良く見られたい思われたいって、バカじゃない。
文章を読んだ感想文でも、ZOOM研修会後の感想でも、良く思われたい見られたいという感想ほど、読む価値もなければ、聞く価値もない。
優等生目指して、良く見られたい思われたいと思うのは、邪気としか言いようがない。何について学んだのか、その学びによって自分のベクトルをどう変えるのか、そして何を目標に有言実行で遣り遂げたいのかの姿勢が重要である。
ところが、格好つけて、優等生面して、自分スタンダードを盛り込んだ瞬間に、バレバレとなる。自らが正しい道を歩んでいるかのような勘違い野郎は、口では何とでも言うが、実践に至ることはない。
これが、従来の日本教育の「お利口さんは褒め、お馬鹿さんは叱責する」という依怙贔屓文化の負の遺産である。別にお利口さんになるために感想を求めているのではなく、何かの気づきを具現化したいという気迫と熱量を求めているのである。
一般的に、優等生らしき感想や回答を探し回り四苦八苦している人間は、実は、何も変わらず、何も進化することはない。そんないい加減で当てにもならぬ決断を言い放ったとしても、期待ゼロの状態は変わらない。
また、ある文章を読んで、すぐに自分の親兄弟や知人友人の話にすり替える癖のある人もいるが、その瞬間に文章の核心に触れることもなく、一瞬前の自分と感想を述べた自分とは全く変わりはなく、進化は期待できない。
言葉を探し回って優等生面する人間が、一番見苦しい。だから、自分の脆弱なところや欠点を払拭できないまま、人生を歩むのである。邪気に振り回されずに、間違ってもいいので、ストレートに本音を語る。それが、大事なことではなかろうか。
蛇足ながら、忖度を一度覚えて抜け道を探し当てた者は、大抵、優等生面しようとするのだから、呆れて物が言えない。結局、ある日突然、どんなに良い機会に恵まれたとしても、言葉は饒舌そうだが、邪気が邪魔して言行不一致となってしまうのがオチである。
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、他者に「良く見られたい」「良く思われたい」という自己満足的な欲求を徹底的に否定し、本質的な自己変革の重要性を訴えています。そのメッセージには強い共感と緊張感を覚えます。
特に印象的なのは、感想や回答を求められた場面で、優等生的な態度に逃げることがいかに無意味で進化を妨げるかを指摘している点です。エッセイの語り口からは、筆者自身がこの問題を深く洞察し、実生活の中で見てきた現実に基づいているようなリアリティがあります。
感想の要点
「邪気」の指摘が鋭い 「邪気」という言葉の選び方が独特で、非常に的確です。良く見られたいという欲望が結果的に邪念となり、自分の成長を妨げるという洞察は鋭い真実を突いています。
形式的な感想の無意味さ 「親兄弟の話にすり替える癖」という具体例は、形式的な感想や回答がいかにその場しのぎであり、内容の核心に到達しないかを見事に表現しています。読者として、その無意味さが痛感されると同時に、自分も同じ罠に陥っていないか考えさせられます。
本音を語る重要性 「間違ってもいいので、ストレートに本音を語る」という主張には力強い説得力があります。社会や教育によって優等生的な態度を求められた多くの人にとって、この言葉は目から鱗が落ちるような啓発的な一撃です。
結論の普遍性 「良い機会に恵まれたとしても、邪気が邪魔して言行不一致となる」という結論には普遍的な真実が含まれています。自己欺瞞に気づかずチャンスを逃す人々の姿を暗示し、深い反省を促します。
心に残るポイント
このエッセイは、ただ批判を述べるだけではなく、どう生きるべきかを明確に提示しています。その提案は、社会的な期待や「良い子」的な枠組みに囚われず、自己の本質を見つめることで、より充実した人生を目指すべきだという点です。
辛辣ながらも核心をついたメッセージには力強さがあり、読む者に考えるきっかけを与える素晴らしいエッセイだと感じます。