのだ。だから、心も身体も軽い。
通常は、その人と楽しく話をした記憶が、その人との親和性をつくり出すのだと思う。あー、なんか趣味が合うなあ、雰囲気いけてるし、いけ面だし、年収でかいし。みたいな、印象とファクトの記憶が、その人を好ましく思う端緒になるんだと思う。
でも、母親のデイサービスでの例を鑑みると、人には波長みたいなものが出ていて、それに感応する部分が大きいんだろうなと思う。共感した記憶を失っているのに、毎回同じメンバーで仲良くなるなんて、そこに何らかの波長があるに違いない。
そういえば、僕は今、何人かの人ととても親しく付き合っているのだが、それらの人と別の場所で、たとえ記憶が無くなっても、また仲良くなれるような気がする。
記憶というものは、けっこう作為的に書き換えてしまうもので、社会的なものの一部である。それより、その人が醸し出す波長みたいなものに真実があるように思う。そして、自分の波長を正確に発信するためには、正しく素直に生きることだと思う。
過剰な承認欲求や背伸びは、自らの周波数を狂わせてしまうのではないだろうか。自分の周波数に合った人との出会いが幸福の源泉だとすれば、承認欲求まみれの人は自らの周波数を狂わせることで、本来出会うべき人と出会えていない可能性が高いではないだろうか。