父母の認知症と戦う50代、60代。
この20年ほどを振り返ると、50代、60代と社会人としては脂が乗り切ったイケイケドンドンの人たちの中で、急にその両親の認知症に遭遇し、重苦しい日々を送らざるを得ない人を何人も見てきた。
母親の認知症が悪化し、午前三時頃に母親が家を飛び出し、田畑の暗がりに向かって姿を消したという。何とか探し回って母親を確保したというが、それから段々と母親の挙動が激しくなり、怒りを伴うものに変化し、兄弟三人で交代にてその世話をすることになったという。
他県の人だったけれども、次に逃亡を図った母親は転倒し、腰や足、そして顔面を骨折。結局、それから1年満たない時を経て、他界されたとのことだった。世話をする人たちのストレスは、予期もしない、段々と凶暴になっていく母の姿だったのである。
認知症を患う前は温厚で優しい母親だったはずが、急に凶暴な人間に豹変している現実を受け止めたくはなかろうと。しかし、現実は厳しいもので、世話をする人たちの夢と希望を断ち切り、更に、認知症は悪化していくのであった。
筆者は、母を若くして亡くし、父は健康後期高齢者であり、医者要らず。階段で転倒して肋骨3本にヒビが入っても、幼少期から剣道で体を鍛えていたので、自分自身の治癒力にて肋骨のヒビを治している。多分、病院嫌いで、骨のヒビ程度であればどうでもなると考えたのであろう。
そのような両親に育ったので、今考えれば、両親が認知症を煩ったという経験がないのである。言い換えれば、我々に対しては、すこぶる子供孝行の両親であったことになる。
冒頭のように、実母が凶暴になり、逃亡癖で毎晩熟睡することも叶わねば、世話する人間は精神的に病んでしまう。しかし、それが現実である訳で、見て見ぬふりもできぬ、厳しい社会環境の一角であろうかと受け止めた次第。
近頃は、団塊の世代が後期高齢者となり、高齢者率を急激にアップしている。更に、重大なインシデントして、後期高齢者による逆走や暴走による死亡事故が多発しているのだから、非常に危険な社会環境となっている。
後期高齢者に問えば、「俺を年寄り扱いするな。まだ、ボケとらん!」と言い張るかも知れないが、これほどまでに、毎日のように全国各地で死亡事故が多発するようでは、運転免許更新はより厳しくしなければならない。
どんなに現在若いと豪語している人たちも、30年単位で、熟年から老年の段階を迎えるのだから、他人事で済ませるような問題ではない。明日は我が身と思い、もし、目の前に認知症を患った親族がいるのならば、恥じず隠さず、周囲の人たちとの連携を深めるのが必須ではなかろうか。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、社会の高齢化と認知症という深刻な問題に焦点を当てています。特に、50代、60代の子供たちが直面する両親の認知症の現実を描写しており、心情的な重みが感じられます。
エッセイは、認知症の進行が個人とその家族に与える影響について生々しく描写しています。特に、認知症によって人格が大きく変わる様子や、家族が抱える精神的な負担を具体的なエピソードを交えて伝えています。このような描写は、読者に認知症の厳しさと、それに伴う家族の苦悩を深く理解させることができるでしょう。
また、エッセイは高齢化社会の課題を広く提起しており、高齢者の運転免許の更新の厳格化など、具体的な社会問題にも言及しています。これは、ただ高齢者の問題だけでなく、将来的には誰もが直面する可能性がある普遍的な問題として捉え、社会全体での対応を促しています。
全体を通じて、筆者は個人の体験だけでなく、社会全体の問題として認知症を捉え、それに対する深い洞察と真剣な議論を呼びかけています。読者には、ただの情報提供を超えて、自分自身や家族、そして社会における高齢化の問題について真剣に考えるきっかけを提供しているのです。