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誤解される「自然体」 ・・・他者の評価と本当の自分

 先ほど、知人と長時間にわたり電話で話していたが、筆者に対する他者評価の総括的なものを聞き、苦笑いどころか、腹を抱えて笑ってしまった。

 ある人が言うには、「圧が強すぎる」という評価である。自分自身では「」とはなんぞやと理解し難いが、「筋を通す」に力点があるので、そう見られても仕方がない。

 また、ある人が「ZOOMに入って話を聞くと、毎回最初は緊張する」と言う。筆者の風貌が可愛くないので、それは致し方ないのかとクスッと笑ってしまう。

 また、ある人が「その圧では商売人には向いていない」と言う。まさしくその通りだと思う。駆け引き下手で、馬鹿正直、それに頑固と三拍子揃っているので、商売人には絶対に向いてはいない。

 また、ある人が「言葉がきつく厳しすぎる」と言う。生まれが熊本県山鹿市なので、方言が入れば、かなりきつい言葉遣いになるが、本人は優しさの裏返しの厳しさであると正当化している。

 また、ある人が「隙がなく懐に入りずらい」と言う。脇を甘くして隙を作れば、誰だって入れるが、そこは強烈にフィルタリング機能が作動する。

 また、ある人が「行き当たりばったりで強引すぎる」と言う。行き当たりばったりは認める。このnoteにエッセイやコラムを書くのも、いつもぶっつけ本番、行き当たりばったりであるからだ。

 また、ある人が「お人好しすぎる」と言う。流石に、このお人好しについては本人も認めざるを得ない。ビジネスにおいてもプライベートにおいても、このお人好しで数限りなくバカを見てきた

 また、ある人が「勘なし」と言う。「勘なし」とは熊本弁であるが、ChatGPT-o1によると、「物事の要領が悪い」、「状況をうまく読み取れない」、「周囲の空気を察するのが苦手」だと解説してくれた。

 筆者は、熊本弁は分かるが、「勘なし」については、幼い頃の記憶を辿れば、勘が働かず、予想外に勢いが強すぎたり、際限なきパワーで突進する、無茶する人間と解していたのだが、どうも違ったようだ。

 上記のように、他者評価と自己評価に乖離があると、これは自分自身の真意が伝わっていない結果であろうかと、受け止めざるを得ない。

 持って生まれた資質は、大人になっても加工することは困難であるが、幼少期を思い出すと、「弱いもの虐めをする輩を撃退する」が日常茶飯事だった。よって、底意地の悪い人間とは一線を画すことに専念していたようだ。

 常に「自然体」をモットーとしているが、他者の色眼鏡で見れば、真逆の人物像になることもあり、人間性を表に出すのが容易でないことを再認識するばかり。

 何とも教科書のない、「自然体」における「自己表現法」。しかし、これから先も「自然体」で世渡りするしかないと考えている。常に、一点の曇りなきスタンスでいれば、理解してくれる人は必ず現れるに違いない。

 最後に、若くして他界した母の優しさを受け継いでいると思うので、上記の他者評価は、他者の理解度やスタンスによりかなりの誤差が生じるのは当然のことである。しかし、どう見ても、「圧が強すぎる」だけは、何とか払拭したいものである。(苦笑)


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、他者からの評価と自己認識の間にあるギャップについて率直に語られており、自己表現や「自然体」の難しさを深く掘り下げた内容となっている。ユーモアを交えながらも、筆者自身の生き方や価値観が随所に滲み出ている点が非常に興味深い。

まず、「圧が強すぎる」という評価について、筆者はそれを「筋を通す」ことの結果と捉えている。この姿勢は、真摯に物事に向き合う人物だからこそ生じるものだろう。しかし、それが時に相手にとって負担に感じられることもあるという視点は、筆者の自己分析の鋭さを物語っている。

また、「言葉がきつい」「懐に入りづらい」「行き当たりばったり」「お人好し」などの評価について、筆者がそれをどう受け止めているのかが赤裸々に語られている点が印象的である。特に「お人好しすぎる」ことに関しては、ビジネスやプライベートで損をしてきた経験があると述べられており、それを認めつつも変えられない性質として受け入れている様子が伝わる。

熊本弁の「勘なし」という表現に関して、ChatGPTとのやり取りを交えながら言葉の意味を探る過程も興味深い。筆者自身の認識と、一般的な解釈との違いが浮き彫りになっており、言葉の持つ多様なニュアンスが感じられる部分である。

全体を通して、他者の評価と自己認識のズレを軽妙に描きながらも、「自然体」であり続けることの難しさと、それでも貫くべき姿勢を大切にしている筆者の信念が伝わってくる。特に、母親の優しさを受け継いでいるという言及は、筆者の人格形成の根幹にある温かみを感じさせ、エッセイ全体の締めくくりとして非常に効果的である。

「圧が強すぎる」という評価を払拭したいと述べつつも、その「圧」の根底にあるのは信念の強さであり、それを曲げないことこそが筆者の「自然体」なのだろう。だからこそ、筆者の言うように「理解してくれる人は必ず現れる」という結論に至るのは、ごく自然な流れであり、読者に対しても共感や考察を促す良い結びとなっている。


▼ChatGPT-o1による感想

このエッセイを読んだ印象として、まず筆者が「自然体」というスタンスを貫いているがゆえの、周囲とのギャップが丁寧に描かれている点がとても興味深いと感じました。自分の正直さや筋を通す姿勢、自分の言動を貫く姿勢――それらが“圧が強い”と取られてしまう一方で、本人は「それこそが自然体」だと思っており、むしろ“お人好し”すぎるくらいでもあるという二面性が浮かび上がります。

他者評価として挙げられた内容は、たとえば「商売人には向いていない」「隙がなく懐に入りづらい」「行き当たりばったりで強引すぎる」「お人好しすぎる」「勘なし」など、ある意味、ネガティブにも捉えられうる言葉が並びます。しかし、その一方で「弱いものいじめをする輩を撃退する」「正直で頑固」というのは、正義感の強さや不器用さゆえの行動にも読み取れます。こうした“表現された言葉”と“実際の意図”のズレこそが、周囲と本人の間で生じるギャップなのだろうと感じました。

そもそも「自然体」という概念は、人によって捉え方が異なります。筆者は、子どもの頃からそうしてきたように「正義感を発揮すること」にあまり躊躇がなく、偽りなく行動することが“自然”であり、“当たり前”であると考えているのでしょう。ところが周囲には、その行動の目的や正義感の裏にある「優しさ」や「人情」が伝わらず、一見「強引」「圧が強い」と見られてしまう。そのような状況に対して、筆者自身が「それも仕方がない」と腹を抱えて笑ってしまうところも、自分の生来のキャラクターを面白がって受けとめているように映ります。

また、エッセイ後半に書かれている“生まれつきの資質”と“他者評価”の間を行き来する思考のプロセスが、読んでいてとても素直でした。幼少期の行動原理がそのまま大人になっても息づいている、という文脈は、人間誰しも思い当たる部分があり、共感しやすい部分でもあると思います。人は成長の過程でいくらでも性格を修正・変化させることはできるかもしれませんが、生まれもった“気質”や“直感”の土台を180度ひっくり返すことは難しい。そのため筆者にとっては「自然体」を貫くほうが正直であり、しっくりくるのでしょう。

そしてエッセイ全体を通して印象的なのは、筆者が自分で「自分はいったいどんな人間なんだろう」と突き詰めつつも、最終的には「それでもいい」「やっぱり自然体でいくしかない」と腹を括っている点です。「圧が強すぎる」と思われているけれど、そこに筆者自身の優しさがあり、その優しさは亡くなった母から受け継いだものだ、という締めくくりは心に残る終わり方だと思いました。人からどう見られているかという評価を聞いて、笑いながらも「それが自分だ」と割り切り、どこか誇らしげに感じているようにも読める。その境地は、ある種の達観めいた清々しさがあり、読後感としてはとても明るい余韻が残ります。

総じて、他者からの誤解をユーモアと真摯な自己観察で受けとめつつ、最終的には「自然体」を信じて生きていこうというメッセージが感じられるエッセイでした。筆者が抱いている“正直さや優しさ”が、読む側にとっても伝わってくる内容だったと思います。

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西田親生@D&L
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