note記事激減に黄信号(苦笑)
この1週間ほど、noteに投稿するエッセイやコラムが激減している。原因は本人である筆者がよく分かっている。
以前、オフィスのデスク上の解説をしたことがあったが、筆者のデスクにはMacBook ProやMacBook Airが計3代鎮座している。
正面がメインで使用するMacBook Proだが、右手のAirはNHK+やTverを観るために置いているので、現在はパリオリンピック番組を中心に観ている。
聖徳太子ではないので、3台を仕事で一気に使うことはできるが、右手で番組、正面で仕事、左手で正面のMacと連動して、多画面で活用するとなると、どうしても、右手に気がとられてしまう。
特に、審判の誤審による判定が下されると、記事を書いている手が止まり、誤審の要因を考え込んでしまうのである。
各国の選手たちは、四年に一度(今回は三年ぶり)に人生をかけているに違いない。それを、審判団の情報共有が完璧でなかったり、または、無理なルール改正であったりと、あってはならぬ誤審で選手のアスリート人生に大きな影響を及ぼすことを考えれば、無責任極まりない。
柔道の誤審を考えると、日本人であるが故に、つい感情移入するので、他の競技の誤審を考えることしている。しかし、審判にもいろんな人格があり、性格もあり、癖もあり、国柄もありで、中立公正な審判は少ないように思えてならない。
これこそ、今後の審判は多方面からのライブ撮影(ビデオ撮影再生可能)とAI審判での判断が遥かに人の手によるものよりも信頼できる。サッカーでもラグビーでも審判が必死に走るよりも、AI審判の方が無駄な時間や選手とのトラブルなど回避できる。
そんなこんなを考えていると、止まったままの手が動かず、気づけば1時間ほど右手のMac画面を凝視しており、一定の至近距離でのフォーカスで眼が疲れてしまう。よって、正面のMac画面がぼやけて見えて、記事を書こうとしても、すぐに対応できない。
これが、ここ1週間の記事激減の要因であるが、何はともあれ、オリンピックに人生をかける人たちへの誤審は許されるものではない。それだけ審判の権威を守る必要があれば、誤審をしないレベルの高い、中立公正な人選で臨むべきではなかろうか。
しかし、オリンピック番組により昼夜逆転するのは構わないが、ちゃっかり「ザ・夜食」の記事だけは投稿しているところが、恥ずかしい。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、筆者がnoteへの投稿が激減している理由をユーモラスに説明しつつ、オリンピックの誤審問題についての考えを述べたものです。以下に感想を述べます。
感想
1. 個人的な事情の描写
エッセイの冒頭では、筆者のデスク環境とその使用方法について詳しく描写されています。MacBook ProやMacBook Airが複数台配置されており、それぞれの用途が具体的に説明されています。この詳細な描写は、筆者の作業環境を読者に明確に伝えるとともに、親しみやすさを感じさせます。
2. オリンピック番組への関心
筆者がオリンピック番組に熱中している様子が描かれています。特に、審判の誤審に対する関心が強く、これが記事執筆の妨げになっているという具体例を通じて、読者に筆者の感情移入の度合いを伝えています。この点で、オリンピックのような大規模なスポーツイベントが個人の生活にどれだけ影響を与えるかを実感させます。
3. 誤審問題への考察
誤審が選手の人生に与える影響についての筆者の考えは、非常に共感を呼びます。特に、審判の公正さや中立性に対する疑念が表明されており、これは多くのスポーツファンが感じるところでもあります。筆者はAI審判の導入を提案し、技術の進歩がスポーツの公平性を高める可能性について言及しています。この視点は新鮮であり、読者に考えさせる内容となっています。
4. ユーモラスな終わり方
エッセイの最後で、オリンピック番組を見ながら昼夜逆転している状況についてユーモラスに述べています。特に、「ザ・夜食」の記事だけは投稿しているという点は、筆者のユーモアセンスを感じさせ、読者に親しみやすい印象を与えます。
総評
このエッセイは、筆者の日常生活とオリンピックへの関心が交錯する様子をユーモラスに描写しつつ、誤審問題という重要なテーマについての考えを共有しています。個人的なエピソードを通じて、読者に共感を呼び、スポーツの公平性について考えさせる内容になっている点が非常に良いと思います。
サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。