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叔母L子のケース2 コロナ禍での看取り

 ひとつ前の記事を読み直して、

 昨日? 昨日なんだっけ? 昨日なんだよな? って。

 なんだかわからなくなっている。

春分の日に

 それは二月三日。

 前の日の夜に夜行バスで発った私は、早朝に千葉に戻ってきました。

 人影まばらな駅のホームをたどりながら、とりあえず、帰ったら叔母に会いに行こうと。

 母を看取ってきたことを話そうと。

 家に帰って、ラインで連絡して、そのまま会いに行きました。

 このとき、たまたま居合わせた叔母の娘Eさんから、Eさん夫の母、義母にあたる方が、大変なことになりかかっているのを聞いて、

 お互い大変だねーと、意気投合したのを覚えています。

 一通り話したあと、叔母が、銀行に用事があるからと言うので、私の車で外出。

 出たついでに、ドラッグストアで買い物をしました。

 散歩の時にもちょくちょくよるそうですが、車だからまとまった買い物をしたい、というので、私は自分の分を買ったあとは、

「車で待ってるから、ごゆっくりどうぞ」

 と、駐車場に戻り、スマホで時間つぶし。

 しばらくして、ビニール袋二つ分を抱えてほくほく顔で叔母が戻ってきました。

 ずいぶん買い込んだなぁ、と思ってたら、叔母はおもむろに最中アイスを二つ取りだし、

「食べたかったから買っちゃった! つきあって」

 と私にも渡してきたのです。

 正直、最中アイス丸丸一個は多いのですが、せっかくの奢りなので、頑張って食べました。

 その時に、叔母が笑い話として話したことがありました。

娘の薬で、ひどいめにあった

 最近、便秘に悩まされているという叔母。

 ちょっとひどいので、娘さんが飲んでいる整腸剤をこっそり飲んだのだけど、あまり効き目が無い。

 それで、追加でもう一つ飲んだところ、案の定激しい腹痛でトイレから出られない。

 娘には怒られるし散々な目にあった。

 いやー、それは怒られますよ、と、私も笑い話として聞き流したのですが。

 その後。

 休日は、留守の間にやれなかったことを片付けて、ちょと忙しくしていて、やっと休日丸丸自分の時間として使えたのが、二月十六日

 上でリンク貼った記事の、鯛ノ浦に行った日がそれです。まんま引っ張ってきます。

 鯛ノ浦の誕生時で、天野喜孝氏が描いた法華経画が公開展示されていると聞き、車を走らせていました。途中、叔母の家のそばを通るので、「あ、叔母さん一緒に行かないかな」とちらっと思ったのですが、風の強い日だし、急な話だし、迷惑かなと、連絡しないまま。

 帰宅途中にラインで叔母から「今入院しています」と連絡があり。

 この日初めて、私は叔母が、大腸ガンの病巣が「破裂して膿んでいる」話を聞きます。腫れが収まったら22日に手術、とのこと。

 車を走らせながら、思った。

 そうだった、私の実母も、「なんだか腸が押されているような気がする」と言っていた。

 大腸ガンの兆候としてみられるのは、下痢と便秘です。調べて、知ってたはずだった。

 なんで、あのとき。叔母が笑い話として話したあの時、思い至らなかったんだろう! もしかして? ってひとことでも言っておけば?

 もしも、なんて言っても仕方ないのだけど。

 ……あとから聞いた話で、叔母のお通じの不調は最近では無かったこと。

 実は発覚前から、夜中にシクシク痛んで、眠れないことも多かったこと。

 痛みがひどくなり、かかりつけの医師に診て貰ったところ、その場で救急車を呼ばれ、大きな病院に搬送されたのだそうで、

 その時には、「病巣は破裂」していた。叔母の口からは出てこなかったけど、これ、腸閉塞ではないか。

 昔の人らしい我慢強さと、周りへの遠慮と、そして一見元気に見えてしまっていたこと。これが結果的に、発見を遅らせてしまったのではないかと思います。

 叔母は、二月下旬の手術で開腹し、「目に見える悪いところは取り除いた」とのこと。担当医師がそう判りやすく説明したのだろうけど、これって患部と一緒に「腹膜播種」を取り除いたということかと。

 翌月上旬、退院してしばらくは、傷の痛みに動けずにいた叔母も、元の体力があることが功を奏したのか、一週間ほどで普通に生活できるほど回復しました。このときは、傷跡が痛い話は聞いていましたが、他は元気で、散歩にも行っていたようです。

 その後、抗がん剤投与のポート作りのために入院中の二十四日に、私の義母であり、叔母の姉にあたるA子が亡くなります。

 退院した翌日、自宅安置したA子に会うために、私が運転する車で、A子宅に訪問した叔母。このときは、手術跡よりもポートを入れた胸元の傷を気にしていて、シートベルトがおっかなびっくりだった様子。

 でも動きは今まで通り機敏で、食欲もあり、義父の余計な気遣いさえなければ、銚子丸で豪遊しそうな勢いだったのです。

 叔母が最初の抗がん剤を投与したのは、四月の最初の水曜日でした。

 抗がん剤が体力や免疫を落とすのは私も知っていたため、その次の週までは私は会いに行きませんでした。

 次の抗がん剤投与日の前日、会いにいって話を聞いたとき、

「患部から腰や足にかけての痛みがある」ということを聞きました。

 転移してるんじゃないかなと思う、と。

 でも、「目に見える悪いところはとっている」はずです。

 不安なので明日の投与の際に聞いてみる、とのことでしたが、

 その時の答えは、「転移では無い」「原因がわからない」との話でした。

 翌月、5月4日に、絹さやを取りに来てとか言われたのかな。朝から会いにいって、義母の納骨はどうしますかという話をして、痛みも引かないし様子を見て返事します。からの、結局難しいから残念だけど、と言う話になり、納骨は私と夫だけで済ませました。

 義母の納骨の報告に行った、5月26日。

 顔を見たとき、なんだか急にやせたような、やつれたような気がして、不安になったのを覚えています。その叔母が、

「ちょっと入院していた話はした?」

 聞いてません。

 どうも、痛み止めが効きづらく、どんな薬が会うかを調べるために、検査入院したのだそうです。

 叔母の部屋のテーブルには、前回来たときには無かった、薬のケースがありました。

 抗がん剤を投与すると飲み薬が増えるのは知っていましたが、痛み止めを強いものに変えたせいもあるのか、「薬が多すぎて訳がわからない」から「娘に分けて貰った」とのことで。

 あんなにしっかりしていたのに。

 そして、右の太腿が、大きく腫れ上がっている。

 左足の倍以上にはなっていたのではないかと思います。でも、赤くなっているとか、炎症を起こしているとか言う感じでは無く、言ってしまえば、

「膨らんでいる」

「中の傷が治ってないんじゃ無いですか? 抗がん剤で治りが遅れてるんじゃ無いですか?」

 その時は、その程度のことしか言えなかったのですが、後になって調べたところ、どうも「リンパ浮腫」ではないかと私には思われ。

 その旨、やんわりラインしたのですが、返事がありませんでした。

 このあと、叔母のEさんから連絡があったのが、五月の末。

 一ヶ月ももたないなんて、だって「悪いところは切った」はずではなかったのか。

 抗がん剤の副作用なら、おやすみすればよくなるはず。脱水を乗り切れば、退院が出来るくらいになれば、きっと大丈夫。

 その後のEさんからの連絡で、

「在宅看護をめざして準備しています」

「準備が整い次第自宅に帰ってきます」

「そうしたら顔を見に来て下さい」

 ああ、ちゃんと回復してるんだ。おうちできっと、ヘルパーさんとかも入れて世話できるように準備してるんだ、と私は思っていました。

 だから、「明日退院決まりました」「詳細わかったら連絡します」との連絡があった六月三日。

 気になるけど、退院した直後はきっと、バタバタしてるし、ご家族もみんないらしてるようだし、連絡があるまで我慢、と。

 四日は、午後にはわりと荒れたものの、思っていたほどひどくも無くて、ちゃんと帰れたかな、と気にかけながら、連絡を待っていました。 

でも、四日中には連絡が無く。

 五日の朝。

 私は、(だいぶよくなりましたが)低血圧のせいで朝が弱く、起きてきたのは八時過ぎでした。習慣で、枕元にスマホは置きません(読書用のタブレットはある)

 スマホにはEさんからのメッセージが入っていました。二時間前の六時。

「昨日介護タクシーで退院し、

 みんなに見守られ、未明に旅立ちました」


 どれくらい時間が経っているのか、頭では判るけど、感覚としてよく判りません。

 今。やっと今、思うと。

 私の感覚と、Eさんの切迫感の、温度差がありすぎる。

 私は、叔母からの話しか知らない。だから、叔母ベースの情報で判断してきたけど、考えてみたら、私、叔母の手術後はEさんに直接会ってない。

 叔母は、一年抗がん剤を頑張る気でいて、実際、一回目の抗がん剤の前に、(あまり活発に動くと叱られるので)Eさんの目を盗んで、ジャガイモまで植えてた。

 私は叔母からの話しか知らないから、「(目に見える)悪いところはもう無い」前提で状態を推測していた。だから「脱水で」「呼吸が困難になって」と聞いても、一時的なものだと思ってた。

 でも、ひょっとして、叔母は、大事なところを聞いていなかったのでは?

 聞かされて、いなかったのでは?

 それが確認できるかどうか。

 これから、通夜に行ってきます。

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河東ちか
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