見出し画像

元旦からお節三昧の寝正月??

 元旦は亡き父の誕生日、そして二日は亡き母の誕生日である。幼い頃の思い出は、正月にお年玉はあちこちから頂けるが、それが、全部、父や母のプレゼントになっていたことを思い出す。

 よって、お年玉を頂いて喜んでいた自分と、プレゼントで飛んでいくお年玉に別れを告げる自分がいて、何とも言えない、複雑な気持ちの正月であった。

 そのような正月一番の楽しみは、何と言っても、自家製のお節料理である。年末から母や祖母らが、せっせとお節料理を作っていては、つまみ食いして叱られるばかり。「男の子は役立たず!」と言われても仕方ない。

 昔ながらの一般家庭のお節料理であるが、今でも、鮮明に覚えている。

 しかし、写真のように、今では手作りのお節料理とは縁遠くなってしまい、すこぶる豪勢なお節料理が目の前にある。数年前から、熊本ホテルキャッスルの四川料理 桃花源のお節料理がなくなったので、現在は、贅沢にも同ホテルのフランス料理のお節となった。

 普段は毎日のように炭水化物の多い食生活であり、正月にこのようにご飯や麺類のない、肉や魚、そして野菜メインのお節料理となり、胃腸が騙されるのか、いくら食べてもどんどん胃袋に入り、写真下三枚の量をペロリと食べてしまう。(実は、餅と藁苞納豆の仕入れを忘れてしまった)

 これらに加えて、三段重の三の重のデザートのモンブランのケーキを半分、三枚目の写真の料理皿を御代わりしたものが、一日分となった。仕上げにウィルキンソンのジンジャエールを飲み干すと、破裂寸前の風船のように、胃腸はパンパンの状態になっている。

 炭水化物多めの日々と比べ、何となくではあるが、胃腸の調子はすこぶる快調であり、食欲が失せることはない。それに、熊本ではお屠蘇に赤酒(瑞鷹)を頂く習慣があり、食前酒として頂くと、更に、食欲が増す訳だ。

 冷蔵状態で同ホテルから送り届けられてきたフランス料理のお節は、冷たく新鮮であるが、冷たくして食すものは塩分がやや多めに仕上げてあるので、後から喉の渇きがじわじわとやってくる。

 そこに、年末に頂いたチモトの熱々のコーヒーを頂くと、大満足となり、結局、年末の大掃除などで疲労困憊気味の筆者が選ぶのは、寝正月となる。

 オフィスの窓を開け周囲を見回すと、空はどんよりと曇り重々しく、ひんやりと窓から冷気が流れ込んでくる。元旦から外出したいが、体が動こうとはしない。顔の表面と頭頂部までが冷たくなり、また、お節料理の摘み食いに走る。

 この記事を書きながら、何とも言えない気持ちとなるが、お陰様で、年末から爆睡するようになり、健康的な早寝早起に戻っているので、すこぶる良い新年を迎えたように思えてならない。

 末筆ながら、ここ数年間、筆者の近しい人たちのご両親の訃報が相次いだので、正月といえども、賑々しく祝いができはしない。それを考えると、親族の急逝は、遺族にとっては精神的に相当重圧となる。筆者も経験者であり、当時の静かな正月を思い出すのである。

 因みに、今年のプロジェクト参画者との合言葉は「言行一致」。元旦といえども、筆者の頭は仕事に向けて動き始めている。年末年始のテレビ番組など全く暇もなく、新年からのビジネス展開をどうすべきかを、今、記事を書きながら自問自答しているところである。

 思考回路が動けば栄養を欲しがるが、このフランス料理のお節により、日頃の数倍の勢いで脳が動き出しているんだと、自己暗示を掛けている次第。

 ごちそうさまでした。


▼元旦に食したお節料理の数々

古典的なパイ包のステーキは好み
サーモンが美味い
二枚目のパイ包ステーキもしっかりと!

▼熊本ホテルキャッスル フランス料理おせち

一の重
二の重
三の重

▼ChatGPT-o1による感想

このエッセイを読むと、まず筆者の「正月」という特別な時間の過ごし方に独特の背景があることに気づかされます。亡き父母それぞれの誕生日が元旦と二日であるという“特別感”に加え、幼い頃のお年玉の思い出―もらったと思いきや、両親へのプレゼントに消えていく複雑な感情が描かれています。お正月の慶びと誕生日を祝う行事が重なった家庭の独自色が、文章の奥行きを深めていると感じられます。

一方で、エッセイの中核となっているのは「お節料理」の存在です。かつては手作りだった一般的なお節料理が、今では熊本ホテルキャッスルのフランス料理という豪勢なものに変わっている。その変化自体はありがちにも思えますが、かつての母や祖母の手作り料理をつまみ食いして叱られたエピソードが、どこか微笑ましさと懐かしさを同時に呼び起こします。昔ながらの手作りの味からホテルの華やかなフレンチへ、時代の移り変わりや生活の変化が、筆者の正月行事を大きく変えたのだということが、しみじみと伝わってきます。

また、正月の食事なのに、ご飯や麺類などの炭水化物がほとんど登場せず、代わりに肉・魚・野菜といった食材をメインに満喫するという点は興味深いです。「炭水化物をほとんど摂らないから、どんどん胃袋に収まってしまう」という筆者の言葉には、自分でも止まらないほどに食べてしまう感覚がユーモラスに表現されています。さらに、冷製のフランス料理は塩分が多めになりがちで、後から喉が渇くというリアルな描写が、正月料理の“現代版あるある”ともいえ、読み手にも想像がしやすい具体性を与えています。

加えて、文中には「赤酒(瑞鷹)をお屠蘇として頂く」「チモトの熱々のコーヒー」など、熊本らしい食文化も散りばめられているため、地域性や風土が垣間見えるのも面白いところです。関東やその他の地域ではあまり馴染みのないお酒やコーヒーをさらりと紹介している点が、筆者の暮らしが単なる正月行事ではなく“土地の習わし”に根ざしていることを強調しているように感じます。

一方で、筆者がふと正月の過ごし方に目をやると、「年末の大掃除で体力を使い果たしたせいか、動きたくても動けない」「外の冷たい空気に当たるとまたお節をつまみ食いしたくなる」という“あるある”な状況をコミカルに描いています。“寝正月”というと少しだらしない印象にもなりそうですが、そこに至るまでの経緯や正月特有の雰囲気が重なることで、読者にはまったく嫌味のない滑稽さと、ちょっとした共感を誘います。

さらに、筆者自身が“年明けからもう仕事が頭を占めている”という事実にも注目したいところです。「言行一致」を今年のプロジェクトの合言葉としながら、新年早々からビジネスへの思考をめぐらせている。おそらく、年末年始のテレビを見る暇もなく、脳内では“来る一年をどう動かすか”という構想が煮詰められている状況でしょう。大人になると、いわゆる「正月だからリラックス」という単純な時間の切り分けができなくなりがちですが、その思考回路がフル回転する姿は、筆者のワーカホリックぶりを含め、人間くささと強い意志の両面を感じさせます。

そして、ご両親だけでなく、ここ数年は周囲の大切な人々の訃報も相次いでいるため、「賑々しく祝う」ことへのためらいも筆者の心境にはある。大切な人を失った際の喪失感や静かな正月の体験は、華やかな行事を喜ぶ一方で、独特の寂しさや静けさをも思い出させるのでしょう。その点が、記事後半の語りに奥行きを与えています。

総じて、本エッセイは、

  1. 幼少期の正月の思い出(複雑な感情)

  2. 現在の豪華なお節と昔ながらの手作りとの対比

  3. 地域性(熊本の文化)を感じさせる食材・習慣

  4. 年明けから既に仕事脳が動き始める大人の視点

  5. 親族や知人の訃報が続き、華やかなだけではない正月の想い

といった複数のテーマを織り交ぜながら、正月ならではの情景・空気感を描写しています。ノスタルジーと現代的な“ホテルお節”の豊かさが混ざり合った、ユーモアのある筆致と、ほんの少しの寂しさが同居するエッセイになっているのが魅力でしょう。

正月という季節行事を超えて、人が年の節目に抱くさまざまな想い―亡き家族への郷愁、大切な人との別れ、新しい年への決意、そして身体を癒す食事や睡眠など―そうした生々しい感情が、読み手にゆったりと伝わってくる一篇だと感じました。筆者自身のリアルな日常描写と新年の抱負が交錯することで、「正月は節目でありながらも、日常の延長線上でもある」という、ある種の日本人らしい感覚が反映された文章と言えるでしょう。

いいなと思ったら応援しよう!

西田親生@D&L
サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。