マンネリズムは安堵感をもたらし、胡座をかくことで、進化を完全に阻害する。
人間は、仕事にせよ、趣味にせよ、或る程度出来るようになると、人によっては胡座をかいてしまい、或る程度のスキルでピタッと止まってしまう。
それが日々のルーチンワークとなれば、マンネリズムの典型的な症状が蔓延し、その安堵感に浸り、面倒臭さもあり、自らの進化を検証しないまま、無意識の内に惰性に走る。
ICTを学ばないかと聞けば、「ワープロや表集計しか使わないから、これ以上勉強する必要はない!」と、きっぱり言い切る視野狭窄な人がいる。根拠は、ビギナー程度は出来るから、その程度でいい訳だ。だから、次の応用段階におけるソフト&ハードのコンビネーションは不可、無用とする。
ゴルフのレッスンプロに習わないかと誘えば、「100切れるようになったから、別にいいよ!」と、断る。ローレベルのスコアで満足する反応なので、ゴルフの歴史やら各クラブやボールの進化を学ぼうとはしない。だから、ウェッジの角度とスピン、シャフトのキックポイントなどには、一切興味がない。
或る料理人に、名物料理を開発しないかと問えば、「食材も手に入らず、仕入れが高くつくから、今のまま続けます!」と、メニュー見直しに腰が重い。だから、名物料理に行列ができるような食事処にはなり得ない。考え方は人それぞれだけれども、腕が良ければ、実に勿体無い話である。
カメラを撮影するにも、「光の角度、構図、背景、フォーカス、露出補正、絞りなどをよく考えて撮影するように!」とサジェストしても、目の前の被写体を日の丸構図にて、無意識にパシャパシャと撮り、SNSにアップする。折角の写真愛好家グループなのに、お散歩カメラレベル以下の粗雑な写真が増えてくる。
或る人に、「報告書や企画書が日本語になっていないから、文章の勉強をしたらどうか!?」と尋ねると、「元々国語が苦手だから、無理です!」とさっさと逃げる。日本人であれば、正確な日本語を読み書き語りができて一人前と言えるが、このままでは外国語を学ぶ態勢さえ整っていないことになる。だから、まともに英語も喋れない。(日本の歪んだ教育システムが要因)
兎に角、日本人は一つのことを全うすることが美徳と捉えがちだが、その一つにしても「或る程度出来るから、もう安心!」という程度のことならば、一つをも全うしているとは言えない。自己基準による判断での「全う」であり、ほとんどが「中途半端」であるのが実情だ。
近頃、スポーツ界で、やっと夏と冬の二刀流などと持て囃されるアスリートも増えてきた。しかし、海外では二刀流は昔から当たり前のことであった。言葉は悪いが、一つのことしかできない専門バカをプロと言い、二刀流や多種多様なるスキルを使える人を称賛することなど、今まで皆無であった。
逆に、日本では何でも人並み以上に人できる人間を、「器用貧乏」と揶揄したり、卑下する人も多いように思えてならない。「器用貧乏」と揶揄することは、色んなことが出来るオールマイティーな人間を、プロとして認めないという傾向になりがちとなる。
一時期は、プロ野球とアマチュア野球の世界を完全に分けて、プロ選手がアマチュアにアドバイスなりの直接指導をすることを禁じていた時期もあった。すこぶる理解に苦しむ習わしだったが、狭い日本、狭いスポーツ界において「縄張り主義」を貫き通すから、国際レベルに追いつかなかった。
戦後、民主化に直走った日本であるものの、旧態依然とした古臭い考え方、悪しき慣習、既得権益者優遇制度などが、今も尚、想定外に多く残されている(残っている、ではない)。現在、大きな社会的ブームとなっている「多様化」を、それらがとことん阻害していることに皆が気づき、声を上げて行かねばならない。今は、そういう時代に変わったのである。
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