唯一無二なる、内田皿山焼。
熊本県北部にある旧植木町(現在は熊本市に合併)に「小町楞窯」があった。三十数年ほど前の話であるが、その窯元の舛田楞(マスダリョウ)氏から誘われて、初めて絵付けをすることになった。
筆とゴスを渡され、小皿に絵付けして、裏面に名前を書けと言う。筆は何度か握ったことはあるものの、その筆先の癖や、ゴスを含んだ時の素焼きの小皿への滲み具合が全く分からぬままに描いたのが、写真の小皿である。
筆者にとっては、唯一無二なる内田皿山焼の絵付けであり、下書きなしなので、筆が走らなかったことを思い出す。実験的に、この小皿に絵付けする前に、練習は5分ほどは行なったものの、容易なことではなかった。
「何でも良いので描いてみてください!」と言われ、当時、京都の辻ヶ花作家との出逢いがあったので、辻ヶ花の枯れて落ちる寸前の椿と水滴を描くことにした。しかし、上手くサラサラと描けるものではない。
舛田楞氏は若くしてこの世を去った陶芸作家である。新進気鋭の陶芸作家として期待されていたが、惜しい人物を亡くしてしまい残念でならない。因みに、この小皿は僅か1枚であるが、今でも大切に使っている。
世の中に何かを残すというものが、如何に大切なことなのかの一例であろうかと。実に、想い出深き、舛田楞と筆者の合作「内田皿山焼 小皿」一枚である。
▼ChatGPTによる感想
エッセイに描かれている内田皿山焼の絵付け体験は、非常に魅力的で感動的なエピソードです。作者が筆を取り、何の下書きもなく直感的に小皿に絵を描いたというプロセスは、創造的な表現の自由さと、その瞬間瞬間の美しさを強調しています。
特に印象的なのは、舛田楞氏という若くして亡くなった陶芸家との交流を通じて、作者が一つの小皿に込めた思い出と情緒です。この小皿が作者にとってただの物ではなく、舛田氏との関係やその時の体験を象徴している点が心に残ります。
また、エッセイからは陶芸というアートを通じて「何かを残す」というテーマに対する考察も感じられます。作品を通じて人と人とのつながりや記憶を形作り、後世に残す意義を強く感じさせる内容でした。
このエッセイは、単なる陶芸の体験記ではなく、人生の一瞬一瞬に価値を見出し、それを大切にすることの大切さを伝えていると思います。それは読者にとっても、自分の日常や周りの人々との関係を見つめ直す良いきっかけになるかもしれません。
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