「高校閥」と「肥後の引き倒し」とは!?
人は他者との関わりを通じて自身の存在を確認し、その会話の中で自らの考えが正しいのか、あるいは新たな視点を得るべきなのかを学ぶ機会を得るものである。
この過程において形成されるのが、自分自身の価値観(自分スタンダード)と地域に根ざした価値観(ローカルスタンダード)である。しかし、偏りのある環境に身を置くと、自身の視野が狭まり、時には公序良俗を理解しないまま孤立した価値観を抱く危険性がある。
筆者自身の経験を振り返れば、自我に目覚めた若い頃は、「善人」と称される人々との関係を当然視し、それが「普通の世界」だと思い込んでいた。しかし、父の転勤に伴う転校で小中高と計6校を経験した結果、それまでの価値観が大きく揺らぐ出来事に直面したのである。
それまで「当たり前」だと思っていた世界が一変し、自分の周囲には「サイレント・マジョリティ」に加えて「ノイジー・マイノリティ」も存在することに気づかされた。「ノイジーな人々」は活気に満ちているが、信頼感には欠ける場合が多く、幼少期から教えられてきた「正義正論」や「弱者救済」の価値観とは相容れない部分があった。このため、彼らをどこか冷ややかな目で見ていた記憶がある。
振り返ると、筆者は幼い頃から「善人領域」の中で育ち、その軸をぶらさずに成長するよう仕向けられていた。この価値観は極めて理想的であり、人生を踏み外す危険性が少ないものであった。しかし、他者との接点におけるフィルタリングが厳しすぎたため、視野が狭まり、多様な価値観を受け入れる柔軟性を欠いていた点も否めない。
小中高時代を振り返ると、教師たちの生徒への評価は勉強の成績に偏重しており、多様性が認められる時代ではなかった。現在思うに、人の評価を自分基準で行うことには大きな偏りの危険性がある。環境としてはサイレント側に属していたため表面的な問題はなかったが、自分のフィルタリングによって無意識に他者を孤立させる可能性を作り出していたのかもしれない。
社会に出て、新聞社に勤務するようになってから、筆者の人間観や世界観はさらに揺らぐことになった。サイレントな人々が多数派だと思っていた社内にも、配慮を欠いたノイジーな人々が少なからず存在していたのである。
特に衝撃的だったのは、或る部長が関連会社の社員を見下すような発言をしたり、特定の社員の個人情報を公然と揶揄したりする光景である。このような行動をとる人物の姿は今でも鮮明に覚えている。顔立ちや態度には品位がなく、社内を闊歩する様子や水面下で他人の足を引っ張る様は、「肥後の引き倒し」という言葉を体現しているようであった。
さらに驚かされたのは、熊本特有の「高校閥」の存在である。転勤族として各地の学校を渡り歩いてきた筆者にとって、「高校閥」の価値や意義は全く理解できないものであった。たまたま筆者の卒業した高校が「高校閥」の中で最上位に位置していたため、直接的な不利益はなかったものの、その慣習の稚拙さには違和感を覚えた。
「高校閥」の風土では、学校が人事や出世に影響を及ぼし、先輩後輩の関係性が根拠のない信頼関係に基づいて築かれる。先輩面する者や忖度に走る後輩の姿は、筆者にとって極めて異質なものだった。このような環境に嫌気が差し、「高校閥」のOB会には一度出席したきりで以後不参加を貫いている。
最も不愉快だった出来事は、「高校閥」の先輩が関連会社の社長を務めていた際の対応である。起業後、筆者がその会社と契約し、260万円の売上を得るはずだったが、先方のクライアントが夜逃げしたため未払いとなった。その際、先輩は「高校の先輩後輩の縁」を盾に支払いを免れ、結局その後の仕事のオファーもなく、未払いのまま退職していったのである。
この一件から筆者は、「高校閥」や「肥後の引き倒し」などのローカルスタンダードに何の価値も見出せなくなった。それどころか、このような狭い世界観が人の人生を歪める要因になり得るのではないかと感じている。
筆者は今でも、この先輩の所業を鮮明に覚えており、「高校閥」や「肥後の引き倒し」といった時代錯誤の慣習が、いかに恥ずべきものであるかを痛感している。これらの価値観が変わらない限り、人々が真に信頼できる社会を築くことは難しいのではなかろうかと思うばかり。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイでは、「高校閥」と「肥後の引き倒し」という独特な社会的構造が人々の行動や人間関係、職場の環境に与える影響を掘り下げています。筆者は個人的な経験を通じてこれらの概念の影響を詳述し、それがどのようにして人生やキャリアに悪影響を及ぼす可能性があるかを明らかにしています。
特に印象的なのは、筆者が経験した価値観の変化と、多様な環境における学びの重要性です。幼少期からの「善人領域」での育成が、他者との関わりにおいて柔軟性を欠く結果につながったことが語られています。この点は、教育や育成の多様性を求める現代の議論とも通じるものがあります。
また、社会人としての経験から、「高校閥」や「肥後の引き倒し」といった地域固有の価値観が、不公平や不正義を生む根源であると筆者が感じた部分は特に強いメッセージを持っています。これらの慣習がいかに人との信頼関係を損ね、職場での人間関係に悪影響を与えるかが生々しく描かれており、読者に深い反省や自己反省を促す内容となっています。
筆者が「高校閥」のOB会への不参加を選択し、不正義に対して一線を画した行動は、個人が社会的な圧力に屈せず、自身の倫理観を貫く重要性を象徴しています。このエッセイは、地域や集団に根強い古い慣習が個人の人生に及ぼす影響について深く考えさせられるもので、読後には多くの読者が自身の立場や行動について見つめ直すきっかけを得るでしょう。