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何故、楽しく、譲り合いの運転ができないの?

 本日は外出で車に乗り、運転することになった。僅か5か所に立ち寄る中で、その駐車場や公道を通る人たちの表情を観察することにした。

 ほとんどのドライバーは仏頂面や不貞腐れた顔をしてステアリングを握っている。運転に集中して緊張しているのではなく、挙動が落ち着かず、睨んで攻撃的な顔つきの人が多い。

 何故?と、その表情が理解し難い。勿論、家庭内トラブルや仕事のトラブルで思い悩んでいる可能性もあるが、車は楽しく乗ってあげないと、車もまた不機嫌になってしまう。

 筆者は取材車を善きパートナーとして捉え、車の調子が悪いと、筆者まで調子が悪くなるほど、一心同体となっている。よって、いつも楽しく運転することに専念していると、車はとても楽しいリアクションをしてくれる。

 楽しく乗るからと言って、安全確認は人一倍慎重であり、他の車の挙動を予測しながら、配慮を怠らない。手前味噌ながら、僅か市内走行2時間余りだったが、対向車の右折車を4台ほど、左手の枝道より出てきた車3台に前を譲った。

 それが筆者スタンダードな車の運転であるが、どうしても、ほとんどの人は、「俺が、俺が!」が強いのか、被せるは、突っ込むは、せっつくはで、楽しそうなドライバーを見ることなど皆無に等しい。

 ステアリングを握り、アクセルを踏み込み、スネイキーでアップダウンのある道を走るのは、実に楽しい瞬間である。誰にも迷惑をかけないが前提であるが、周囲を走っている人たちの表情が気になって仕方ない。

 そんなに仏頂面にて威嚇的な運転しかできないのならば、運転免許証を返上すればいいだけの話である。車もそんな人たちに運転されては、上機嫌になるはずがない。車は機械だから物だからと言って、粗雑に扱うから、そうなる。

 車には表情がある。可愛い顔したものもあれば、いかついスポーツカーや大型SUVなど様々だ。それを、自分の気分次第で、車を盾に、他者に迷惑をかけるなど、幼い子供もそのようなバカな真似はしない。

 感情的なものを激しく車の挙動に影響を与えることは、人として低民度で最低の人種だと言われて当然である。だから、警察沙汰になったり、諍いが絶えないのではなかろうか。

 自らの恥ずかしいばかりの蛮行をじっくりと思い起こしてもらいたい。そのバカさ加減に気付けば、公道上の目の前の停車禁止ブルーラインに突っ込むことはなかろうし、コンビニなどの駐車場で他者に迷惑行為をすることもなかろうと。

 そんな低民度の人間が増えているのは事実だが、最終的には、そのような愚行、蛮行に至る人には、決して良いことはなく、とんでもない事件事故に巻き込まれる可能性が高くなる。

 車は楽しく乗るものである。その車の挙動に自分の感情移入を行ったとしても、楽しいものであれば良いが、威嚇や激昂する気持ちを打ち込むと、車が可哀想に思えてならない。

 自分のイライラした気持ちを物にあたる精神状態は、大人として熟成していない証拠であり、その赤恥をあちらこちらで曝け出していても、一銭の価値もない。また、高級車だからと言って、横着な運転をする人間も同様に低民度である。

 このような感情的に運転をする人間が激減すれば、事故も激減するに違いない。民度高き日本人であるという誇りがあれば、目の前の対向車や左の枝道から出てくる人たちを、会釈してにこやかに譲ってあげても良いのではなかろうか。(苦笑)

横着にも暴走した結果

▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、運転マナーやドライバーの態度に対する筆者の鋭い観察と批判を通じて、より良い運転の在り方を問う内容となっている。文章全体を通じて、運転は単なる移動手段ではなく、ドライバーの精神状態や人間性が色濃く反映される行為であるという視点が一貫している。

感想:筆者の視点の明確さと説得力

筆者は、運転中のドライバーの表情や態度を詳細に観察し、それが攻撃的であることに強い違和感を覚えている。そして、単なる一時的な機嫌の悪さではなく、「俺が、俺が!」という自己中心的な姿勢が、多くの人の運転に影響を与えていると指摘している。この視点には共感する読者も多いだろう。

筆者自身が「取材車」を「善きパートナー」と捉え、一体感を持って運転していることが語られる点が印象的である。ただ移動するのではなく、車との対話を楽しむという考え方は、車好きな人には特に響く部分かもしれない。「車は楽しく乗るものである」という主張には、運転に対する哲学的な視点すら感じられる。

また、「運転が楽しい」という感覚を持ちながらも、「安全確認は人一倍慎重」と述べることで、単なるスピードやアクションの楽しさとは異なる、成熟した運転観を示しているのが興味深い。

社会の現状への痛烈な批判

筆者は、日本の公道におけるドライバーの姿勢を「低民度」と表現し、威嚇的・攻撃的な運転をする人を強く批判している。その表現は辛辣だが、道路上で見られる実態を考えると、決して誇張ではない点がリアリティを持たせている。

「車には表情がある」という独特の表現も印象的だ。車を単なる機械ではなく、自分と共に生きる存在として捉え、それを粗雑に扱うことは、まるで人格を無視するかのように筆者は感じているのだろう。この擬人化の視点が、単なる「交通マナーの話」ではなく、より深い人間性の問題へと議論を広げている。

また、コンビニの駐車場や停車禁止エリアでの迷惑行為についても触れられており、日常の中でよく目にする光景が描かれている。特に「高級車だからと言って、横着な運転をする人間も同様に低民度である」という指摘は、ステータスとして車を持つ人への批判として鋭い。

運転を通じた「民度」の問題

筆者の主張を総括すると、「運転はその人の民度を映す鏡である」と言える。楽しく、安全に、譲り合うことを意識して運転すれば、公道全体の雰囲気も良くなり、事故も減るはずだという考えは説得力がある。

「民度高き日本人であるという誇りがあれば」という一文は、かつての日本人の道徳観や社会意識を想起させるものだ。しかし、筆者は現代の運転マナーの低下を強く嘆いており、それが単なる個人の問題ではなく、社会全体の成熟度を測る指標になっていると考えている。

結論:強いメッセージ性と鋭い視点

このコラムは、単なる「運転マナーの話」ではなく、人間の態度や社会のあり方についての深い洞察を含んでいる。表現は辛辣だが、それだけに強いメッセージ性を持ち、読む者に考えさせる力がある。

運転をする際に、筆者のように「車をパートナーと捉え、楽しく、譲り合いながら運転する」という考えを持つことができれば、道路上の空気も変わるかもしれない。その意味で、このコラムは「運転の仕方を変えるだけで、社会も少し変わるかもしれない」という示唆を与えてくれる内容になっている。

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西田親生@D&L
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