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元旦から批判のコメント・・・

 いやはや、元旦からすこぶる高飛車にて、横着なコメントが一つ投稿された。新年からイライラがあるのか、よっぽど上から目線が常態化しているのか知らないが、エッセイやコラムは思いつきにて自由に書き綴っているので、討論会でもあるまいし、仰々しくも批判を受ける質のものではない。

 気に入って頂く読者の方や興味のある読者の方にお立ち寄り頂くだけでも有り難いことである。しかし、その心無いコメントはさっさと削除し、アカウントはブロックしたけれども、元旦早々に屁理屈やら愚痴を言われると、相手にするのも馬鹿らしいだけの話である。

 多様性の時代として、いろんな人が存在するのは周知の事実。しかし、空気を読めない人は、どんなシチュエーションなのか、自らの立ち位置はどうなのか、何を目的にコメントを書き込むのかなど、漠然とした中で、感情論をぶつけてくることがある。

 他者のnoteの記事に矛先を向け、攻撃するのは一向に構わないけれども、これが公然の場であることを覚悟して行う必要がある。face to faceでお付き合いするほどの関係でもないのだから、尚更のこと。そんなに書き込みたいのであれば、実名を堂々と明かした上で行えば良いだけの話である。

 これが、SNS時代に突入して、自分自身の身の丈を理解できず、言いたい放題、遣りたい放題の悪癖のある人の所業なのだろうと再認識した次第。

 元旦から、無駄なエネルギーを使わず、頭を上手に整理整頓して、周囲を見回すことをお薦めしたい。どうも粘着性の高いnoterの方のようなので、完全無視、ブロック、削除で対応させて頂いた。


▼ChatGPT-o1による感想

このエッセイは「元旦早々に他者から批判的なコメントを受けた」という出来事を通じて、筆者が感じたこと・考えたことを率直に綴っています。内容を読んだうえで、以下のような感想・考察を抱きました。


1. SNS時代の“無責任な批判”への違和感

エッセイでは、批判コメントを書いてきた相手が「上から目線」「空気を読めない」「匿名をいいことに悪口を書き散らす」といった姿勢であるとしています。SNSやブログといった“公の場”で一方的な批判・攻撃をする人々に対する筆者の嫌悪感が滲み出ていると感じました。

  • 多様性の時代 においては、当然いろいろな意見が飛び交います。しかし、筆者の主張は「表現の自由」と「公の場で発信する責任」は切り離せない、という点です。

  • ネット上の匿名文化が根強い一方で、「実名で責任を伴いながら意見を言うべき」という主張が、筆者の文章からはにじみ出ています。これは、SNS普及後のよくある問題提起であり、その意味でも普遍的に通じるテーマだと思います。


2. “感情論”への警鐘と筆者の対処

筆者は「感情論のまま書き込む愚行」を強く否定し、それを「公然の場であることを理解していない所業」と断じています。また、筆者自身も「正月早々、腹立たしい」という感情を抱きつつも、最終的にはブロックと削除で自らを守る方法を選択している点が印象的でした。

  • 特に「元旦からイライラさせられるのは無駄」という姿勢は、批判者を相手にしない、時間や精神を浪費しないようにするという明確な意思の表れだと思います。

  • ネット上での誹謗中傷や批判にどう対処すべきか、と考えたとき、筆者のように適切に距離を取り、毅然と対応するのはひとつの正解と言えそうです。


3. 元旦における“特別な空気感”とギャップ

エッセイでは「元旦から非常識なコメントを受けた」という点を強調しています。元旦は日本社会において、比較的「めでたい・清々しい」というムードが強い時期です。

  • そうした特別な日の空気を読まずに批判コメントを投稿してくる人がいる、ということ自体に筆者は強いショックや不快感を覚えているようです。

  • 「新年早々にケチがつく」「新しい気持ちで出発するはずなのに、出鼻をくじかれた」というように、筆者のなかで“元旦に求める理想的なスタート”と“現実のネット上のトラブル”とのギャップが、大きな苛立ちにつながったのだろうと推察します。


4. 批判者への視線・距離の取り方

エッセイ終盤では、

どうも粘着性の高いnoterの方のようなので、完全無視、ブロック、削除で対応させて頂いた。
と締めくくられています。筆者にとっては、これこそが最適解なのでしょう。

  • 多くのSNS利用者にとっても、ネガティブなコメントや誹謗中傷はしばしばストレスの種となります。筆者がいうように、自分に害をなす相手をブロックや削除することは、精神的にも時間的にも消耗を減らすためには有効です。

  • 一方で、「多様性の時代」という大きな枠組みのなかでは“否定意見や批判”にも耳を傾ける必要がある場面もあります。しかし、筆者がここで切り捨てているのは、あくまでも建設的ではない“横着なコメント”に過ぎないとも読めます。筆者の視点としては、「きちんとした意見交換の枠内にない」「読んでも得るものがない」と判断できるものは、潔く排除するという姿勢なのでしょう。


5. 本エッセイが示唆するもの

5-1. ネットリテラシーやモラルの問題

筆者の言葉からは、SNS時代のモラル欠如や“書き手の匿名性”に甘えている人への怒りや落胆がうかがえます。これはSNSが普及して久しい現代においても根強い問題です。

5-2. 自分の精神を守る大切さ

「無駄なエネルギーを使わずに、自分が書きたいものを書く」というスタンスは、自身の活動を続けるために重要な考え方です。負の感情に流されてしまうと、生産的なアウトプットは生まれません。筆者のように「嫌なものは排除し、気にしない」ときっぱり言えるのは、一つの自己防衛策として有益です。

5-3. “多様性の時代”の逆説

筆者は多様性の時代を認めつつも、「良識や責任感を持って発信する」ことは多様性と相反しない、と語っているように思えます。むしろ、多様性があるからこそ、相互尊重や適切な距離感が求められるという視点が感じられます。


まとめ

このエッセイは、元旦に投下された心ないコメントに対して筆者が率直に不快感を示し、同時に「SNS時代における匿名批判の危うさ」を再認識する内容となっています。筆者は最終的に「ブロック・削除」という行為で完結させ、余計なエネルギーを使わないようにしています。これは、ネットリテラシーが叫ばれるなかで、自分自身を守りつつ創作や発信を続けるうえで、ひとつのロールモデルとなるかもしれません。

一方で、多様性や言論の自由が発達した社会であればこそ、批判や違う意見が出てくること自体をすべて拒絶しているわけではなく、「当たり前のマナーや礼節が守られてこそ、異なる意見も尊重し合える」ということを示唆していると感じます。筆者の言う「空気が読めないまま感情論をぶつけてくる」姿勢に対して「毅然とした対応をとる」という今回の態度は、SNS時代における情報発信者が持つべきひとつの方策を端的に示しているように思えました。

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西田親生@D&L
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