ChatGPTに全部記事を書かせる???(1)
ChatGPTを使って記事を書いているという人からフォローが来た。申し訳ないけれども、人工知能の活用法が完全に間違っている。折角のフォローであるが、ブロックさせていただいた。理由は読者の方はお分かりになるのではと。
このような使い方を是とする人は、大学の論文でさえも、裏づけなく、安易にChatGPTに投げかけ、返ってきたものをそのままコピペして、如何にも自分の論文として提出するに違いない。
いやはや、人工知能に課題だけ突きつけて、その回答を記事として、何の価値があるのだろうか?これこそ、考えることを失う入り口にきている人なのだが、それさえも気付かぬところが、嘆かわしい。
その他、ある人はChatGPTを使って、1日あたり10本の記事を毎日投稿しているという人も居たような居ないような。これもまた、人工知能の活用法を勘違いしている。
考えることを放棄した人、考えることが面倒な人は、このような高度なツールを手にすると、自らの能力のなさを、人工知能に丸投げ依存するようになる傾向が強いが、非常に危険な傾向である。
これは各人の価値観でもあるので、別にこれ以上突っ込んで批判しようとは思わない。ただ、考えても働かない脳みそに成り下がるのは間違いなさそうなので、後々、自業自得と言われるのがオチとなる。
筆者は、文章を書くのが得意かと問われると、「No」である。しかし、拙いエッセイやコラムだとしても、加飾なく自然体にて自分のオリジナルなものを投稿するのが必要であると考える人間なので、ChatGPTに記事を全部書かせて投稿する人の気持ちは、残念ながら理解できない。
▼ChatGPT-o1による感想
このエッセイは、「ChatGPTをはじめとした生成AIを使うこと」自体を否定しているわけではなく、「AIを“安易に利用”して何も考えずに記事を量産したり、コピペしたりすること」の危うさを強く批判しているのが印象的です。ここでは、エッセイに盛り込まれている要点や、それに対する考察を幾つかの視点からまとめてみます。
1. オリジナリティの放棄への強い警鐘
エッセイの主張
筆者は、ChatGPTで生成した文章を自分の文章として投稿する行為に対して強い違和感を覚えています。とくに「自分の頭で思考していない」「裏づけのない文章をそのまま使っている」ことを問題視しています。
さらに、大学の論文などでも、AIの回答をそのまま使ってしまう人が出てくるのではと危惧している点が印象的です。解釈・感想
大学の論文や記事の作成には、リサーチや裏づけ、引用のルールなどが必須です。AIが提供する情報は必ずしも正確とは限りません。むしろ、説得力のある誤情報(ハルシネーション)が混じる場合もあるため、鵜呑みにしてコピペするのは極めてリスキーです。筆者は、こうした「思考停止」状態に陥ることの危険性を強く訴え、教育や情報発信の場面でのモラル・リテラシーを問題提起しているといえます。
2.「考えることを面倒がる」リスクの指摘
エッセイの主張
筆者は「考えることを放棄した結果、AIに依存するのは危険」と言及しています。ChatGPTなどの生成AIを活用するのはよいが、「あれもこれも丸投げしてしまうと脳が働かなくなる」という意味合いで、「自分の思考停止」に警告を鳴らしています。解釈・感想
「便利なツール」に振り回されるリスクは、これまでのテクノロジーの歴史でも指摘されてきました。自動計算機が普及してから暗算ができなくなる人が増えたという話も一例といえます。
しかし一方で、適切な使い方をすれば「発想を広げるきっかけ」や「調べ物の時間を効率化」するための有用な手段ともなり得るため、単に「使う・使わない」の二者択一ではなく、「どう使うか」が問われているのでしょう。筆者の厳しい言い方は“丸投げスタンス”に対する危惧を強く表したものと言えます。
3. 投稿者(noter)としての矜持
エッセイの主張
「下手な文章でもいいから、自分の言葉で書くのが大前提だ」との想いを筆者は持っています。文章を書く際の“筆者自身の手触り”や“自分自身のオリジナリティを大事にする”という矜持が読み取れます。
そのため、ChatGPTに記事を代筆させることは「自らの創作・発信の意味を失う」と見なしているようです。解釈・感想
ブロガーやライター、あるいは「自分の考えを発信する人」にとっては、文章表現は自分自身を表す大切な手段です。そこに他人(今回の例ではAI)任せの文章が混じると、どこまでが“自分の想い”なのかがあいまいになるリスクがあります。
“読者とのコミュニケーション”という視点では、「筆者自身が何を考え、どう書いたか」が重要な要素です。筆者はそうした「個性を失うこと」を避けたいがために、あえて行動(ブロック)に踏み切ったと読めます。
4. 実用的なAI活用へのヒント
エッセイの姿勢から読み取れること
文章の後半では「AIに頼り切りになる」ことの是非を述べつつも、一方で「個人の価値観であるから否定はしない」というトーンもうかがえます。つまり、「使うこと」自体は否定していないが、「あまりにも無批判に頼りすぎる」姿勢を疑問視しているようです。解釈・感想
生成AIは、たとえば記事のアイデア出しやキーワード抽出、リサーチの補助など、取り入れ方によっては有益なツールになり得ます。筆者の指摘は、「道具に溺れて、自分の考えや創作意欲を放棄しないでほしい」というメッセージでもあると考えられます。
現実には、執筆における定型タスク(文法や誤字脱字チェック、引用調整など)を補助する目的でAIを使う人も多いでしょう。そうした「自分の軸を大事にしつつ、AIを合理的に使う」姿勢であれば、筆者のいう“危うさ”からは遠ざかれるかもしれません。
5. 総合的な感想
考えないことへの警告
筆者が最も憂慮しているのは、いわゆる「思考停止状態」に陥ることであり、それが学問や社会における“人間の思考力の衰退”を招くのではないか、という危惧です。文章表現における自分の声(オリジナリティ)の価値
AIを通じて得られたアイデアや情報は、あくまでも「下支え」であり、最終的には「自分が何をどう表現するか」が書き手に求められる責任だと再認識させられます。モラル・リテラシー問題としての側面
もし大学の論文や研究でAIに依存し、コピペする行為が常態化すれば、学術的な倫理観やリテラシーの欠如につながります。筆者はそうした問題提起も含めて、「AIの使い方には注意が必要だ」と言っているのでしょう。
総じて、筆者のエッセイには「自分の文章は自分の思考の結果であるべきだ」という強い姿勢が感じられます。ChatGPTなどの生成AIが盛んに使われる時代だからこそ、個々人が“考える力”や“書くこと・表現すること”の意味を見直す良いきっかけとなる文章といえます。
一方で、技術は使いようであり、責任感と意図をもって使えば自身の活動を補完する強力なツールにもなり得ます。「AIを使う・使わない」自体を断罪するのではなく、「なぜ使うのか」「どこまでを自分の頭で考え、どこをAIに任せるのか」をしっかりと区別しようという姿勢が、いままさに求められているのだと感じさせられるエッセイでした。