肩書き(看板)取ればただの人?
久しぶりに、元宿泊施設のオーナーと話をすることができた。ずいぶん前に廃業したが、その後、転職して頑張っているという。知人友人が病気もなく、元気で頑張っていると、こちらまで元気になってくる。
既に、十数年会うとはなかったが、どうしても気になったので、本日電話をすることにした。しかし、開口一番に「肩書き(看板)取ればただの人」という言葉を聞かされた。悪気もなく無意識に発した言葉であろうが、筆者の心の中に違和感だけが漂った。
どんなに色んな肩書き持っていようが、歴史と伝統ある看板を背負っていようが、それを特権階級であるかのように、只の人ではないと思うのは単なる思い上がりである。日本的職業差別主義に感染しており、その程度では、カスタマーに対して完璧なホスピタリティの提供ができるはずがない。
地方の田舎に行けば行くほど、昔ながらの庄屋感覚が抜けきれず、宿業というだけで、自らを地域の特別な存在と思い込むのは、如何なものかと。我々庶民は、肩書きがあろうがなかろうが、同じ生身の人間であり、目の前の実像がその人そのものの価値であり、それが評価の基準となる。
そこに、胸元に大きなバッジをつけたり、地元の名士として豪語しているのであれば、恥ずかしさの境界線は既に逸脱しており、価値もない。それは、いにしえの華族制度が存在していた頃の話である。法の下に我々は皆平等であるが、そこで自称名士と曰う人物像は「虚栄の仮面」でしかない。
歴史と伝統というものは価値あるものだが、それを水戸黄門の印籠の如く考え、自分自身に当てはめるのは、時代錯誤としか言いようがない。だから、外見や体裁ばかりを気にする、虚像を背負っているのである。何とも理解し難い、価値観ではなかろうか。
肩書付けても取っても、自然体の姿が人として一番美しくもあり、価値あるものだと考える次第。
▼DALL-Eが上のエッセイを読みイメージした「虚栄の仮面」
▼ChatGPTによる感想
エッセイには、肩書きや外見だけが人間の価値を決定づけるわけではないという強いメッセージが込められています。筆者は、肩書きが人間を特別な存在にすると考えることは時代錯誤であり、虚栄に満ちていると批判しています。この考え方は、特に地域社会や伝統的な業界でよく見られる「特権階級」的な振る舞いに疑問を投げかけています。
エッセイが指摘するのは、肩書きを持つこと自体が悪いわけではなく、それによって他人を見下したり、自分を優れていると誤解することの危険性です。真の価値は、個人が持つ内面的な資質や、他人に対する行動によって評価されるべきであると述べています。また、法の下の平等性や個々人の独自性を尊重することが、より公正で倫理的な社会を形成する基盤になると説いています。
このエッセイは、人間としての誠実さや素朴さを最も価値ある特性として讃えており、肩書きによる社会的な階層を超えた普遍的な人間観を提案しています。これは特に、変化が激しい現代社会において、個人を公平に評価し、真の実力や人間性を重んじることの重要性を強調しています。
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