大相撲の判定に異議あり・・・死に体か勇足か
ニュースを見ていると、西大関 豊昇龍と西前頭3枚目 熱海富士の一戦が目に入ってきた。
土俵際で劣勢に立たされた豊昇龍の体は、左足踵だけが俵に乗り、全身はすでに土俵外にて死に体となっている。熱海富士の方は、右足つま先が土俵を割っている。
どちらを応援している訳でもないが、その時思ったのが、豊昇龍の死に体と熱海富士の勇足のどちらを取るかに関心が高まった。
筆者としては、体全体が土俵外に出て死に体となっているのが不利と見て、熱海富士の優勢に勝利の女神が微笑むのかと思いきや、結果は、熱海富士の勇足により、豊昇龍の勝ちとなった。
勝敗の行方は、その時の審判団とビデオ判定である。勝敗は、圧倒的に優位な方を取るべきであると考えるが、ほぼ同時のタイミングにて、僅か1センチの勇足が、体全体の死に体に負けるのだから、首を傾げる。
100メートルの世界最速の選手を選ぶ写真判定ではあるまいし、勝負の質が違うのだが、どうしても、今回の判定に限らず、土俵際の審判団の下す判定に疑義が生じることが多い。
昔の話で、大鵬と初代貴乃花の時に、土俵中央にて海老反りとなり大鵬を抱えたのは良いが、大鵬が右手を先に土俵に付けたことがあった。その時は、庇い手と言うことで、大鵬の勝利となったことを思い出す。結局、海老反りで危険な状態を回避するためのものである訳だ。
双方に非常に微妙な判定であるが、死に体は負けの証であると筆者は思っているので、死に体の判定基準を変えない限り、100メートル走の判定になってしまうことが、理解できないのである。
以上、異論反論はあろうけれども、相撲道という言葉がある限り、死に体は「既にお前は死んでいる」といったことではなかろうか。
うっちゃりという手で勝利をものにする力士も多いが、それにより大怪我にて力士人生をダメにした人も多い。うっちゃりは大胆な技ではあるものの、自分も土俵外に倒れ込むのだから、取り直しの方がよっぽど勝敗に白黒はっきりとケリがつくのではと思うばかり。
蛇足ながら、オリンピックの柔道やレスリングにおいても、場外に出ることで減点される。それぞれにルールは異なるのは理解できるが、優勢である点を加点する考えならば、やはり、大相撲における死に体はその時点で負けである。
▼ChatGPT-4oによる感想
エッセイ「大相撲の判定に異議あり・・・死に体か勇足か」には、相撲の勝負判定における具体的なインシデントが詳細に描写されており、相撲のルールの解釈に対する深い洞察と問題提起がなされています。この作品は、スポーツの公正性とルールの一貫性に対する広範な議論を刺激するものであり、以下のポイントでその分析を深めます。
1. 判定の複雑さと主観性
エッセイでは、豊昇龍と熱海富士の一戦を取り上げ、豊昇龍が形式的には土俵外へ出ていた(死に体)にもかかわらず勝利が宣言されたことが中心的な議題です。この事例から、相撲の審判判定が時として極めて主観的であるという点が強調されています。特に、相撲では体一部が土俵外に出るだけで敗北が決定されるという厳格なルールにも関わらず、実際の判定には一定の裁量が伴うため、観戦者や関係者からの疑問や不満が生じやすい状況が描かれています。
2. ルールの均一性と適用
筆者は、他のスポーツ(例えば陸上の100メートル走)で用いられる写真判定と相撲の判定を比較しています。この比較から、相撲の勝負判定が時折非論理的に見えることがあり、もっと透明で一貫性のあるルールの適用が求められると論じています。相撲のルールが、どのようにしてスポーツの公平性を保証し、かつ伝統を尊重するかというバランスの取り方が重要な問題として提示されています。
3. 伝統的な価値観と現代の観点
エッセイは、相撲の伝統的な価値観と現代のスポーツ観戦の要求との間の緊張関係を浮き彫りにします。相撲が持つ文化的な側面とスポーツとしての側面がどのように交差するか、そしてそれがどのように公平で公正なスポーツマンシップに影響を与えるかという点が考察されています。
感想
このエッセイは、相撲というスポーツが直面している複雑な課題を鮮やかに描き出しており、ルールの解釈と適用における一貫性の欠如を批判的に捉えています。特に、審判の判断が観戦者に透明でない場合、そのスポーツの誠実さと整合性が問われるというメッセージが強く伝わります。読者に対しては、スポーツのルールがどのように制定され、適用されるべきかについて、深く考えるきっかけを提供しています。
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