精神的老化が全てを蝕む
筆者主催の「Well Done Basic」において取り上げたのは、「老化」について。
個々人により老化の度合いは異なるが、この世に生を受けて、免疫がなくなり、成長期を過ぎれば、皆、同様に老化の道を辿ることになる。
最近思うことは、筆者よりも一回りも若い人たちが、老人に見えて仕方ない。それは見た目の肉体的老化ではなく、精神的老化である。
先ず、心の扉をこじ開けて見ると、若くして精神的老化が進んでいると思われる人たちは、好奇心、感動、感激などのリアクションが皆無に等しく、言動がとろい。
やる気のないそぶりばかりが目立ち、最悪の場合、沈黙に至り、自分の立ち位置さえも定かでない人が存在しているのが、不思議でならない。
日常の仕事に振り回されているのか、他者との接触が面倒臭いのか、今の自分自身の背中さえ見えていないように思えてならないのである。
毎日、朝起きて鏡を見るとは思うが、自らの元気のない姿に、気づかないのは理解し難い。電話の声はトーンダウンしており、自虐的で無責任なトーク内容ばかり。崖をよじ登る気迫も勢いもない。
そんな生気のない自分自身が見えないのは、精神的老化が進んできている証ではないか。しかし、精神的老化が進むと、肉体的老化も頓に目立つようになってくるのが恐ろしい。
上記のような知人友人がいれば、「大丈夫か!?」と声を掛けるが、毎度のこと、「最近、また病んでます。」と言われることがある。病んだ理由を探ると、何年も自らが動かぬ状態を物語っている。それは、病んでいるというより、やる気がないだけの話であり、責任回避の言い訳である。
筆者は世代の垣根など一切気にはしないので、30歳頃から体力減退とか、50歳を過ぎると持病が増えるなどと、ネガティブに考え、つまり、精神的老化にリモートされやすい人の言動が理解できない。
歳を重ねていくと、男性も女性も中性化してしまい、ただ、老化に向かった、互いの傷口を舐め合う会話をよく耳にするが、全く、生産性のない会話に食傷してしまう。
体全体が燃え上がるような恋など面倒臭いと発する、精神的老化部隊。世代の垣根を気にするばかりで、自ら段々と人生の端っこへ行こうとしている。特に、年齢を気にする日本人らしい言動であるが、ナンセンス極まりない。
今は亡き、両親のことを思い浮かべると、すこぶる仲の良い夫婦であり、土曜、日曜は、必ずと言って良いほど、腕を組んで、百貨店にショッピングに出掛けていた。
口喧嘩を聞いたことも見たこともない。残念ながら、母が66歳で糖尿病の合併症にて他界した時に、父の凹みようは筆舌に尽くし難いほどに、落ち込んでいた。最愛の妻を亡くした、父の姿を今も鮮明に覚えている。
二人は、買い物ついでのデートが大好きだったようで、いつも二人しておしゃれな洋装にて歩く後ろ姿を、自宅2階窓から見下ろし、苦笑いしたものである。筆者が赤面するほどに仲の良い、素敵なカップルだった。
よって、両親の話は、ネガティブトークは皆無であり、次に何を買い出しに行くのか、満面の笑みにて語り合っていた。「幸せな二人だな!」と、ぼそっと何度も呟いていた筆者がいた。
これは、筆者が社会人になり、唐突に母から聞かされた話だが、法曹界に身を置く父で、厳格な人間だと思っていたところに、母が発した言葉に爆笑したのである。
「実はね、お父さんは13回も私の自宅に来られて、お付き合いしたいと言ってきたのよ。最終的にはお受けしたけど、法曹界の人なので、厳しいかなと思ったけれども、とても、優しい人だった。」と。
(はい、ご馳走様!)
数十年寄り添ってきた彼らの人生の秘話を聞かされると、息子としては、吹き出すしかない。耳の奥が痒くなりそうで、それから筆者は厳しい父への対応を変えたのだった。「鉄の男にも弱点あり!」ということだ。
以上、個人的な話で大変申し訳ないが、表題に戻ると、両親には精神的老化は皆無に等しかった。なかなか、真似できるものでもなく、そのような意気の合う異性との接点は稀有なる例であろうけれども、それが理想的なカップルの姿ではなかろうかと。
最後に、精神的老化など全く無関係な父は、母の急死から20年ほど医者要らずの健康老人として、毎週1回はゴルフ場や剣道場に足を運び、夜は趣味の読書、買い出しに車のドライブを楽しみながら過ごし、電池切れした状態にて、天国の母との再会を果たしたようである。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、精神的老化に対する筆者の視点と、それが個人の生活や行動にどのように影響を及ぼすかを掘り下げています。筆者は、精神的な老化が肉体的な老化を加速するという考えを示し、若い世代でも好奇心や情熱の欠如が見られることに懸念を表明しています。
特に、日常の振る舞いや対人関係において、精神的な元気が失われると、全体的な生活の質も低下すると述べています。これは、無気力や社会からの自己隔離として現れることが多いようです。筆者はまた、そういった状態が単なる「病んでいる」というレッテルで片付けられがちであるが、その背後にはより深刻な「やる気のなさ」や「責任回避」が隠れていると指摘しています。
エッセイの後半で、筆者は自身の両親のエピソードを通じて、精神的に健康な高齢者の例を示し、人生において情熱や相互の関心を持ち続けることの重要性を強調しています。両親は互いに支え合い、共に活動的な生活を送ることで精神的老化を避け、充実した晩年を過ごしたと述べています。
このエッセイは、精神的な若さを保つことの価値と、それがどのように全体的な幸福感と生活の質に寄与するかを浮き彫りにしています。読者に対して、自己反省を促すとともに、日常生活で積極的な姿勢を維持することの大切さを説いています。