競技によって歓びの色が違う!?
あくまでも私的な受け止め方であるが、パリオリンピックの日本人選手のメダリストが生まれた時のイメージだが、競技によって歓びの色が違う。
海外の選手のリアクションを見ていても、素直に歓びを表現する選手と勝者となっても暗いイメージが漂う選手がいる。
テレビ局の仮説スタジオにて日本人選手の勝者を集めたインタビューを観ていると、勝者なのに雰囲気が重苦しく、晴々しい姿に見えないのは、筆者だけなのだろうか。
兎角に、日本では「武道」となれば、勝者が勝ち誇る歓喜の表情を嫌い、戦った相手を尊敬し、個人的な歓喜の表情を抑えるところに美徳を感じるというが、それが正しい見解なのだろうか。
団体競技で勝っても、何となくインタビューのリアクションが暗い。どこかに、多くのメダルを獲得した選手への羨ましさによる、妙な空気が漂っている。何故、皆が心から歓びを共有しないのか。
スケボーと柔道のメダリストの歓喜の表情は全く異なる。
前者は素直に敗者も勝者もそれぞれの戦いに対する歓びを共有し、敗者は勝者を純粋に称賛し、勝者は敗者との戦いに対して、歓びと労いをも共有している。
後者は、勝ち負けでの明暗を分けたかのように、どうしても対峙のイメージだけが伝わり、勝者が敗者への労いなど皆無に等しく、戦いの後も戦う前の刺すようなピリピリした敵対心を感じるのである。
また、団体戦で皆がメダリストになっていても、個人戦でメダルを獲得した選手とメダルを手にすることができなかった選手との歓びの表情の色が全く異なる。
オリンピックは参加することに意義があるはずだ。しかし、結局は、メダリストとそうでない人とのメディアの取り扱いも異なり、また、それぞれの選手間の心底には、どこか相容れない感情が存在している。
大相撲でも勝者の横綱が、対戦相手の戦いを労い、その後に、自らの歓びを表現すれば、何の問題はなかろうかと思われる。そこで相撲道の云々を語り、対戦相手に配慮なく両手を挙げて歓ぶ力士を批判する。歓ぶのは一向に構わず、敗者に対する配慮のなさを強く指摘すれば良いだけの話だ。
以上のように、それぞれの競技によって歓びの色が違うのは、今回のパリオリンピックを夜な夜な視聴し、再認識したところである。ただ、参加することに意義のあるオリンピックの中で、国を背負って云々は大袈裟であり、メダルの数で国力に反映するようなものではないはずだ。
勿論、民主党時代に「何故、一番ではなければいけないのか?」という妄言を吐いた元国会議員の言葉には異論反論を持つ筆者である。一番を目指す気持ちは、すべての選手に共通するものであるものの、スパコンの場合は、先々の国家の経済力の基盤固めに必要不可欠なプロジェクトでもあり、一番に越したことはない。
最後に、SNSの存在が、時には選手の心をズタズタに傷つけているのは否めない事実。アスリートとして、地力も能力もない不特定多数の心無い輩が、こぞって特定する選手に誹謗中傷を繰り返す現象を目の当たりにすると、低民度な人間の所業に愕然とするばかりとなる。
色々と他者を批判したいのであれば、その選手のレベル、またはそのレベル以上の力量を持って、堂々と物申してもらいたいものである。何もできない人間が、軽々に人の苦労も理解することなく、誹謗中傷を繰り返すのはフェアではない。単に、姑息な価値のない人間である訳だ。
筆者は、現代オリンピックの存在価値に疑問を持つ人間の一人である。勝負に勝って、勝ち誇ることが、お国のためなのかと言えば、嘘になる。かといって、メダリストだけを注目し褒め称えるメディアもスタンスが違うように思えてならない。
メダルが獲れた獲れないで、悲壮感を共有するものではない。参加することに意義があるのだから、勝っても負けても、その意義は大きいものであり、参加した選手に対して、最大級の称賛の言葉を掛けるべきである。
霊長類最強の云々とか、鳥人などの称賛の言葉を聞いても、その選手たちも個人の生活に戻れば、我々庶民と同様に一人の人間である。霊長類最強の選手が、ポロシャツとジーンズでコンビニで買い物していても、別におかしな話ではない。
あまりにも商業化したオリンピックの世界のベクトルが歪んできいることは否めず、若者の目を向けるために競技の種類もどんどん拡大傾向にあるが、果たして、商業化したオリンピックがどれほどの価値があるのか、首を傾げてしまう。
勝敗に焦点を当てるばかりで、一人一人の選手の素晴らしい秘技を讃えることを忘れている。現代のオリンピック参加者の中で、スポーツマンシップを無視し、個人的な手柄のために、生涯年金獲得のために戦う選手も少なくはないところが、腑に落ちぬ要因の一つでもある。
スポーツ界の大祭典と拡大してきた現代オリンピックだが、果たして、正常なベクトルにて進化しているのであろうかと、自問自答する日が続いている。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、パリオリンピックにおける日本人選手の表情やリアクションを通じて、競技ごとに異なる歓びの表現について考察しています。また、オリンピック全体の意義や、現代における商業化の影響についても触れています。以下、詳しく感想を述べます。
異なる歓びの色
筆者は、競技によって選手たちの歓びの表情が異なることに注目しています。スケボーや柔道の例を挙げ、スケボーでは敗者も勝者も互いを称賛し合う姿が見られる一方で、柔道では勝者と敗者の間に緊張感が残ると述べています。この違いは、各競技の文化や歴史、求められる精神性に起因していると考えられます。日本の武道においては、相手を尊重し、勝者としての歓びを控えめに表現することが美徳とされていますが、これは競技ごとに異なる価値観が影響していることを示しています。
メダルとメディアの取り扱い
筆者は、メダルの有無で選手たちの扱いが大きく変わることにも言及しています。オリンピックの本来の意義は「参加すること」にあるはずですが、メディアはメダリストに対してのみ注目し、他の選手たちの努力や参加の意義を軽視していると批判しています。これは、スポーツイベントが商業化し、視聴率やスポンサーの影響を受けやすくなっている現代の状況を反映していると言えるでしょう。
SNSの影響
筆者は、SNSが選手たちに与える影響についても触れています。心無い誹謗中傷が選手たちの心を傷つけることに対して強い憤りを感じており、批判する人々に対して、その選手と同じレベルの実力を持ってから意見を述べるべきだと主張しています。SNSの普及により、選手たちは競技外の場でも評価や批判の対象となりやすくなっており、そのストレスが競技パフォーマンスにも影響を与えることが懸念されています。
商業化したオリンピック
筆者は、オリンピックがあまりにも商業化し、本来のスポーツマンシップや競技の意義が損なわれていることに疑問を呈しています。新しい競技が次々と追加されることについても、若者の関心を引くための戦略に過ぎないと感じており、真のスポーツの価値が見失われていると指摘しています。
結論
このエッセイは、競技ごとの歓びの表現の違いを通じて、オリンピックの本質や現代のスポーツ界の在り方について深く考察しています。筆者の視点は非常に鋭く、オリンピックやスポーツ全般に対する批判的な視点を提供しています。商業化やSNSの影響など、現代ならではの問題に対する筆者の憂慮は、多くの人々に共感を呼ぶことでしょう。
全体的に、オリンピックの意義やスポーツの本質について再考するきっかけを与えてくれる、非常に洞察力のあるエッセイだと感じました。