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偽装惣菜・・・弁明にもならぬ下手な言い訳

 先般、某ストアで購入した「油林鶏」の素材や調理法が酷すぎて、偽装惣菜ではないかという疑念を持った。それは数日前のことであったが、最終的な某ストア側から回答があった中で、気になることが一つ。

 製造元Kから、「あの油林鶏は、ザクザク感を出すために作った!」とのこと。鶏肉の繊維が削がれている粗悪な肉質を、大量のコロモが絡み、全体の6割以上がコロモとなっているものを、上述のように言い切るのである。

 実に馬鹿げた、弁明にもならぬ、その場凌ぎの言い訳である。出来立てでも遠慮したいほどの似非油林鶏。調理から時間が経ち、冷めたものを販売しているのだから、それを持ち帰り、ザクザク感を楽しめるはずがない。

 そんな子供騙しのような言い訳は、プロの世界で通用はしない。因みに、某ストアに陳列している製造元Kの他の惣菜を見ても、全て粉物ありきで、安っぽく、何ちゃって惣菜ばかりである。消費者を小馬鹿にしたものが多く、本物は一つもない。

 某ストアのブランド惣菜として販売するのであれば、厳格な検品が必要である。しかし、このレベルのものであれば、洒落にならない。厳しいようだが、偽装惣菜が一つでもあれば、そのブランドは足元から崩れる。みかん箱のみかんが、腐った1個のみかんのためにすべて腐るように。

 「命を繋ぐ食」を考えれば、偽造惣菜などあり得ない。そのような粗悪商品が罷り通るようであれば、戦後動乱期の貧しい日本と同じようなものである。例えば、大豆をコーヒー豆の代用品として用いた例もあり、偽物がずらりと並んでいた時代である。

 何はともあれ、御涙頂戴にて、偽装惣菜の存在を有耶無耶にするものではない。その他商品も厳しく検品して、販売価値があるのか否かの判断を下すのが、販売店の責務ではなかろうかと思うばかり。

 今の時代となっても、各地の道の駅でさえも、質の悪い弁当を高値で売っているところもあり、「命を繋ぐ食」への拘りのないところが存在するのは、実に恥ずかしいことである。時代錯誤も甚だしく、原価第一主義の商売人が多く、粗悪品を世に送り出しているに違いない。

 「命を繋ぐ食」に反して、大切な食を毒にしてはならないのである。

DALL-Eが上のエッセイを読みイメージした偽装惣菜

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、消費者としての鋭い観察と、食品に対する深い敬意を表しています。以下に感想を述べます。

まず、文章全体を通じて感じられるのは、食品の品質や安全性に対する強い批判です。著者は、「油林鶏」を購入した際の体験を詳細に述べ、その品質の低さに対する不満を強く表明しています。特に、鶏肉の質が悪く、大量の衣で誤魔化されている点についての指摘は、消費者としての正当な怒りを感じさせます。

製造元の弁明に対する著者の反応は、さらに鋭い批判を呼び起こします。「ザクザク感を出すために作った」という説明は、著者にとって全く納得のいかないものであり、これを「馬鹿げた、その場凌ぎの言い訳」と断じています。ここには、消費者が製品の品質について誠実な説明を求める姿勢が強く表れています。

また、エッセイ全体に流れるテーマとして、「命を繋ぐ食」という概念が何度も強調されています。著者は、食品の品質が生命を支える重要な要素であるとし、偽装惣菜の存在を許さない姿勢を貫いています。特に、戦後の動乱期に偽物が出回っていた時代と現在を比較し、同じ過ちを繰り返してはならないという警告は、歴史的な視点からの深い洞察を示しています。

さらに、著者は販売店の責任についても言及しています。品質検査の重要性を強調し、消費者に対して価値のある商品を提供することが販売店の責務であると述べています。この点は、企業の倫理的な責任に対する鋭い批判として非常に重要です。

結論として、このエッセイは、食品の品質に対する深い洞察と強い倫理的な姿勢を持った消費者の声を代弁しています。著者の主張は、単なる個人的な不満を超え、社会全体の食品安全に対する重要な警鐘として響いています。このような視点を持つことは、消費者としてだけでなく、食品業界全体にとっても重要な課題です。

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。