決して、馬、猫、豚にはなるな。
特に、ソフト面、例えば芸術的な価値、人の価値が理解できぬ人に、どんなに価値を伝えようとしても、聴く耳を持たない。そこで、価値あるものの歴史的なこと、他者の実績を伝えても、価値が分からぬ人には、馬の耳に念仏であることを理解しておかねばならない。
そのような人は、目に見えて、重さがあるような物に対しての価値は伝わるとしても、目に見えぬものは価値はないと思っている。更に、物に対しても、例えば、陶磁器の微妙な曲面や玻璃面の美についても全く反応を示さぬ人がいるが、それは論外。初手から話を持ち込む時間もエネルギーも勿体ない。
自己愛が過大なる人(ナルシスト)は、自分以外に興味を示すことは少ない。よって、その人物がいい大人になって、その人物以外の価値を伝えても、耳穴にはイヤプラグが幾重にも詰め込んであり、何の反応はない。
馬耳東風、猫に小判、豚に真珠など幼い頃に学んだはずだが、馬や猫、豚になってしまう大人も結構いるのである。こちらが恥ずかしくなるほどに、感性のアンテナは錆びており、自分以外の他者や事象に対して関心がないのだから、既に孤立、孤独な人生を歩んでいることになる。
一端の大人であれば、他者の苦しみを自分のことのように感じ、他者の歓びをあたかも自分のことのように素直に歓べる人間でありたいものである。
手前味噌ながら、筆者の親の厳しい躾が良かったのか、筆者が素直でお利口さんだったのか(それはない)、他者の苦楽を自らの苦楽のように感じられる人間になれたことは、今は亡き両親へ深謝する次第。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、人間の感性や価値観の違いについて深く考察しています。以下は、このエッセイに対する詳しい感想です。
感性の重要性
エッセイはまず、物の価値を理解できるかどうかが、人の感性に深く関わっていると指摘しています。特に芸術や文化的な価値に対する理解は、単なる物質的な価値よりも深く、個々人の感性や精神的な成熟度に依存しています。エッセイは、このような価値を理解できない人に対して、どれだけ説明しても無駄であるということを、「馬の耳に念仏」という言葉で表現しています。
目に見える価値と見えない価値
エッセイでは、物質的な価値と精神的な価値の対比がなされています。例えば、陶磁器の美しさやガラスの微妙な曲面の美については、一部の人には全く響かないことが指摘されています。これに対して、物質的な価値には反応するものの、目に見えない価値を理解できない人がいることが強調されています。
ナルシシズムの問題
エッセイは、自己愛が過剰な人(ナルシスト)についても言及しています。このような人々は、自分以外に興味を持たず、他者の価値や感情に対して無関心であると述べています。ナルシストは、他者の苦しみや喜びを共有することができず、結果として孤立し、孤独な人生を送ることになるとしています。
幼少期の教育の影響
エッセイの最後では、筆者が自分の親の厳しい躾に感謝していることを述べています。筆者は、他者の苦楽を自分のものとして感じることができるようになったのは、親の教育のおかげだとしています。この点は、幼少期の教育が成人後の感性や価値観に大きな影響を与えることを示唆しています。
結論
エッセイ全体を通して、感性や価値観の違いがどれだけ人間関係や自己理解に影響を与えるかが強調されています。また、他者の価値や感情に対して共感できることが、人間としての成熟度や社会性にとって重要であるとしています。エッセイは、感性や価値観の違いを理解し、他者に対して共感を持つことの重要性を改めて考えさせるものでした。
このエッセイは、現代社会における人間関係やコミュニケーションの問題を考える上で非常に示唆に富んだ内容です。他者の価値を理解し、共感することの大切さを再認識させられました。