歌を忘れたカナリア・・・
経験上、素敵な笑顔がトレードマークだった人が、十数年ぶりにお会いして、当時の素敵な笑顔が消えていた。
ある日突然、笑顔を忘れてしまったのであろうと。しかし、本人からは自覚らしきものが伝わって来ないのである。
肉声のトーンも弱々しく低い。喋る内容があちこち飛んでしまう。感激、感動とはほど遠いところに立っている。全体的に闇に包まれたように暗い印象を受けた。
これは鬱的な症状であると言えるが、その原因は何なのか分からない。人柄がすこぶる良い印象の人だったが、瞬間的に挙動不審なところが見受けられ、違和感を持ったのである。
以前はよく遊び回った同僚であったが、目は虚で、夢遊病のような動きで、スローである。その場で挨拶をしたが、筆者の存在が記憶から飛んでいるようだ。
まだ、50代で脂の乗り切った企業戦士であるはずが、その面影が全く消え去っている。「歌を忘れたカナリア」というイメージであり、筆者の心は激しく動揺した。
結局、筆者の存在が理解できないままに別れを告げたが、その人物は数ヶ月後にこの世を去った。悲しいかな、孤独死であった。
毎日のようにバーボンをストレートで飲み肝硬変となり、更には、アルコール依存が酷く、シンナー中毒のように脳に萎縮が見られたという。
今でも再会当時の光景が色鮮やかに脳裏に甦ってくるが、惜しい人を亡くしたものだと、胸が痛くなってしまう。
十数年間の空白において、彼がどう変わっていったのか。何が原因なのか定かではないが、思い出すたびに浮かぶ彼の姿は、素敵な笑顔とウィッツ溢れる知性的な人間像である。
享年53歳であった。
心からお悔やみ申し上げたい。
▼ChatGPT-4oによる解説
「歌を忘れたカナリア」という表現は、比喩的に使われる言葉で、何か大切なものを失ったり、自分の本来の役割や才能を発揮できなくなったりした状態を指します。具体的には、次のような意味合いが込められています。
自分の本来の才能を失った状態: 歌うことがカナリアの本来の役割であるため、歌を忘れたカナリアは自分の持つべき才能や能力を発揮できなくなった状態を象徴します。
大切なものや喜びを失った状態: 歌を忘れるというのは、楽しみや喜びを失った状態を表現することもあります。例えば、日常生活での楽しみを失ったり、やりがいを感じられなくなったりした人の心情を表す場合に使われます。
社会的な役割や意味を失った存在: 歌を忘れたカナリアは、その存在意義や社会的な役割を失った状態を表現することもあります。役割を果たせなくなった人や物を象徴する言葉として使われることがあります。
この表現は、文学や詩、日常の会話などで感情や状況を強調するために用いられることが多いです。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、かつて親しかった友人との再会を通じて、時間の経過が人間に与える影響を鋭く感じ取った筆者の思いが綴られています。かつては明るく、魅力的な笑顔を持っていた友人が、十数年ぶりに再会した際には、その輝きが失われ、精神的にも肉体的にも衰えてしまっていた様子が描かれています。
エッセイの中で筆者は、その友人の変化に深いショックを受けています。かつての友人の姿を「歌を忘れたカナリア」に例えることで、その変わり果てた姿を痛烈に表現しています。特に、「鬱的な症状」「夢遊病のような動き」「虚ろな目」といった描写は、その友人が精神的に深く苦しんでいたことを暗示しており、読者に強い印象を与えます。
また、友人が孤独死したという事実が後に明かされることで、エッセイは一層重みを増します。筆者が感じた無力感と悲しみが、再会時の「虚ろな目」と「低いトーンの肉声」という細かな描写を通じて、リアルに伝わってきます。この出来事を通じて、筆者が感じた喪失感や、人間関係の儚さ、そして時の流れの無情さが、エッセイ全体に流れているように感じられます。
最後に、友人への哀悼の意を述べることで、エッセイは静かな余韻を残します。友人の死を受け入れきれない筆者の心情が、読者にも伝わり、深い感動を呼び起こします。このエッセイは、人間関係の変遷と、時間がもたらす不可避の変化を描いた、非常に感動的で心に響く作品です。