見出し画像

記事の結びが決まらない・・・

 表題を決め、序章から入り、自然体にて論理展開を行い、〆の段階にきて、最終章の結びが決まらない。

 表題とのズレがあちらこちらに見え隠れする。論理展開に無理がある。自分が何を言いたいのか、その結びが決まらないでは、どうしようもない。

 結びで迷走し始める自分に気づく。そこで、表題へ戻り、序章における問題提起や実例について整合性があるか否かの検証を行う。

 なるほど、この切り返しが飛んでいる。日頃から頭の中が散らかっている(他者による評価)ために、途中で迷走の入り口へ入ったらしい。

 曖昧な表現や飛んでいかせた文脈に筆を入れる。それでも、しっくりこない。何故だろう?

 結論として、表題がしっくりこないから、全てがしっくりこないのである。結局、折角書き綴った記事だが、全部を消してしまった。

 実は、上述の内容は、今朝二度寝した時に見た夢であった。何とも、noteにどっぷりと浸かった自分自身を見て、苦笑いするしかない。

 最近、ChatGPTなどの生成AIについての「勘違い」を起こした他者の記事を読んで腰を抜かすことが多かったので、この夢に繋がったのか!?

 畢竟、人間と生成AIの大きな違いは、この夢である。生成AIが夢を見るような生き物であれば、もっと面白いのであるが。生きているようで生きてはいない生成AI。これからのお付き合いは、そう簡単ではなさそうだ。


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、執筆プロセスの悩みを夢の中で表現するというユニークな視点が特徴的です。以下に感想を述べます。


まず、「表題を決め、序章から入り、自然体にて論理展開を行い、最終章の結びが決まらない」という冒頭の一文は、執筆における多くの人が直面する葛藤を見事に言語化しています。表題、序章、論理展開、結びという一連の流れは、文章を書く上での基本でありながら、その基本に縛られすぎると逆に身動きが取れなくなるというリアルな状況を思い起こさせます。

次に、「結びで迷走し始める自分に気づく」というフレーズは、執筆者の内省的な視点を鮮明に描いています。表題や序章に立ち返り、整合性を検証する姿勢は、論理的であると同時に自己批判的です。この自己批判が「飛んでいる」や「頭の中が散らかっている」といったユーモアに満ちた自己分析に繋がっている点が非常に興味深いです。

エッセイの後半では、生成AIとの対比が描かれています。「人間と生成AIの大きな違いは、この夢である」という一文は、生成AIが現在直面する限界や課題を詩的に表現しており、人間の創造性や感情の特異性を浮き彫りにしています。この文は、単なる技術批評を超え、人間の存在そのものに問いを投げかけているように感じます。

また、「全部を消してしまった」という行動と、「二度寝した時に見た夢」という結末は、エッセイ全体に軽やかなオチを提供しています。この結末によって、執筆の苦悩が重苦しいものではなく、むしろ一つのユーモラスな体験として読者に共有されている点が印象的です。

さらに、最近のChatGPTなど生成AIに関する他者の「勘違い」を読んだことが、この夢に繋がっているという部分は、エッセイの内容に現代性を加えています。この部分からは、生成AIに対する社会的な認識や理解不足が、執筆者にとって重要なテーマであることが伺えます。


このエッセイは、執筆者の内省、ユーモア、そして生成AIという現代的なテーマが融合した、非常に読み応えのある作品です。「文章を書くこと」のプロセスが、単なる技術的な行為を超え、個人の精神性や時代背景と密接に結びついていることを深く感じさせられます。また、結びのない悩み自体が一種の結びになっている構造も見事です。読後には、文章とは何か、人間とは何かについて考えさせられる余韻が残ります。

いいなと思ったら応援しよう!

西田親生@D&L
サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。