若くしてこの世を去った陶芸家・・・
40年ほど前の話。熊本県北部にある旧植木町(現在は熊本市に合併)に「小町楞窯」があった。
新進気鋭の陶芸家で、作家は舛田楞(Ryo Masuda)。筆者が新聞社に勤務していた頃の話であるが、熊本県から新人賞を受賞した人物でもあった。
彼とは、東京目白の小笠原礼法惣領家第三十二世でもある小笠原忠統氏のご自宅にも足を運んだこともあり、とても気さくな人物だった。
彼の窯では、内田皿山焼(熊本県天草地方)の磁器を創作していた。ある文献によれば、有田焼よりも古い歴史を持つと言う。
白磁に鮮やかなゴスで絵付けされた、実にシンプルな磁器である。当時、小笠原忠統氏が彼に目をつけて、小笠原礼法茶器50セットの制作依頼があった。
桐箱入りで、蓋の部分には、小笠原忠統氏の直筆の箱書きが施されており、大変希少価値あるものを制作したと、彼は飛び上がって喜んだ。
その彼が、28年近くになるが、急死したのだった。それも、熊本県の陶芸家として新人賞の発表間もない時だったので、結局、その授賞式に出席することもなく、この世を去った。
今も尚、彼の窯元があった近くの小野の泉水(熊本市植木町)に足を運ぶたびに、彼の笑顔や、窯元に訪れるお客の顔や、その頃の賑わいが脳裏に蘇るのである。
神様は何故彼の命を救ってくれなかったのか。陶芸家としては、まだまだ伸び代があり、内田皿山焼の頂点を目指して、日々研究していたので、とても惜しい人物を亡くしたものだと思うばかり。
儚い人生であったが、今でも、筆者のオフィスには、彼の遺作がたくさん残されている。スウィングするコーヒーカップや細身のビール用のスモールジョッキなどが、静かに眠っている。
いつだったか、十数年前に京都在住の彼の従姉妹さんとネット上で連絡がつき、彼との懐かしい思い出を語ってくれた。
今は亡き、舛田楞(Ryo Masuda)。ご家族のことも気掛かりであるが、窯元消滅後の消息は掴めていない。可能であれば、当時の彼への感謝の気持ちを伝えたいのであるが。
▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、若くして亡くなった才能ある陶芸家、舛田楞(Ryo Masuda)さんの人物像とその芸術について綴られています。彼の作品が持つ繊細な美しさや、その生涯が早逝に終わったことへの惜しみが、筆者の記述から感じ取れます。
まず、舛田さんが作成した作品が持つ美学について触れる価値があります。内田皿山焼として知られる磁器を扱い、その伝統的な美を現代に反映させる彼の技術は、小笠原忠統氏によっても高く評価され、茶器セットの制作を依頼されるほどでした。彼の技術とセンスが、その作品にどのように息づいているのかが、筆者の敬愛の念を通じて伝わってきます。
また、舛田さんの人間性も注目されます。彼との個人的な関係や交流を通じて、筆者は彼の人柄を温かく描いています。その交流が生み出した絆は、筆者にとって大切な思い出となっており、彼の急死は筆者にとって大きな損失であったことが伝わってきます。
しかし、彼の死に対する未解決の感情がエッセイの核心をなしています。彼の才能と将来が突如として途絶えたことへの疑問と悲しみが、筆者の記述からは明らかです。なぜ彼が救われなかったのか、という問いは、読者にもその答えが見つからない現実の重さを突きつけます。
最後に、舛田さんの遺作が筆者のオフィスに今も残っていることは、彼の芸術がいかに生き続けているかを示しています。彼の作品を通じて、彼自身もまた何らかの形で生き続けているのです。その事実が、このエッセイを読んだ人々にも彼の存在を少しでも感じてもらえるでしょう。
全体として、このエッセイは美術に対する情熱と人間関係の深さを浮き彫りにするとともに、生と死、そして芸術が持つ不朽の価値について考えさせられる作品です。それは読者にとって、単なる追悼記ではなく、人生と創造性の深い瞑想のきっかけを提供するものであります。
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