役行者~時代を超えて信仰された行者さま~
2022年夏に書いた調べ学習の作品です。A4用紙50枚分あります。
何も知らない素人が役行者さまについて調べたものなので、間違っている点多数あると思います。こちらお豆腐メンタルなので、優しく優し~くご指摘いただけると幸いです。
目次
1 はじめに……1
調べようと思ったきっかけ
2 続日本紀と日本霊異記……2
どうやって調べる?
続日本紀とは
役行者の最古の記録
日本霊異記
3 役行者の出自、名前、家族……7
いつから役行者と記されている?
役行者の姓
小角という名前の由来
役行者の伝記
役行者の家族
【コラム 吉祥草寺(きっしょうそうじ)】
4 役行者のエピソード……11
【コラム 主食は松!?】
5 日本における仏教受容……19
賀茂一族だったのになぜ仏教?
仏教の起こり
インドから中国へ
中国から朝鮮へ
百済から日本へ
仏教がはいってきたけれど…
仏教の受容をめぐる争い(日本書紀より)
雑密(ぞうみつ)
道教
儒教
丁未の乱(ていびのらん)
聖徳太子(574~622)
まとめ1
大化の改新
白村江(はくすきえ)の戦い
天智天皇
壬申の乱
天武天皇の崩御、持統天皇の即位
藤原京へ遷都
大宝律令が制定
【コラム 役行者と薬】
6 山岳宗教とは?……27
山は古代から畏怖の対象
山中他界観(さんちゅうたかいかん)
神の降臨の場
山岳信仰とは
道教の影響
仏教の影響
修験者が着る白装束の意味
川の源流・生命の源
山の恩恵
山人(さんじん)とは?
『日本書紀』土蜘蛛の話
山を支配する
前鬼・後鬼も山人?
7 前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)……31
「役行者本記」の鬼
生駒山と鬼
千光寺(奈良県生駒郡平群町)
役の小角と滝の大蛇 千光寺(鳴川)につたわる昔話
金峯山寺蔵王堂 鬼火の祭典
8 葛城修験……36
友ヶ島
亀の瀬
9 修験道とは?……40
修験道を作ったのは?
①山の宗教・山伏の宗教
山伏の服装
履物について
役行者が手に持っているものは?
②宗派を超えた実践宗教
③神仏習合・混淆(こんぎょう)の宗教
全国の主な権現
④優婆塞のための宗教
10 訪れた場所……45
11 法螺貝体験……48
法螺貝について
ルーツ
法螺貝とはどんな楽器?
トランペットとの比較
法螺貝の吹きかた
立螺作法(りゅうらさほう)
天然物
武士たちの戦場の合図としても使われた法螺貝
出世法螺(しゅっせぼら)
12 まとめ・感想……50
参考・引用文献リスト(本)(Web)
1 はじめに
調べようと思ったきっかけ
2022年4月、偶然、京都府木津川市の神童寺というお寺で行われた夜桜とプロジェクトマッピングのイベントを知り、参加しました。神童寺の前は細い道で、車は通れないため、シャトルバスを降りて徒歩で向かいます。山の上のお寺で行われたイベントは幻想的でとてもステキでした。
収蔵庫の文化財も特別拝観することができました。収蔵庫には不動明王立像、愛染明王坐像、阿弥陀如来坐像、日光・月光菩薩立像…とたくさんのすばらしい仏像が並んでいます。そんななかで役行者の像を見たとき、私は不思議に思いました。
数ある異形の仏様の中で、役行者(えんのぎょうじゃ)の像は人間に近い形で作られています。まず「実際に存在した人なの?」という疑問が浮かびました。長い杖を持って、高い下駄を履いています。袈裟のような服を着ていますが、長いあごひげがあります。お坊さんなら髪の毛もひげも剃っているはずですが、どうしてそのような姿をしているのでしょうか?
次に疑問に思ったのは役行者像が木の洞窟のような中に座っているところです。なぜこのような所に座っているのでしょうか?
そして役行者の前にいる2人の鬼。一人は斧、もう一人は花瓶のようなものを持っています。鬼といえば、例えば四天王は邪鬼を踏みつけていますが、この鬼たちは悪さをするようには見えません。役行者の仲間なのでしょうか?
また、私はこれまでに何度か役行者の像を他のお寺でも見たことがあります。どうして色々なお寺に像が祭られているのでしょうか?
こうして、私は役行者について調べることにしました。
2 続日本紀と日本霊異記
どうやって調べる?
まずは平群小学校、学校図書館の蔵書の広辞苑で「役行者」を引いてみました。
そこには『七世紀後半から八世紀にかけての山岳修行者。修験道の祖。多分に伝説的な人物で、大和国葛城山に住んで修行、吉野の金峯山、大峰などを開いたという。六九九年韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒(ざん)によって伊豆に流された。諡号(しごう)は神変大菩薩。役の優婆塞(うばそく)。役小角(えんのおづの・えんのしょうかく)。』(「広辞苑 第六版」p339)とあります。
ちなみに「役の優婆塞」を引くと『役行者(えんのぎょうじゃ)のこと。』、
「役小角」は『(エンノオヅヌとも)役行者(えんのぎょうじゃ)のこと。』(どちらも「広辞苑 第六版」p339)と載っていました。
ここから分かったことは
7~8世紀に実在した人物。しかし、伝説的な人物。
山岳修行者、修験道を開いた人物。
奈良の葛城山に住んで修行して、吉野の金峯山や、天川村の大峰山を開いた。
699年に韓国連広足という人にそしりをうけて、伊豆に流された。
死後、神変大菩薩という名前が贈られた。
別名、役の優婆塞、役小角。
ということです。
次に平群町立図書館の蔵書検索でキーワードに「役行者」をいれて検索しました。すると数件ヒットしました。まずは「役行者伝記集成(銭谷武平/著 東方出版)」を借りて調べることにしました。
すると『役行者についてのもっとも古い記録は『続日本紀(しょくにほんぎ)』の中にあります。』(「役行者伝記集成」p11)と書かれています。まずは続日本紀について調べてみました。
続日本紀とは?
続日本紀とはどういった書物なのでしょうか?広辞苑を引くと、『六国史(りっこくし)の一つ』(「広辞苑」p1408)とあります。六国史とは『奈良・平安時代の朝廷で編集された六つの国史。日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録(文徳実録)・日本三代実録(三代実録)の総称。』(「広辞苑」p2947)です。
六国史
書名「日本書紀」
巻数 30巻
収蔵歴代 (神代)~持統
完成年 720年
主な編者 舎人親王
書名 「続日本紀」
巻数 40巻
収蔵歴代 文武~桓武
完成年 797年
主な編者 藤原継縄・菅野真道
書名 「日本後紀」
巻数 40巻
収蔵歴代 桓武~淳和
完成年 840年
主な編者 藤原冬嗣・藤原緒嗣
書名 「続日本後紀」
巻数 20巻
収蔵歴代 仁明
完成年 869年
主な編者 藤原良房・春澄善縄
書名 「日本文徳天皇実録」
巻数 10巻
収蔵歴代 文徳
完成年 879年
主な編者 藤原基経・都良香・菅原是善
書名 「日本三代実録」
巻数 50巻
収蔵歴代 清和・陽成・光孝
完成年 901年
主な編者 藤原時平・大蔵善行
つまり、続日本紀は日本の公式の編集で書かれた書物の1つなので、高い信頼性があります。「修験道の本 - 神と仏が融合する山界曼荼羅 (学研プラス)」にも『役小角という人物が7世紀の飛鳥時代に実在したことは、ほぼ確からしい。』(p31)と書かれています。
しかし、続日本紀が完成したのが797年のことなので、執筆の時期は役行者が亡くなってから約100年後のことだと思われます。
役行者の最古の記録
おそらく実在の人物だったと思われている役行者。さらに調べるため、私は「続日本紀」を図書館で借りに行きました。私が借りたのは「新訂増補 国史大系 續日本紀 前編(黒板勝美/編 吉川弘文館)」です。「役行者伝記集成」によると『文武天皇三年(六九九)五月二四日の記録』とあります。
ページをめくって、699年5月24日の記録を見ます。すると
『丁丑、役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以咒術稱。外従五位下韓國連廣足師焉。後 其能讒以妖惑。故配遠處世相傳云。小角能使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒•縛之。』(『新訂増補 国史大系 續日本紀 前編』)
と、書かれていました。すべて漢字で書かれています。このままでは内容が分からないので現代語訳の載っている「続日本紀(上)全現代語訳(宇治谷猛/著 講談社)」も借りて調べました。
現代語訳は『五月二十四日、役の行者小角を伊豆嶋(いずのしま)に配流した。はじめ小角は葛木山(かつらぎさん)に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものと讒言されたので、遠流の罪に処せられた。世間のうわさでは「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり、薪を採らせたりし、若し命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」といわれる。』です。(『続日本紀(上)全現代語訳』p23~24)
ここで分かったことは
役行者と記されておらず、「役君小角」「小角」と書かれている。
始めは葛城山で呪術を行っていた。
韓国連広足という名の弟子に才能をねたまれて、事実とは違うありもしないことをでっち上げられ伊豆大島へ流された。
当時のうわさとして鬼神に身の回りの世話をさせ働かせて、従わないと呪術で縛って動けないようにしていたこと。
ということです。
分かったことを一つずつ検証していきます。
役行者、役の行者小角、小角といろいろな呼び方があります。名前について調べてみる必要がありそうです。
葛城山は奈良県内にあり、車で1時間ほどで行けるので、一度行ってみることにします。
広辞苑に載っていたとおり、韓国連広足のそしりによって伊豆大島に流された記述があります。
最後の記述は役行者像と一緒にいる2人の鬼に関係がありそうです。あとでもっと調べてみる必要があります。
日本霊異記
役行者のことが載っている、2番目に古い記録は「日本霊異記」だということが、「役行者伝記集成」に書かれています。
日本霊異記は『平安初期の仏教説話集。三巻。僧景戒撰。奈良時代から弘仁(八一〇~八二四)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報などに関する説話を漢文で記した書。』(「広辞苑」p2144)です。
ちょうどこの頃、816年に空海が高野山を開いています。『この本は日本で最初の仏教の説話集です。『続日本紀』よりも約二十年後に書かれていますが、説話自体は神護景雲二年(七八六)以降につくられたものであろうとされています。』(「役行者伝記集成」p15)
『日本霊異記』上巻の28の「孔雀王の呪法を修持し不思議な威力を得て現に仙人となりて天に飛ぶ」の話の現代語訳を抜粋します。
(写真は葛城の山々 筆者撮影)
『役の優婆塞は、賀茂の役公といい、今の高賀茂の朝臣の系類の出自であった。大和国の葛木の上郡茅原の村(現在の奈良県御所市茅原)の人で、うまれつき賢く、博学という点では郷里では第一人者であった。三宝すなわち仏法を信仰するのを業としていた。
いつも心に願っていたことは、五色の雲にのって果てしの無い大空をとびまわり、仙人の宮殿の中で、客人とともに遊んだり、一億年を経ても変わりのない仙人の世界の花園に寝て体力や気力を養うために霞を吸いたいということであった。
このために四十歳余りの年になってから、さらに岩窟の中に住んでいた。葛を身に付け衣とし、松を食べ、泉の清水に浴しては、欲の世界で汚された垢をすすぎ落としていた。
役の優婆塞は、「孔雀の呪法」を習得して、この呪法をほどこして不思議な験があるのを証することができ、また鬼神を自由に使役することができた。
ある時に、諸々の鬼神を誘い集めて
「大和の国の金峯山と葛城の峯との間に橋を架け渡して、通行できるようにせよ」と命じた。鬼達は、皆大変に嘆いて悲しんだ。
これは天皇が、藤原の宮で天下を治められていた時代のことである。
時に、葛城の一言主の大神は、心が狂って、
「役の優婆塞は、天皇を倒そうと計画をめぐらせている」と役所に告訴した。そこで、天皇は優婆塞を捕らえよと勅命を下したが、験力があるのでたやすく捕らえることができなかった。それ故に、彼の代わりに母を捕らえた。優婆塞は母を自由にしたいために、自ら出てきて捕らえられた。
役の優婆塞は、伊豆大島に流された。その時に、優婆塞の身は万丈の高山にも登ることができる上に、空を飛ぶ様子は大空を羽ばたく鳳凰のようであった。
昼は天皇の命令に従って島に居たが、夜になると駿河の国の富士の高嶺に往って修行をした。しかして、斧や鉞による極刑の罪を免れて朝廷に近付こうと願う故に、殺剣の刃に伏して、富士山に飛んだ。
この島に流されて、うれい悲しむ間に、三年になった。ここに慈悲の声があがって、大宝元年辛丑(七〇一)になって、正月に天朝に近づき、ついに仙人になって天に飛び去った。
わが国の人、道昭法師は、天皇の命令を受けたまわって、大唐の国に行った。法師は五百の虎の請いを受けて、新羅の国に行き『法華経』を講義した。その時に、虎衆の中に一人の人がいて、日本語をもって質問してきた。
法師は「誰ですか」と問うと、「役の優婆塞」であると答えた。
法師は日本国の聖人であると思って、高座から降りて捜したが、すでに居なかった。
かの一言主の大神は、役行者に呪縛せられてから、今にいたるまで縛を解いて脱することもできずにいる。
役の優婆塞の珍しい験の証拠を示すことがあまりにも多数であって、一々これらを述べるのが厄介であるから省略することにした。誠に仏法の験術は、広く大きいものであることを知る。仏法に帰依する人は必ず験の証明を得ることができるであろう。』(「役行者伝記集成」p15〜18)
ここでは
「役優婆塞(えんのうばそく)」と呼ばれている。出自も書かれている。
葛木の上郡茅原の村で生まれた。
生まれながらに賢い。
仏教を信仰していた。
仙人に憧れていた。
仙人になるために、40歳すぎから岩窟の中に住んでいた。
葛の服を着て、松を食べていた。
「孔雀の呪法」を修得して、呪術を使って鬼神を自由に使役していた。
金峯山と葛城の峯との間に橋を架け渡すように鬼神たちに命じた。
葛城の一言主の大神に、天皇を倒そうと計画をめぐらせていると役所に告訴をされた。
天皇から捕縛の命令が出されたが、なかなか捕まえられない。
母が捕らえて人質にされてしまったので捕まえられた。
伊豆大島に流された。
昼は島にいたが、夜になると富士山に登って修行した。
島に流され3年経った時、ついに仙人になって天に飛び去った。
唐の国で500の虎の前で「法華経」の講義をしていた道昭法師に日本語で質問し、すぐに居なくなった。
ということが分かりました。
一つずつ確認していきます。
役の優婆塞と呼ばれています。やはり名前や、それから出自、お母さん、家族についてもっと調べる必要があります。
葛木の上郡茅原の村(現在の奈良県御所市茅原)で生まれたとの事、ここに実際に行ってみます。
仏教を信仰していたので、お坊さんかもしれません。しかも仙人でもある?
仙人修行のため岩窟に住んで葛の服を着ていた様子が、現在の役行者像に近い
「孔雀の呪法」が鬼神を縛る呪術のようです。後で調べます。
「続日本紀」では弟子の「韓国連広足」に告訴されたが、「日本霊異記」では「葛城の一言主の大神」に告訴されたことになっています。一言主についても調べていきます。
伊豆大島に流されたのは「続日本紀」の記述と同じ。
富士山と役行者も関係がある?
道昭法師のエピソードももう少し深く調べる必要がありそうです。
たくさん調べることが出てきましたが、まずは役行者の名前、出自、家族について調べていきます。
3 役行者の出自、名前、家族
いつから役行者と記されている?
役行者は「続日本紀」「日本霊異記」ではそれぞれ、「役君小角」、「役優婆塞」と書かれています。そもそも、いつ「役行者」と記されるようになったのでしょうか?
本で調べてみると、
『小角はまた役行者とも呼ばれているが、この「行者」という表現は、小角の帰幽から約300年も後の永観2年(984)に成った『三宝絵詞』で初めて用いられた表現』(「修験道の本」p32)だそうです。
「帰幽」とは神道では死去することをいいます。つまりは役小角が亡くなってから300年も後に「役行者」と呼ばれるようになりました。
ちなみに広辞苑で「行者」は
『①仏道を修行する人。修行者。持者②修験道の修行者。修験者③役行者の略』(「広辞苑」p729)です。
役行者の姓
つぎに役行者の名前について調べていきます。まずは姓についての記述がありました。
『小角の生まれた家の氏姓は「賀茂役君(かもえのきみ)」という。後に京都で賀茂神社を祀ることになる賀茂(鴨)氏の流れで、「役」は、特定の職掌(しょくじょう)をもって宗家賀茂氏に仕えた賀茂氏の分家の氏(うじ)の名を意味し、「君」は古代豪族が身分や家柄・職能に応じて用いた姓(かばね)である(ただし、大和朝廷の中ではそう有力な姓ではなく、賀茂役氏もさして力のある豪族ではなかった。)
小角は通称、役小角とも役君(公)とも呼ばれるが、この「役」や「君(公)」は、このように小角の出自を表している。』(「修験道の本」p32)
役行者は豪族の生まれだと分かりました。しかし、仏教を信仰して仙人を目指していた役行者は、日本古来の神、神道を祀る家の生まれでした。なぜ、神道と関係が深い家柄なのに神道ではなく、仏教を信仰し、仙人を目指し、呪術を使うようになったのか、また謎が生まれました。役行者が生きていた当時の宗教事情を後で調べることにしました。
役優婆塞
「役」は上記の通り出自を表していることが分かりました。では優婆塞とは何でしょうか?「役行者と修験道の世界」の「修験道の歴史と役行者」では『役優婆塞の呼称は役小角が在俗の私度僧であったことを示している。』(「役行者と修験道の世界」から「修験道の歴史と役行者」p171)と書かれています。
広辞苑を引くと『在俗の男子の仏教信者』(「広辞苑」p270)、
「密教の本」では『国家に公認された僧ではないが、在俗のまま山林・仏門などに入り、仏教の戒律を守って修行するものを⦅優婆塞⦆といった。⦅優婆夷(うばい)⦆はその女性版である。』(「密教の本」p68)とあります。
つまり、役行者は正式に出家した僧ではなく、在家で仏道修行する立場だったことが分かりました。
小角という名前の由来
『小角の名前の由来についても諸伝区々である』と「超人 役行者小角」(p21)に書かれています。これを調べるには、役行者の伝記を調べる必要があります。役行者については、「続日本紀」「日本霊異記」以降にもさまざまな略伝や伝記が書かれました。その中でも代表的な4つの伝記を紹介します。
役行者の伝記
タイトル 「役行者本記(えんのぎょうじゃほんぎ)」
成立年 はっきりと分からない・最初の役行者の伝記
著者 実名を出さず、行者の弟子義元に託しているが?
タイトル 「役行者顛末秘蔵記(えんのぎょうじゃてんまつひぞうき)」
成立年 763年だと書かれているが、おそらく本当は1693年ごろ
著者 弓削道鏡と書かれているが?
タイトル 「役君形生記(えんくんけいせいき)」
成立年 1689年に書き終わる
著者 相模の国高座郡大谷村の真善寺の修験者 秀高
タイトル 「役公徴業録(えんこうちょうごうろく)」
成立年 1758年に完成
著者 水戸藩 本山系の修験大先達、名は祐誠、字名は玄明、旭峯山人
「役行者本記(えんのきょうじゃほんぎ)」では
『小角というのは幼名である。成人した後にも、あえていみ名はつけていなかった。父は大角と名乗り、その家は代々歌や音曲にすぐれた家柄であった。それ故に父の字名は大角といい、これは腹笛のことで、小角とは管笛のことである。常には、ただ小角とよんでいた。この家は雅楽の君ともいい、また征戦にも大変勇気があった。』(「役行者伝記集成」p93)
「役行者顛末秘蔵記(えんのぎょうじゃてんまつひぞうき)」では
『行者は六歳の時、養父に向って、「われは麒麟(きりん)にある一本の角をあらわして小角と名乗りたい」といった。』(「役行者伝記集成」p121)
「役公徴業録(えんこうちょうごうろく)」では
『六歳になった時に父に向って、
「まだ、子供であるけれども、未来は麒麟に比べられるようになりたい。そのために、名前を小角と改めたいと思う」と願った。』(「役行者伝記集成」p165)
続日本紀の記述にあった699年から約1000年経た後に書かれた伝記なので、事実かどうかは疑わしいところです。このように役行者については、実在したけれど、後の書物のなかでさまざまな脚色が付け加えられていったようです。
しかし、どうして1000年も経った後に役行者の伝記が記されたのか、新たな疑問がわきました。これについても、後ほど調べていきたいと思います。
役行者の家族
「日本霊異記」では役行者の母が登場しました。どんな家族だったのでしょうか?
鎌倉時代の『源平盛衰記』に役行者の家族に関するこんな記述があります。
『三歳の時に父に先立たれ、七歳までは母の恵によって成人した。大変な親孝行であって、仏道を修行する思いが深かった。』(「役行者伝記集成」p46)
しかし、『この物語には、かなりのフイクションがふくまれているようです。役行者の幼少年の頃の年齢、父母の事も他の伝記には見られなかったことです。』(「役行者伝記集成」p48)とあるように本当かどうかは分かりません。
「役行者本記」では役行者の系譜は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子孫である母「白専女(しらたおめ)」と、出雲の加茂家の父(名前は大角(ふとき)・高賀茂真影麻呂(まかげまろ)・十十寸麻呂(とときまろ))の子どもとされています。
『小角の母君は、舒明天皇五年(六三三)三月二十八日の夜に不思議な夢を見た。天空に赤々と輝くふしぎな物が浮かんで、その形は金剛杵に似ていた。これが静かに降りてきたかと思うと、白専女の口の中に跡方もなく入ってしまった。白専女が目を覚ますと金剛杵のはいった口の中は自然に甘くなっていて、これが一生消えなかったという。産室には良い香りがただよって、まるで蘭の花の部屋にいるようであった。』(「役行者伝記集成」p94)
金剛杵とは密教で、外道悪魔を破砕し煩悩 を打ち破る象徴として用いる法具です。
役行者と独鈷杵は関係が深いです。後ほど、役行者と独鈷杵のエピソードが登場します。
ほかにも『大己貴神(おおなむち)の嫡胤(ちゃくいん)で、垂勝野君が景行天皇の勅を受けて謀反人を誅伐(ちゅうばつ)したので、君の号を賜り、子孫に伝えてこれを称したのである。小角に父はいない。母が夢のなかで金杵を得て懐妊した。』(「超人役行者小角」p22)
『第二十五代天皇仁賢の時代に、大臣平群真鳥(へぐりのまとり)が国政を奪おうとして誅伐された。その子供が葛城のふもとに住み、その子孫だけが住んでいた。謀反人の子孫であるから、女に結婚相手がいなかった。女は野合(やごう)して懐妊し、生まれた子供が小角である。額に小さな角の形があったので、小角と名づけた』(「超人役行者小角」p22)
しかしこの2つの説は皆誤りである、と「役行者本記」に記されています。(「役行者伝記集成」p114)
「役公徴業録」では『父は賀茂間賀介麻呂、母は渡都岐氏ー白専渡都岐ー高賀茂明神の子孫である。よって賀茂役公氏と称した。』(「役行者伝記集成」p164)
となっています。
『お母さんは伝記に何度も出てきますが、お父さんはほとんど扱われません。賀茂間賀介麻呂という名前から、賀茂(鴨)氏の出身であったと推測されます。(中略)そしてお父さんは出雲から養子に来て、行者が生まれた後に、なにゆえか本国に帰られた様なのです。」(「体を使って心をおさめる修験道入門」p77)
このように役行者のお父さんについての記述はあまり多くありません。
【コラム 吉祥草寺(きっしょうそうじ)】
役行者の生まれた「吉祥草寺(きっしょうそうじ)」に実際に行ってきました。
『茅原山 吉祥草寺は修験道の開祖・役行者ご誕生の霊地にして「第三十四代舒明天皇の創建、役行者の開基なり(大和図会、寛政三年編纂に詳しい)』(吉祥草寺パンフレットより)
このお寺には、役行者の自作とされる32歳の時のあごひげのない役行者像や、お母さんの白専女(しらとうめ)の像があります。(やっぱり、お父さんの像はありません。)
「役行者御伝記図会」にこんな物語があります。
役行者は32歳の時、家にはもう二度と戻らず葛城山に籠って修行しようとしたが、母は許さなかった。行者は母への形見として自分の木像を造って、夜中に葛城山に忍び出た。母は胸騒ぎがして夜中起きてみると、息子の行者は灯の下にいる。母の眼に木像が行者と見えたのは、心を込めて造ったからである。夜が明け母が気づいた時には、行者はすでに山に登って行ってしまった。(「超人役行者小角」p40)
「役行者産湯の井戸」があり、『寺伝によると、役行者ご誕生のとき「一童子現れ、自ら香精童子と称し、大峯の瀑水を汲みて役小角を灌浴す。その水、地に滴りて井戸となる」とある。小角誕生の時の泣き声は「人々をすくうために天から遣わされてきたのだ」と言っているように聞こえたという。』(役行者霊蹟札所めぐり p44)
「もし役行者が女の子だったら?」という想像から生まれた「役小角奈(えんのおづな)」。63代目役行者です。吉祥草寺では実際に信仰の対象としてご本尊である五大明王などといっしょに本堂に祀られています。
4 役行者のエピソード
役行者の略伝、伝記を参考に役行者の足跡をまとめていきます。
634年 生まれた時 ー 華を握って生まれてすぐに喋る
「役行者本記」より
『小角は生まれる時に、手に一枝の華を握っていた。生まれるとすぐによく物を言ったので、母は恐れてこの子を育てることができないと思った。
その子を村はずれの野原に捨てた。ところがその子は乳を飲まなくても、飢え衰える兆しもなく、鳥や獣によく慣れ、その子のそばに付き従っていた。犬や狼も、あえて危害を加えようとはしなかった。その子が寝ている上の空には、紫の雲が自然に漂ってきて覆うので、雨にも梅雨にも少しも濡れなかった。そのため母は、また取り戻して養うことに決めた。』(「役行者伝記集成」p92)
役公徴業録より『生まれてすぐに、
「我は本来の請願を立て、一切の衆生をして我らと異ならぬようにしたい。我は昔願ったように今はすでに満足した。一切の衆生を化してみな仏道に入らしめたい。」と言った。』(「役行者伝記集成」p164)
役行者が生まれたのは舒明6年(634)正月1日だという説(役行者本記・役行者顛末秘蔵記・役君形生記)と、10月28日だという説(役公徴業録)があります。
636年〜638年 3歳〜5歳 ー 字を書き、土で仏像を作る
役行者顛末秘蔵記より『小角は三歳になって字を書き、四、五歳からは回りの子らと遊ばなかった。いつも泥や土で仏像をつくり、草の茎でお堂や塔をたて投地の礼拝をしていた。』(「役行者伝記集成」p121)
「日本霊異記」でも記された通り、幼い頃から賢かったようです。
639年 6歳 ー 自ら小角と命名
先に挙げた通り、自ら「小角」と名乗りたいと言った。
640年 7歳 ー 勉強熱心、仏教に帰依
役君形生記では、『七歳になって、無言で熱心に観念を続け、仏の慈悲によって民衆を救うのに一心に専念した。志が高まって、ついに仏道に帰依した。毎夜、葛木に登って法喜菩薩の像に拝礼をした。』(「役行者伝記集成」p147)
役公徴業録より『七歳になって、小角は妙に不思議な字を書いた。父はそんないたずら書きをするなと叱った。ところが、この字を覗き見た京都から来た僧が、全くびっくりしてしまった。これは梵文(ぼんぶん)出会って、この子は只者ではないと言った。』(「役行者伝記集成」p165)
『『役行者御一代記』は、七歳のときに叔父の願行上人(『役行者御伝記図会』は「伯父」とする)から「不動の慈救の咒(じゅ)」を受けて、毎日十万遍唱えていた、と伝えている。』(「超人役行者小角」p31)
646年 13歳 ー 毎夜、葛城山に登り暁に帰る
役行者本記より『毎夜葛城の峰(今の金剛山)によじ登り、暁になると家に帰ってくるのが日常になっていた。』(「役行者伝記集成」p95)
650年 17歳 ー 家を出て葛城山で修行
役行者本記より『藤の皮を身につけて衣服とし松葉を食物にして苦しい難業修行を続けた。修行を怠けたりやめたりするようなことは一度もなかった。』(「役行者伝記集成」p95)
652年 19歳 ー 熊野から大峯に入る
役公徴業録より『公は年が十九になって大峯に入った。十二月十八日に熊野に参詣した。大峯に入るには、はじめは熊野からである。(中略)公は木食して草に座し、大峯には三年、また葛嶺にはおよそ六年の間、六度(六波羅密)を修行してから家に還られた。
天皇は行者を見るために召し出した。多くの官人は小角を神人として尊敬した。』(「役行者伝記集成」p167)
654年 21歳 ー 生駒断髪山にて善童丸・妙童丸(前鬼・後鬼)を済度
役公徴業録より『断髪山(河内国分郡にあるー現在東大阪市豊浦町髪切(こぎり)山 慈光寺がある)に登った。山中には、雄は赤眼、雌は黄口という鬼が住んでいた。鬼一、鬼次、鬼助、鬼虎、鬼彦の五子を生んでいた。公は方便として、その最愛の鬼彦という子を捕まえて鉢の中に隠した。二人の親鬼は顔色を土のようにして四方八方に子鬼を探して回ったがいなかった。ついに、公のところにきて子鬼を助けてくれるように支持を願い出た。
公は親鬼に言った。
「汝らはいつも人の子を害しているのに、どうして我が子ばかりを愛するのか」
親鬼は答えた。
「わしらは、初めは鳥や獣を食べていたが、もはや食い尽くしてしまった。それで、ついに人の子を食べるようになった。」
その時、空中から大きな声が聞こえた。その身は不動明王。金剛の体に火焔は猛烈、眼光は煌めく稲妻のように輝き、轟く雷のような声であった。手に利剣を提げて、長い策(大なわ)を持って悪魔をよく降伏させていた。金羽鳥(孔雀)のように力を奮って、毒龍を討つことができた。公は、親鬼に向かって、
「汝ら人を害するのをやめ、改心せよ。もし改めないならば、不動明王の怒りにあい、汝らは後で臍をかむぞ」
と告げた。二鬼は大いに恐れおどろき、頭を地にすりつけ角を崩して最敬礼をして、
「わしらは、人を食うのを禁止されると飢え死にしてしまう。どうか願わくば、哀れと思い情けを与え給え。」
と願った。公は仰せられた。
「我には神呪があるから、汝らもこれを唱えよ。青虫も、ジガ蜂に変る事ができるではないか。汝らも人間に化られる。必ず化られるぞ。」
そこで二人の親鬼と五人の子鬼は、公に従って呪文を唱えて、ついに人に化ける事ができた。
それからは、木の実を採り水を汲み薪を拾って、公の食事を作った。ひたすら公の命令に従った。さらに公は、夫の名前を前鬼(ぜんき)妻の名前を後鬼(ごき)と改めるように命じた。』(「役行者伝記集成」p167〜169)
役行者像の前にいる2匹の鬼は生駒山にいた前鬼と後鬼という名の夫婦の鬼という事がわかりました。
生駒山は我が家からも見える、身近な山です。後でもっと調べようと思います。
658年 25歳 ー 4月5日、箕面の滝で龍樹菩薩とまみえ、秘密灌頂を受ける
役行者本記より『小角は四月五日に摂津の箕面山の山頂にある滝に臨んでいた。信心にこり誠をもって修行に勤めていたところ、速やかに天上に昇って龍樹大師の浄土に行き着く事ができた。(中略)大弁才天女、徳善大王これすなわち深紗大王、また金剛・胎蔵両界の十五童子が前後左右と周りに侍立して並んでいた。』(「役行者伝記集成」p95〜96)
(写真は筆者の撮影した箕面の滝)
667年 34歳 ー 大峯山に登り、自己の三世髑髏に会う
役行者本記より『四月に初めて大和の大峰に登り、剣の峰(八剣山、八経ヶ岳)に達した。そこには一帯の骸骨が横たわっていた。しかし、その五体の骨は分離してはいなかった。身長は九尺五寸、左手には独股杵を握り右には利剣を持って、上を向いて臥していた。小角が手から持ち物を取ろうとした。一心に力を入れて動かすと、山は揺れ動いたけれども取る事ができなかった。
小角は悲しみ、修行の力も効験がないのはまさにまた、これも因縁があるのかといって嘆いて、小角は天に祈り、さらに苦しい修行を続けた。小角が疲れ果てて気絶し、横に臥していた。その時に声が聞こえて告げていうには、
「小角よ、汝はこの峰において一生を終えること七度である。これは第三世の遺骸である。まだこの峰には、他に二世の遺骸があるぞ。」
千手の呪(千手観音の陀羅尼呪)を五度と化呪を三度唱えてからこれを取れ」
と告げる声が聞こえた。小角は教えに従い呪文を唱え、持ち物を取ろうとすると、骸骨は手を開いて自ら小角に授けた。
小角は一生の間、これらを持って身から離さなかった。』(「役行者伝記集成」p96〜97)
大峰山で約287センチもの大きな自分の骸骨に出会います。修行して夢で聞いた呪文を唱えると骸骨の手が開いて独股杵と利剣を手に入れる事ができました。
独股杵とは独鈷杵のこと。つまり役行者像が手に持っている持ち物です。
役行者の像には巻物を持っているパターンもあります。それについては後ほど調べます。
671年 38歳 ー 4月、大峯山にて蔵王権現を感得(金峯山寺の開創)
役行者本記より『小角は四月に山上に登った。(中略)小角は、今から七日に限って、捨て身の苦しい修行をした。現にその神に閲して誓った。一日一夜に、心経を一千巻と不動呪十万返とを一心に勤めて、いよいよ最後に青黒い怒りの身を現した。右手には金剛杵を持ち、左手には刀印を結んで腰に当てていた。』(「役行者伝記集成」p101)
蔵王権現は日本独自の仏です。金峯山寺の蔵王堂に安置されている日本最大秘仏(像高約7m)・金剛蔵王大権現三尊が有名です。「権現」については後ほど詳しく調べます。
672年 39歳 ー 生駒にて善童丸・妙童丸(前鬼・後鬼)を従える
役行者本記では前鬼・後鬼を従えたのは39歳の時となっています。このように書物によって記述が食い違うことがよくあります。
673年 40歳 ー 万法蔵院の当麻移転(当麻寺)に用地を喜捨
役公徴業録より『天武天皇白鳳二年(六七三)。万法蔵院を当麻の地に移した。万法蔵院は初めは河内の山田のあった。麻魯古(まろこ)王子が創立なされた。推古天皇は勅命をして官寺としていた。この年に王子がめでたい夢を見て、大和の大麻に移そうとした。当麻は公の領地であった。
天武天皇は夢の話を聞いて、小角を諭すように刑部(ぎょうぶ)親王に仰られた。麻魯古王子は、刑部親王を連れて公のところに訪ねてきた。二王子が来訪されたのを喜んで、その地を喜捨して寺になされた。(中略)
天武十年(六八一)、春二月。当麻に万法蔵院が完成した。名を禅林寺と改めた。世に当麻寺と称している。公は大峯から到着して、さらに若干の田園および山林を寄付された。』(「役行者伝記集成」p174)
當麻寺のパンフレットにも『當麻寺は、元は聖徳太子の弟、麻魯古親王が六一二年に河内国に作られたという禅林寺を、六八一年に役行者開創の当地に移されたものと伝えられる。』と記載されています。
このエピソードから役行者が、たくさんの用地を寄進できるだけの力を持った豪族だったことがわかります。
673年 40歳 ー 葛城山麓に金剛山寺を建てる(役行者本記)
675年 42歳 ー 生駒寺を建てる(役行者本記)
682年 49歳 ー 箕面寺を建立(役君形生記・役公徴業録)
683年 50歳 ー 熊野三社に赴き玉置山にて護摩供養(役行者本記)
この頃、役行者が全国さまざまな場所に寺を建てたことが伝えられています。信じられないくらいフットワークが軽く、足が早いです。
役行者本記より『天智天皇九年(六七〇)庚午、小角は三十七歳。七月大峯を出発して、三日のうちに出羽の国の羽黒山に着いた。それから、出羽の国の月山・湯殿山・金峯・鳥海山・奥州の秀峯(?)などを巡って、二十二日の後に大和に帰ってきた。およそ里数にして三千百里。』(「役行者伝記集成」p107)
試しにGoogleMapのルート案内で、奈良県の「大峯山」から山形県の「羽黒山」までの道のりを調べてみると、徒歩で休まず歩いて157時間(=6日半)かかることがわかりました。当時は道も整備されていないのに3日で到着してしまうとは、さすが役行者ですね!このように健脚な役行者は、全国をめぐり歩き寺を建立します。
686年 53歳 ー 生家を茅原寺(吉祥草寺)と称す
役行者本記より『小角の生家を改めて寺とし、血原寺(茅原寺)と名付けた。』(「役行者伝記集成」p111〜112)茅原寺は現在、吉祥草寺という名のお寺になっています。実際に行って来た様子を後でまとめます。
695年 62歳 ー 一言主神に石橋の工事を命ず
役行者本記より『小角は神通力を使って葛城一言主神に、次のように命じた。
「汝は、邪心があって勝手気ままに民衆の生活を損なっている。金峯には神名を蔵王菩薩と称される方がおられる。むかし、霊山において一乗の妙法を説いて民衆を救われていた。
今は仮に不思議な身をして現れ国土を鎮め護りたまい、弥勒菩薩が降りてくるのを待たれている。今から後は日夜金峯山に通って蔵王に付き従い申せ。霞を橋のようにして通し、他のことは考えるな。そうなれば我もまた、この浮き橋を渡って汝と永くともに往こう」
これを聞いた一言主は答えて、
「我は顔形がみにくいので他人に付き従うことを恥としている。我は須佐之男尊の子孫であるから、我を超えて他になんの神があろうか。持って生まれた自分の性を変えないのも我が性である。汝とは今後ともに語らぬ」
といった。そうしたいさかいがあったために、一言主は宮殿の門前で託宣をした。
小角は伊豆大島から帰った後、不動明王と孔雀明王の両呪法をもって一言主を縛ってしまった。すると一言主は長さが二丈半ばかりの黒蛇になった。小角はそれを葛城山の東の谷底に投げ込んでしまった。
今では邪心の性も伏せてしまって、怨に報いることもできないようになっている。』(「役行者伝記集成」p102〜103)
「日本霊異記」にもあったように、役行者が葛城の一言主に、葛城山と金峯山に橋をかけさせようとします。一言主は「顔が醜いから」とか「私は須佐之男尊の子孫だから、新しい神である金峯山の蔵王権現には付き従わない」といって役行者と喧嘩します。
これは、私には日本古来の神と、役行者が信仰する新しい宗教である仏教が喧嘩している様子を表しているように思えます。
699年 66歳 ー 5月、伊豆大島へ配流
役行者本記より『五月に葛城の神のために密告されて、天皇までに上奏された。その罪によって伊豆の大島に流された。ここに三年間もいることになった。』(「役行者伝記集成」p100)
役公徴業録より『天皇は公を召し捕る勅令を下した。しかし、公は空に昇って去ってしまった。役人は小角の母を獄屋に収容したので、公は止むを得ず自ら出てきて牢屋に囚われた。(中略)
公は島にいること三年。昼は禁制を守っていたが、夜になると必ず霊地に行って遊んだ。神々しく秀でた富士山を最もよく愛した。あるいは海の上を踏み渡り、あるいは大空を飛んで帰ってきた。その速く走るのは、まるで飛ぶ鳥もおよばないほどであった。(中略)
あるいはまた、霊光が海にきらめいていたので、公がこれを求めていくと、伊豆高峯ーあるいは熱海ーであったという。そこで独鈷杵をもって掘ったところ、そこから温泉が噴出してきた。その湯煙は、まるで雲のようであった。』
(「役行者伝記集成」p176)
お母さんを人質にとられ、伊豆大島に流されてしまった役行者。しかし夜になったら海の上を走って富士山に登りにいったり、独鈷杵で温泉を掘り当てたり…。流刑地でもじっとせず、さまざまな所へ行っていたようです。
700年 67歳 ー 10月、死刑の宣告
役公徴業録より『冬十月。天皇は公を死刑に処するように命令を下した。その時、富士の明神が形を現して、役人の刀が三つに折れてしまった。役人は大いにおどろいて、その実情を報告して京都の意向を聞くことにした。』(「役行者伝記集成」p177)
この年、天変地異が立て続けに起こり、不作になり、疫病が流行します。
役公徴業録より『天皇は、これを大いに心配なされていた。ある夜の夢に、晴れやかな顔をした一人の童子が雲の中から忽然と宮殿の前に降りてきて、
「尊い聖者を、なぜ罪にするのであるか」
と尋ねた。天皇がと問うと、
「われは、これ北斗の星である」
と答えたので、天皇は非常におどろいた。
その時に天皇は大島の状態を聞いた。さっそく、使いを派遣して公を迎えることにした。すでに公はこれを知っていたので、弟子に海を渡って使者を慰労するように命じた。』(「役行者伝記集成」p178)
701年 68歳 ー 無罪帰国、6月7日母と共に昇天
役行者本記より『老母を誘い手を引いて、箕面の山に着くと磬(うちいし)も鳴った。小角は聖衆に対して、静寂(煩悩を離れるを寂、苦患を絶つを静、すなわち涅槃)に入ることを報告した。
六月七日の未暁の丑の時。小角は母を鉄鉢にのせ微笑しながら隠没なされた。』(「役行者伝記集成」p116)
703年 70歳 ー 小角は唐に渡る
役君形生記より『箕面寺に移り住むこと三年。天命を保つこと七旬(七〇年)。母を一鉢に乗せて自身は草葉に坐って、海に浮かびながら唐に入られた。』
?年 ?歳 ー 唐で道昭法師と出会う
役君形生記より『我が国の道昭法師は、勅命を承って法を求めるために唐に渡られた。ある時、新羅の山の五百の虎の請いを受け、新羅の深山に行って法華経の講義をしていた。その法会の場所に、日本の言葉で質問したり、また論議するものがいた。
道昭法師が問うと、
「我は日本国の役優婆塞である。異類を化度するため、この法会に出席した」
と答えた。しかも、小角は
「親子の契りというものは、天人・仙人といえども捨て難いものである。我は母を伴ってこの国に来た。しかし慈父の骸は、なお日本にある。今も常に日本国に通っている。」
と言った。道昭は高座から下りて探し求めたが、声はしても姿は見えなかった。』
「日本霊異記」にも登場した唐で道昭法師が役行者と出会う話です。しかし道昭法師が遣唐使の一員として唐に行ったのは653年。そしてすでに700年に72歳で亡くなっています。やはりこの話には矛盾があるようです。
【コラム 主食は松!?】
役行者の略伝や伝記には役行者は山で「松の葉を食物として」暮らしていた、と書かれています。なぜ松を食べていたのか?調べてみると、中国の道教の影響が大きいようです。中国では「松寿仙人」「赤松子(せきしょうし)」など松を食べて仙人になったとされる人が数多くいると伝えられています。
日本の久米仙人も『この仙人も名だたる松葉酒づくりの名手であった。』(「松葉健康法」p185)そうで松を食べて空を飛ぶ仙人の力を身に付けていました。久米仙人は役行者の生まれる約100年前、欽明天皇(538-584)の時代に、役行者と同じく葛城の里に生まれたとされています。天平年間(729-749)に空を飛行しているとき、川で洗濯していた若い女性の白いふくらはぎにみとれて墜落してしまった、という伝説が有名です。
松葉には『多量な葉緑素、たんぱく質、粗脂肪、リン、鉄分、酵素、精油、ミネラル、脂溶性ビタミンA、血液浄化及び抗壊血病性ビタミンCを含有』(同前p94)していることが分かっています。
『松葉を齧(かじ)っていると、疲労はすぐ回復し、いつも若々しく壮健である。これは松葉が体内の老廃物をどしどし溶解して体外に排出させるからで、この効果はちょっと匹敵するものがない。』(同前p8)そうです。
昔から仙人に食べられ続けた松にはすごいパワーがあるようです。
5 日本における仏教受容
賀茂の一族だったのになぜ仏教?
これまで調べてきた結果、役行者は賀茂氏出身で、日本古来の神、神道を祀る家の生まれでした。なぜ、神道と関係が深い家柄なのに神道ではなく、仏教を信仰し、仙人を目指し、呪術を使うようになったのか、また謎が生まれました。
『賀茂氏を筆頭とする葛城の民の歴史は古く、大和朝廷にも一目置かせる存在だった。そんな彼らを守護してきたのが葛木山の神である。はるか縄文の昔からこの地に住まう葛木の山の神は、信託を下して人々を導き、その預言で村をすくい、敬う人々の願いを聞いて天変地異の災厄を和らげた。その呪力をもって敵対する勢力を凝らしめもしてくれた。
賀茂一族は、古代葛城の支配者の務めとして、その葛木山の神事を司ってきた。そんな賀茂氏の神事の中で、葛木の山の神の予言や神託を直接あずかる〈役(えだち)〉を担っていたのが、一族のなかの小角の家系だったのだ。』(「密教の本」p16)
この謎を解くために、この章では日本にどのように仏教が伝来し、広まっていったのか調べていきます。
仏教の起こり
仏教は紀元前5世紀ごろインドのシャカ族のゴーダマシッダルータ(釈迦)によってつくられました。その後、どのように日本に伝わったのでしょうか?
インドから中国へ
インドから中国へ仏教が伝わったのは、文献上では前漢の哀帝の紀元前2年に大月氏国の使者が伝えたのが最初とされます。後漢での仏教は道教の仙人である黄帝と一緒に仏陀が祀られており、不老長寿の霊力のあるものとして信じられました。仏教は現世的な功利を目的とする信仰の形で後漢の社会に受け入れられました。大乗仏教の受容が始まったのは1世紀、はじめは老子や荘子の道家思想と同化して受け入れられたようです。
中国から朝鮮へ
仏教の朝鮮への伝来は4〜6世紀に行われました。高句麗では372年に中国の前秦の皇帝苻堅が僧順道と仏像・経典を伝えたのが始まりとされています。
百済では384年に、東晋から僧摩羅難陀が来ると、王は宮中に迎えて教えを聞き、深く仏教を信じ、翌年都の漢山に仏寺を建てたことに始まります。
新羅では5世紀に民間に伝えられたが、公認は高句麗・百済よりかなり遅れ、法興王の時、527年に反対を押し切ってようやく仏教を公認したとされます。これは新羅では土俗的なシャーマニズムの力が強かったためと思われます。
百済から日本へ
6世紀、日本と朝鮮との交流がいっそう密接になり、中国の宗教や学問も流入し、受容されていきました。百済から五経博士や易、暦、医の諸博士が渡来して儒教やその他の知識を伝えました。儒教のほうが仏教より早く伝わりました。
仏教は北方仏教系統のものが、西域・中国を経て6世紀初頭以前に百済に伝わりました。6世紀の初め頃、渡来人である司馬達等(しばだっと)らが仏教を個人的に崇拝していました。
百済は高句麗、新羅との対抗上、日本との関係をより良くするために仏教を伝えました。
そうして、百済の聖明王から欽明天皇(509年〜571年)のもとに仏像・経典などが伝わりました。
戌午年(538年)『上宮聖徳法王帝説』、壬申年(552年)『日本書紀』2つの資料にその様子が記されているため、どちらが仏教伝来の正確な年代なのかは定まっていません。
仏教が入ってきたけれど…
しかし仏教が伝わったものの、異国の神を受け入れるのにやや抵抗を持つ豪族もいたため、6世紀の大和政権内で仏教の受容をめぐる争いが起こりました。
物部尾輿(もののべのおごし)は、山・川・岩などの自然物に神が宿っていてそれを信仰する在来の信仰を尊重し、仏教排斥を訴えました。
それに対し蘇我稲目(そがのいなめ)は、大陸の新しい文化を受容していかないと東アジアにおいてとり残されてしまうと、先進文化である仏教を受容する姿勢をとりました。
結果、蘇我氏や渡来系氏族により受容が進みます。しかし、豪族たちは仏教の教理を深く理解したのではなく、氏の繁栄をもたらす異国の神として崇拝したと考えられています。すなわち、仏教は呪術として受け入れられました。また、中国でおこった道教も朝鮮から渡来人によって伝えられました。
仏教の受容をめぐる争い(日本書紀より)
(欽明天皇)すなわち群臣に歴問して曰く、「西蕃の献(たてまつ)れる仏の相貌きらぎらし。もっぱらいまだかつて有ず。礼(いやま)ふべきやいなや」と。
蘇我大臣稲目宿禰奏して曰く、「西蕃の諸国、ひとえに皆礼ふ、豊秋(とよあきつ)日本、豈(あに)独り背かむや。」と。
物部大連尾輿、中臣連鎌子、同じく奏して曰く、
「我が国家の天下に王とましますは、恒に天地社稜の百八十神(ももそがみ)を以て春夏秋冬、祭神(かみまつ)りたまふことを事とす。まさに今改めて蕃神を拝みたまはば、恐るらくは国神の怒を致したまはむ」と。
天皇曰く、「願ふ人稲目宿禰に付けて、試みに礼ひ拝まむべし」と。
意訳すると、
欽明天皇は家来に聞きました。「西の国が祭っている仏の姿かたちはきらきら光り輝いている。このようなものは見たことがない。敬うべきだろうか?」
蘇我稲目は「西の国の諸国は、みんな敬っている。日本はどうしてひとり背くことができるのでしょうか?」
物部尾輿、中臣鎌子は「我が国家の王は常に古来からたくさんの神々を祭ってきました。隣の国の神を拝んだなら、日本の神々は怒るのではないでしょうか?」
天皇は蘇我稲目に試しに礼拝させた。
(蕃神(あだしくにのかみ)とは、隣の国の神、という意味です。)
雑密(ぞうみつ)
この頃伝わった仏教は初期の密教です。
『その初期密教が、中国を経て日本に伝わったのは奈良時代のことだ。この時期の密教は、空海・最澄が伝えた純粋密教〈純密(じゅんみつ)〉に対して、雑部密教〈雑密(ぞうみつ)〉と呼ばれる。雑然とした未整理の密教という意味で、真言・ダラニを唱え、治病、延命、出産など現世利益を願うところに特徴があった。呪術中心のこの雑密が日本に与えた影響は非常に大きい。
まずそれは、この国の古来の信仰と、歴史を揺るがすような摩擦(例えば蘇我・物部氏の争い)を引き起こした公的な仏教招来とは違い、水が乾いた土に染み込むように吸収されていった。
奈良時代すでに、国家からは公認されていないが、呪術的な能力を民衆に高く評価されていた山林修行者がたくさんいた。彼らの中で、雑密法のひとつ『孔雀明王経法(くじゃくみょうおうきょうほう)』を修したとされる役小角は、その代表的な人物である。』
(「密教の本」p72 より引用)
道教
道教は、老子と荘子の「道」の思想(「道」は天地よりも先にあって、すべてのものを生み出す根源であり、人間の知恵を超えた、世界を支配する根本原理とする)が基本理念となっています。
道教には、不老不死の仙人になる修行体系があり、独特の呼吸法や食事の選び方があります。煉丹術(れんたんじゅつ)では不老不死になれる薬を作ります。真っ赤な鉱物、丹砂(たんしゃ)が主な材料でした。丹砂は加熱すると水銀になります。服用して水銀中毒になる仙人も多かったとか…。
儒教
儒教は中国仏教よりも早くからあった思想で、開祖は孔子(前551~前479)です。周礼を重んじて仁義を実践し、上下の秩序を守ることを唱えました。
ここでポイントとなるのは、
役行者が生まれる100年ほど前に仏教(雑密)、道教、儒教が日本に伝わった
これらの宗教は現世利益を願う呪術的な要素が多かった
という点です。
丁未の乱(ていびのらん)
蘇我氏と物部氏の諍いは子の代まで続きます。丁未の乱(587年)で蘇我馬子が物部守屋を討ち、ついに物部氏を滅ぼしてしまいます。
この戦いに蘇我軍として14歳で参加した厩戸皇子は白膠木(ぬるで)の木で四天王をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓いました。
聖徳太子(574~622)
のちに推古天皇の摂政となった聖徳太子は仏教を保護しました。
「十七条憲法」や「冠位十二階」の制定、また遣隋使の派遣など、さまざまな国家的な事業を推進した聖徳太子。仏教を積極的に取り入れて国づくりに生かしていきました。例えば今までとは違い、能力があれば家柄が良くなくても出世できるような仕組みを作りました。法隆寺も外国の土木技術で建てられました。当時日本になかった先進的な文明と絡めて仏教を取り込み、さまざまな面で革新をもたらしました。
まとめ1
一度ここまでの流れを振り返ります。
6世紀の初め頃、渡来人である司馬達等(しばだっと)らが仏教を個人的に崇拝していた。
6世紀の大和政権内で仏教の受容をめぐる争いが起こった。
丁未の乱(587年)で蘇我馬子が物部守屋を討ち、物部氏を滅ぼした。
その頃伝わった仏教は現世利益を願う呪術中心の雑密。
仏教のほか、仙人を目指す道教、儒教なども伝わった。
↓
これらは役行者が生まれる約100年前のこと
また、
『(葛城)山の東麓、すなわち大和側は、すでに4世紀から5世紀にかけ豪族葛城氏が勢力を張り、皇室と姻戚関係を結び、葛城襲津彦(そつひこ)は朝廷の命でしきりに新羅・百済の人を連れてきて土着させた。その結果、この地方には韓人の社会が生まれ、そこには大陸の先進文化、それに陰陽道・道教などの宗教信仰も広がったのである。』(「修験道の本」p86 より引用)
という記述から、役行者の生まれ育った葛城は先進的な仏教に触れやすかったようです。
さらに、
『だが、小角の若き日、葛城賀茂氏の栄光はすでに過去のものだった。この国の土着の神々より、強力な霊威を持つとして仏教が伝えられてすでに100年余(仏教の公伝は宣化3=538年)。この飛鳥時代、聖徳太子の尽力などもあって、仏教文化が花と開いた時代であった。』(「密教の本」p16 より引用)
とあるように、役行者の生まれる直前、聖徳太子によってさらに仏教が広められていた、という背景があります。
私は、「子どものころから聡明だった役行者は、昔ながらの神様より、外国から新しく入ってきた呪術的な仏教、道教などに惹かれたからかな?」と思いましたが、それだけでは『葛城賀茂氏の栄光はすでに過去のものだった』という説明には少し弱いなと感じました。
本に書いてあることだけでは、ここまでしか分かりませんでした。しかし偶然、奈良県天理市にある石上神宮の宮司さんのお話を伺う機会があり、そこで謎が解けました。
物部氏は迫害を受け滅ぼされたため、物部氏が保護していた日本古来の神々も迫害されてきた、と宮司さんはおっしゃっていました。
石上神宮の神様は刀や宝物に宿る古来からの神様です。それらは迫害を受けてずっと地面に埋められてきたそうです。掘り起こされたのは明治7年のことです。
『当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治七年菅政友大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正二年御本殿が造営されました。』と石上神宮のパンフレットに載っています。
つまり、葛城賀茂氏に生まれた役行者が古来からの神々を祀ることができなかったのは、物部氏が滅んだため、彼らが保護してきた日本古来の神々が迫害を受けたからだと思います。
先進的な韓人の社会が生まれた葛城では、迫害もひどかったと考えられます。
以上のことから、役行者が仏教を信仰した理由は、
外国から新しく現世利益を願う呪術中心の強力な宗教がたくさん入ってきたから。
物部氏が滅んだため日本古来の神々が迫害を受けたから。
これら2つの理由があったからかもしれません。
大化の改新
聖徳太子の死後、天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏。中大兄皇子と中臣鎌足は、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させます(乙巳の変(いっしのへん) 645年)。ここから大化の改新が始まり、公地公民制、国郡制度、班田収授法、租調庸の税制など、唐を手本とした国家を築くために必要な基本方針と政策を進めていきます。中大兄皇子は即位して天智天皇となり、弟の大海皇子とともに律令国家を目指します。
役行者が12歳の時、乙巳の変がおこります。大化の改新は仏教界にも衝撃を与えました。どんなに仏教を学びたいという気持ちを持っていても、国の許可がなければ出家して寺で修行することができなくなりました。
そのような在家の僧は山にこもって修行しました。役行者優婆塞として仏教を信仰したのもこんな理由があったからかもしれません。
白村江(はくすきのえ)の戦い
百済が唐・新羅の連合軍に攻められ日本(倭国)に助けを求めてきました。663年、日本は朝鮮半島の南西部にある白村江という場所で連合軍と海戦を行い、大敗します。百済は完全に滅亡しました。
難波津から那津へ向けて出向した船団に向けて、額田王が詠んだ和歌「熟田津に 船乗りせんと月待てば 潮もかないぬ 今はこぎいでな」が有名です。
この時、役行者は29歳。と唐・新羅の連合軍が海を渡って攻めてこないように、日本各地に水城(堤防)、山城を建て防人を配備しました。地方豪族の負担は増えるばかりでした。
天智天皇
667年、唐・新羅の連合軍の攻撃を恐れて飛鳥から大津京に都が移されました。翌668年、中大兄皇子は即位し、天智天皇が誕生しました。引き続き律令国家を目指した天智天皇でしたが、晩年は後継問題に悩んでいました。弟の大海人皇子は身分・実績・人望の厚さ、どれをとっても素晴らしく、次期後継者に相応しい人物でしたが、天智天皇は自分の息子の大友皇子を太政大臣に任命しました。大海人皇子は出家して吉野に移ります。
歴史書には書いてありませんが役行者と出家した大海人皇子は、吉野で会っていたのかもしれません。黒須紀一郎の小説「役小角」では大海人皇子と役行者の関係や、壬申の乱の様子が描かれています。
壬申の乱(じんしんのらん)
672年、天智天皇の後継者争いが原因で勃発しました。天皇の息子の大友皇子(おおとものおうじ)と大海皇子が対立し、国を二分して戦う、古代における最大の内乱となりました。大海皇子は東国の豪族などを次々に味方につけ、壬申の乱に勝利します。
壬申の乱は役行者が39歳の時に起こりました。先の章でもふれたとおり、この頃の役行者は全国さまざまな場所に行き、寺を建立します。
小説「役行者」のように大海人皇子が東国の豪族などを次々に味方に付けることができたのも、役行者の働きがあったからかもしれません。
大海皇子は天武天皇として即位し、天皇を中心とした中央集権的政治構造(皇親政治:こうしんせいじ)を確立し、その後の朝廷政治の基礎を築きました。
天武天皇の崩御、持統天皇の即位
686年天武天皇は崩御、後継者争いのため大津皇子が謀反の疑いで処刑されました。689年即位の準備が進んでいた草壁皇子も死去。
690年皇后が持統天皇として即位。律令を完成させ、国作りを続けます。
藤原京へ遷都
694年都が藤原京に移ります。
697年持統天皇は孫の軽皇子(文武天皇)に位を譲ります。この頃朝廷では藤原鎌足の子、藤原不比等が活躍し始めます。
役行者は695年、62歳の時に一言主神に石橋の工事を命じました。
そして、699年の5月、役行者66歳で伊豆大島に配流されます。命令を下したのは文武天皇でした。
大宝律令が制定
701年唐の法律にならった大宝律令が制定されます。
同じく701年、役行者は母とともに昇天。
このように役行者の生きた時代は激動の時代でした。当時、大陸から伝わった最先端の仏教を学び、きびしい山岳修行をして呪術を身に付けた役行者。里人だけでなく、都の役人や天皇からも大いに頼りにされていたのではないでしょうか?
記録として残っているのが「続日本紀」だけというのは、かえって不自然なような気もしますが…。記録にない以上、今から1300年も前のことは調べることができません。しかし、いろいろと空想してみるのは楽しいものです。
後世、役行者の伝記にさまざまなエピソードが付け加えられたのも、このような作者の空想があったからかもしれません。
【コラム 役行者と薬】
陀羅尼助
役行者が今から約1300年前大峯山開山の際、山中に生い茂るキハダを煮てエキスを取ったところ胃腸の病をはじめいろいろな内臓・外傷にも薬効のあることを知りました。7世紀末、疫病が大流行した際、大釜を据えオウバクを煎じて多くの病人に飲ませ救済したと伝えられています。これが「陀羅尼助(だらにすけ)」とよばれる薬で現在もいくつかの会社から発売されています。
当麻寺と陀羅尼助
『当麻の地は、行者さんが若い頃に最初に開かれた行場で、のち681年、當麻寺創建のために小角によって寄進されたものです。役行者開山の塔頭中之坊には、役行者秘伝の陀羅尼助が伝えられ、小角自ら水を加持した井戸などが伝わっています。』
『当麻寺(たいまでら)の伝承では、「當麻の地を開いた頃に、井戸を掘り、水を清め、薬草を煮たことに始まる」といわれています。すなわち、當麻の地での修行は役の行者さんの修行の最初の頃ですので、出家したとされる666年頃からすぐのことと考えられます。
年代のはっきりしているところでは、少し降り文武天皇の代(697~)に疫病が大流行し、役行者さんが吉祥草寺の境内に大釜を据え薬を作り、病人を救済したという話です。』
(「當麻寺 中之坊と伽藍堂塔」陀羅尼助のはじまり https://www.taimadera.org/purpose/4/p3_2.html より引用)
6 山岳宗教とは?
役行者は17歳の頃から家を出て葛城山で修行を始めました。なぜ山で修行したのでしょうか?調べてみると、役行者の時代よりも、もっと遡った古い時代から山を信仰の対象とする「山岳宗教」があったことがわかりました。
山は古代から畏敬の対象
山は古代より人々の畏敬の念を抱く、崇高な存在でした。
初めは「ぼんやりとした崇高な存在」であった「山」の存在が、徐々に「言語化などにより人々に共有された神様」となっていきます。山岳を神霊の住まう聖地として崇め、山麓に祠、神社を設け、山の神を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して祭ることが多かったです。山を信仰の対象とする元になる2つの観念を説明します。
山中他界観(さんちゅうたかいかん)
山は人々の暮らす里よりも高くに位置します。そのため、高い所に昇っていく死者の霊魂が帰っていく場所と考えられていました。これを「山中他界観」といいます。古代は、死者の葬地としての埋葬地が山中深くに定められ、そこに死体が埋葬されていました。山は死霊が戻る他界とされました。恐山で死者の霊を呼び込むイタコの口寄せが行われているのも、山中他界観と関係があります。
神の降臨の場
山は神々の住む天に近いことから、神の降臨の場と考えられていました。天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が神々の住む高天原から地上(日本列島)に降り立った「天孫降臨」。天孫降臨の聖地である高千穂の比定地については、宮崎県北部の西臼杵(にしうすき)郡高千穂町と、宮崎県と鹿児島県との境に連なる霧島連山の高千穂峰(たかちほのみね)の二説がありますが、どちらも山と関係があります。
山岳信仰とは
山は生きている人間の世界と、神々の世界、天と地を結ぶ聖なる異界と考えられてきました。そこで修行することで、常人には持てない力を得るとされました。
そこから徐々に、神道、仏教、道教、儒教、民間信仰など、さまざまな宗教と融合していきました。
道教の影響
山岳信仰が始まった初期のころは道教が大きく影響しました。道教の教えの中に「仙人」になるための方法があります。山の中に自生している、植物や鉱物から特別な薬を作り不老長寿を目指します。
仙人の能力(神通)は6つあります。神足(じんそく)、天眼(てんげん)、天耳(てんに)、他心智通(たしんちつう)(他人の考えていることを知る能力)、宿命智通(しゅくみょうちつう)(過去のできごとを知る能力)、それに漏尽通(ろじんつう)(煩悩をとり去ってもはや迷いのない智恵)です。
仏教の影響
やがて仏教が日本に伝来すると、悟りを開いて、他の苦しむ人を助けようという目的で修行するようになります。さらに極楽浄土の考え方が広まると、山頂こそが極楽浄土であるとされ、霊山としてあがめられている山に登るという信仰も現れました。
修験者が着る白装束の意味
このように山は、人間が死の儀式を迎える場所としての役割もありました。これは修験者や山伏などが白い服を着る行為に繋がるという説もあります。仏教では白が「穢れていない=清浄」な色であるとされています。そのため死に装束や喪服にも白い服が使われました。
山に入り、「死」を疑似体験して格の高い魂になることを「擬死再生」や「擬死回生」とよびます。
山伏の着る白装束の意味には諸説あります。千光寺の住職さんに伺った時は「死装束」でした。死ぬくらいの覚悟をしての修行なので、死装束の白い装束を身につけるそうです。
吉祥草寺で伺った時は「むしろ生きるための衣装」とのことでした。大峯奥駈の修行で生きている感覚を実感するそうです。
川の源流・生命の源
山は川の源流です。水は農業を営む里人にとっては死活問題です。そこから、山そのものが神と考えられました。「水分神(みくまりしん)」は農業の神、豊穣の神、福の神として崇められています。
山の恩恵
山には里にはない様々な恩恵があります。水がある、木材がある、動物がいる、植物がある、鉱物がある…。なかでも鉄、金、水銀はとても貴重なものでした。
天皇の位を表す三種の神器(「日本書紀」では「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)、「八咫鏡」(やたのかがみ))はいずれも山の産物を素材としています。里人を束ねた平地権力の代表である天皇は、しだいに山に住む先住民族である山人を征服しようとします。
山人(さんじん)とは?
死霊の戻る世界、神降臨の場、そして生命の源となる山には山人が住んでいました。山人は里人からは鬼と恐れられて、後には天狗・山男・山姥(やまんば)などと忌避されます。柳田國男は山人は古代から明治まで存在したと指摘しました。
たとえば『日本書紀』では神武東征の際、「土蜘蛛」が天皇と戦って敗れた記述があります。近世では「土蜘蛛」が巨大な蜘蛛の妖怪として定着していきますが、「土蜘蛛」は妖怪ではなく、その土地に住む先住民、山人だったと考えられます。「背が低くて手足が長い」(『日本書紀』)、「土窟をほってつくった穴に住み、狼のような性(さが)、梟のような情をもっている」(『常陸風土記』)などといった、原始的で野蛮、異形の存在として描かれています。おそらく天皇が権力を持つヤマト王政権側からわざと貶められて書き残されているのでしょう。今でも奈良や京都、福岡などに「蜘蛛塚」が残っています。
『日本書紀』土蜘蛛の話
『昔、神武天皇が日向(宮崎)から東の国々を征服する旅に出た。
熊野から上陸して大和の宇陀などを経て葛城の高尾張邑(たかおわりむら)に来た。ここで天皇は土蜘蛛と戦い、これを退治した。土蜘蛛は土地の民のこと。この時、葛(かずら)のつるで作った網でクモを覆い殺した。よってこの地を「葛城(かずらき)」と名づけたという。やがて天皇は橿原宮で即位した。』(「奈良のむかしばなし」土蜘蛛塚 p11より)
写真は葛城の一言主神社の境内にある「蜘蛛塚」。昔、神武天皇が、土蜘蛛を退治し、頭と胴と脚を切って埋め、
その上に大きな石を置いた、ということです。
山を支配する
山には貴重な水、木材、動物、植物、鉱物があり、そこから三種の神器のような宝物や薬草などを手に入れることができます。山を支配することは、そこに産出するものを支配するにとどまらず、その山の祭祀権を持つ豪族やその部族を、政治的・宗教的に支配することを意味しました。そこにはすでに山人が住んでいましたが、彼らはますます山の奥に追いやられてしまいます。
前鬼・後鬼も山人?
このように考えていくと、役行者に付き従う二人の鬼、前鬼・後鬼は、山人だったのかもしれません。次の章ではこの前鬼・後鬼について詳しく調べていきたいと思います。
7 前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)
それではいよいよ役行者に付き従う2人の鬼について調べていきます。前鬼と後鬼がどのような鬼であったかを調べていきます。
「役行者本記」の鬼
役行者本記より『天武天皇白鳳元年(672)、小角は三十九歳。小角は生駒岳に登り、連日にわたって苦しい修行をしていた。ある日のこと、突然に二匹の鬼が小角の前に現れた。ひざまずいていうには、
「われらは、これ天ノ手力男神の末裔であります。今は大士(小角)様は菩薩の位におなりでございます。その身を現し生きとし生きる民衆を救済し、ご利益を与えられています。
どうか、われらも付きしたがうことをお許しください。これから永く背くようなことはいたしません。これは、先祖の神が使わせ給うところであります。」
と弟子にしてくれるように願い出た。小角は喜んで、
「それは善いことである。汝らの請うところを許す。今から先は、我の命じることに永く背いてはならぬ。これからは、夫は善童鬼と名乗って智の業、また婦は妙童鬼と号し理の業をせよ」と命じた。
その故に、妙童鬼は左手に水瓶を持ち、右手は施無畏印をほどこして、小角の右にいる。民衆に胎蔵大慈の理水を潤沢に施すのである。口は、開いて阿字を唱えているのは、自然に胎蔵性を示している。色が青緑色をしているのは、陰を表しているのである。
善童鬼は、左に居て、右手にまさかりの斧を持ち、左手は、拳にして腰に置き、背中には笈を負うている。まさかりの斧でもって、有漏の道すなわち迷いの世界を切り開く。また、無漏すなわち煩悩のない菩薩の道を開くのである。
拳は、魔鬼の堅をもよく打ち砕くのである。笈は金蔵を表示す。また、身は赤色で陽をあらわす。口は常に閉じて吽字を唱え、金剛性を示している。
両鬼は、常に小角の左右に付き従っている。小角は、前・後鬼に金峯の奥に住むように命じた。
弟子の義覚らの末徒の者たちが大峯修行をするときには、前・後鬼の子孫たちも親しくつきしたがうように命令した。云々。』(「役行者伝記集成」p104)
〈前鬼〉善童鬼
右手にまさかりの斧を持ち、左手は拳にして腰に置く
背中に笈(おい=リュック)を背負っている
身は赤色で陽をあらわす
口は常に閉じて吽字を唱える
金剛性を示している。
〈後鬼〉妙童鬼
小角の右にいる
左手に水瓶を持ち、右手は施無畏印をほどこしている
青緑色で陰を表す
口は開いて阿字を唱えている
胎蔵性を示している。
役行者本記ではこのように説明されていますが、立ち位置や持ち物が入れ替わったりしている像や絵画もあります。
生駒山と鬼
平群町立図書館で借りた『生駒谷の祭りと伝承』という本に、興味深い記述がありました。少し長いですが引用します。
『役小角の実像や活動はほとんどわかっていない。唯一の史料とされる『続日本紀』(中略)には、始め葛城山で呪術を行っていたこと、弟子に才能をねたまれて讒言され伊豆島へ流されたこと、当時の伝として鬼神を使役し他ことが記されているだけである。したがって、役小角が生駒山に来たことを確実に示す資料も何一つ現存しない。ただ、『日本書紀』斉明天皇元年(六五五)五月一日(庚午)条に注目すべき記事がある。
空中にして竜に乗れる者あり。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及び至りて、吉住の松嶺の上より、西に向ひて馳さ去りぬ。
この史料から確認できることは、生駒山が神仙境として意識されていること、また、葛城山との関連が語られていることである。このことは当時すでに生駒山が葛城山系山伏の活動の場であったことを推測させる。』(「生駒谷の祭りと伝承」p174)
青い笠をつけ唐人の形をした者が葛城嶺から竜に乗って生駒山に隠れ、午の時に住吉の松嶺の上から西に飛び去ったという不思議な伝承です。655年といえば役行者は22歳です。役公徴業録で語られた「生駒断髪山にて善童丸・妙童丸(前鬼・後鬼)を済度」の話は、役行者が21歳の654年の時のものでした。
『生駒山とその周辺には役行者を開基とする寺が多く存在する。生駒市の宝山寺、教弘寺・鶴林寺・岩蔵寺・東大阪市の慈光寺・興法寺・平群町の千光寺などである。』(「生駒谷の祭りと伝承」p175)
千光寺は私の住む平群町にあります。さっそく行ってみることにしました。
千光寺(奈良県生駒郡平群町)
真言宗醍醐派別格本山。正式な名称は「鳴川元山上千光寺」です。
『役行者が遠見ヶ岳に登り四方を眺めていると、生馬大明神が出現され、そのお告げのまま仏法修行と寺塔建立の願いを立てていると再び出現され、この先の谷にいると音伊僧に聞けと告げて消えた。役行者が行くと老僧が巌に立ち添っていた。老僧は役行者に孔雀明王の印名を授け、この力により大峰山を開けと命じた。そこで役行者は葛城山と大峰山を開いたが、その後また鳴川に帰ってきた。そして再びあの老僧と会い、そのお告げにより、天武12年に千手観音を作って本尊として千光寺を建立した。(「鳴川山千光寺元来記」『平群町史』所収 )』(『生駒谷の祭りと伝承』p189)
寺に昔から伝わる話によれば、天智天皇の時、役小角が宇佐八幡(大分県宇佐市の宇佐神宮)と生駒明神(奈良県生駒市の往馬大社)の神さまのおつげにより、この山に入って修行をしていると、千の光を放つ千手観音があらわれました。役小角は岩の上にこの千手観音のお姿をきざんで本尊としました。そのため「千光寺」と呼ばれています。
『役行者の足あと
千光寺の清めの滝の前の川端に大きい平らな岩があり、表面に小さな穴がたくさんあいている。これは役行者と前鬼、後鬼の足跡という。この足跡を踏む者は足痛が起こらないとされ、遠方より足跡を踏むためにたくさんの人がきた。(上田清文氏、「大和鳴川山元山上千光寺略縁起」『行場案内記』所収)』(「生駒谷の祭りと伝承」p184)
千光寺は私の住む平群町内にあったので、夏休みの仕事の前後に通っていました。ある暑い夏の夕方、前住職さんにお話を伺うことができました。役行者や前鬼・後鬼のお話を伺いました。お忙しい中、本当にありがとうございました!
「役行者さんは28歳から42歳まで千光寺で修行していた。お母さんの白専女さんもここで修行していた。大峯に行く前に修行していたから『元山上(もとさんじょう)』。役行者さんが大峯に行ってしまうと、お母さんは女人禁制の大峯について行くことができなかった。お母さんだけがここに残って修行した。だから『女人山上』とも呼ばれている。」
「昔、海を渡ってやってきた外国人が大阪の港から上がって、生駒の鬼取山(おんとりやま)に住み着いた。顔が日本人とは違っていて、赤かったり青かったりするのは外国の人だから。それが鬼と思われていたよう。赤い葡萄酒を飲んでいるのを血を飲んでいると勘違いされた。」
「前鬼や後鬼の子孫の方がいる。奈良県の下北山村の前鬼という場所で、今も宿坊をして修験者のお世話をしている。」
役行者のことを色々と調べていくうちに、何が本当で、何が作り話か分からなくなってしまい混乱していた私にとって、生駒山に海を渡ってきた外国人の方々が住んでいたこと、現在も前鬼・後鬼の子孫が実際にいらっしゃるという話を伺えたことは、ラッキーなことでした。役行者について、全てが後から付け足された作り話というわけでもなく、こういう事実が紛れていることに気付けることが、調べていく面白さだと思います。
ここで千光寺と金峯山寺に伝わる、役行者が登場する昔話を紹介します。
役の小角と滝の大蛇 千光寺(鳴川)につたわる昔話
『今より1300年前のこと、葛城山のふもとの茅原の里に役の小角(役の行者)という行者がいて、幼時から山中を駆けめぐり、呪文を唱えて修行していました。
青年になったある日、小角は平群の里で清らかに澄んだ小川を見つけました。この水はどこからくるのだろうと、小角は川の流れに逆らって山中へ入っていきました。すると、ごうごうと音を立て落ちる滝の所に出ました。あたりは昼だというのに薄暗く、冷気が漂っています。あまりの大きさに、小角は言葉もなく、目を凝らして滝を見ていました。
すると滝壺のあたりに、何か動くものがあります。それは長さ三丈(約11m36.4cm:著者注)もあり、両岸は玉の如く、口からは真赤な舌をチョロチョロと出している、恐ろしい大蛇でした。それで小角がかたわらの岩に立ち、右手に錫杖を左手に念誦を持って孔雀明王の真言を唱えカッとにらみつけると、大蛇は少しひるみました。が鎌首をもたげてすぐに襲いかかってきたので小角は右手の錫杖をふるい、大蛇の脳天を一撃したのです。大蛇は長くのびてしまいました。そしてうしろに、白髪の老人があらわれました。
老人は小角に頭を下げて、「この地は仏の住む霊地だから、ここで修行なさるように」と告げ、忽然と、岩影に姿を消しました。老人の消えた岩には八尺(約2m42cm:著者注)の地蔵尊がたち、静かに小角を見つめていました。
小角はここ鳴川の地で十年間修業し、千光寺を建立。その後、吉野の奥の大峰山三畳ヶ嶽に登り、修行道場を立てました。小角が、大峰山上のもといた所なので、千光寺を元山上と呼びます。今も、千光寺の行者堂には、この時の大蛇の骨がまつられています。小角が打ちふるったという錫杖も保存されています。
小角には、いつも前鬼後鬼という二匹の鬼がかしづいていました。これは人に害する荒神だったのを、小角が偉大な力を用いて弟子にしたものですが、この鬼たちが使っていた斧というのも、千光寺には残っています。』(「奈良大和路寺寺の昔話し」p32)
金峯山寺蔵王堂 鬼火の祭典
『二月節分会の夜、金峯山寺前庭では煙が天をこがすばかりの大護摩がたかれます。そして、煙の中を三匹の鬼が歓喜に満ちて踊り狂い、その法悦境が終わろうとするころ、柵外に待ちうけた年男たち、そうはさせじと逃げまどう鬼。一番先に火を取ったものは、その年の災厄からのがれられるといいます。一山の夜空を赤々と染める炎の乱舞。この行事には、次のようないわれがあります。
白鳳のころ(七~八世紀)、修験道の教祖(役小角)は生駒山中で修行に励んでいました。山中には夫婦の鬼がおり五人の子鬼を育てていましたが、山に食物が乏しくなったので、夫婦はしきりに里へ出て、人間の子供をとらえては子鬼たちに食べさせるのでした。里人の苦しみを知った役行者は、大説法を行って、鬼たちに心を入れかえさせたといいます。
この故事にちなみ、鬼に自分の持っている醜い心を払ってもらおうとすることから、鬼火の祭典は生まれたのです。』(「奈良大和路寺寺の昔話し」p48)
8 葛城修験
千光寺の住職さんは本の中で『(役行者は)千光寺から山伝いに信貴山・亀の背の行場を通り、大和川を越え、さらに二上山・葛城山・金剛山・葛城山(岸和田市)を経て、友ヶ島(和歌山市)で一年間修行し、南下して熊野那智・新宮・本宮・大峯山へと行かれた。』(「生駒谷の祭りと伝承 p 188〜p189)と語っておられます。
役行者は葛城の峰を仏法の世界に見立てて、法華経8巻28品(ほん)を1品(ほん)ずつ経筒に入れ経塚として埋葬したと言われています。
これらの経塚を中心に役行者とゆかりのある寺社や滝、巨石などの行場を1〜28番まで順拝する行を「葛城修験」と言います。和歌山県友ヶ島から始まり奈良県王寺町の亀の瀬で終わります。
2020年6月葛城修験は日本遺産に登録されました。
経塚とは仏教の経典を地中に埋め、土を盛ったものです。なぜそんなことをしたかというと、釈迦の死後2000年が経つと仏法が衰える「末法の時代」が来ると考えられていたからです。末法の時代が終わるまで経典を紛失しないように残しておくため、保管することが目的でした。末法の時代は平安後期の1052年から始まると考えられていました。しかし、経塚は次第に極楽に行けるようにというお祈りや死者の供養目的に変わっていきます。
日本での経塚の造営は、1007年、藤原道長が大和国金峰山山頂に造営した金峰山経塚が最古です。したがって、葛城修験の経塚も役行者が埋葬したわけでなく、後世の人がそのような話を作ったと思われます。
この夏休みを利用して、第1経塚である友ヶ島と、最後の第28経塚の亀の瀬に実際に行ってきたので、その様子をまとめたいと思います。
友ヶ島
葛城修験は友ヶ島から始まります。友ヶ島は和歌山県と淡路島の間、紀淡海峡に浮かぶ4島、地ノ島、虎島、神島、沖ノ島の総称です。
友ヶ島には和歌山市太加港からフェリーに乗って20分かかります。
友ヶ島には役行者が開いたとされる行場が5つあります。法華経の第1巻目「序品」の経塚が祀られているのは、友ヶ島の「虎島」。沖ノ島からは潮が引いた時のみ渡れる陸繋島ですが、現在は堤防が崩落しているため、虎島には行けません。
友ヶ島の5つの行場(葛城修験パンフレットより)
「友ヶ島 序品(第一経塚)ともがしま じょほん」『葛城修験第一番経塚。虎島にある序品窟は葛城修験の出発点、二十八宿第一の霊場とされています。奥行約10m、幅約50㎝の岩盤の割れ目に「妙法蓮華経序品第一」の経塚が祀られ、『紀伊国名所図会』などには「胎内潜」とも称したと伝えられます。』
「観念窟 かんねんくつ」『友ヶ島に残る、役行者の第2の行所。海に面した虎島の断崖にあり、波に穿たれた洞窟内には、修験道の総本山である聖護院門跡・道晃法親王筆とされる石碑が残されています。』
「閼伽井跡 あかいあと」『閼伽井とは閼伽(仏に手向ける水)を汲むための井戸のことで、観念窟と序品窟がある虎島に渡る前に、修験者が身を清めるための湧き水を汲んでいた場所と言われています。『紀伊国名所図会』には、「海潮の上るところにして、今は井なし」と記されていることから、江戸末期には水が涸れていたとみられます。』
「深虵池 しんじゃいけ」『沖ノ島北東部の海岸近くに位置する。和歌山県の天然記念物「友ヶ島深蛇池湿地帯植物群落」として指定されている約3ヘクタールの深蛇池のほぼ中央に「深虵池」と彫られた石碑が建っています。役行者が大蛇を池に封じ込んだという言い伝えが残っています。』
「神島剣池 かみしまけんがいけ」『神島で役行者が神剣を手にしたことから、この場所は剣池と名付けられました。神島の名前の由来は、淡島神社の御祭神、少彦名命が神島に降りられたことから来ています。上陸禁止の神島にあるので、沖ノ島の遥拝所から見える神島に手を合わせて遥拝します。』
「虎ヶ原」は「観念窟」の上にある崖を登っていく修行になります。岩肌には江戸時代、紀州藩初代藩主・徳川頼宣の命令を受けた儒学者・李梅渓が彫ったという「五所の額」があり、「禁殺生穢悪・友島五所・観念窟・序品窟・閼伽井・深蛇池・剣池」と、友ヶ島の5つの行所が刻まれています。
テレビでも良く取り上げられるそうです。
友ヶ島に実際に行ってみました。台風でずっと天気が悪く、1週間ぶりにでたフェリーに乗りました。当日も初めは雨が降っていましたが、途中で止んだので島を散策しました。
残念ながら、台風の影響で足場が整備されていないため友ヶ島の5つの行場に行くことはできませんでした。
しかし、友ヶ島は明治時代から第二次世界大戦まで、軍事要塞として使用され、砲台跡などが残されています。古い煉瓦造りの砲台跡と生い茂る木々で構成された景色は、まるでジブリアニメの世界ようで、とても雰囲気がありました。(写真は筆者撮影)
亀の瀬
葛城修験の28番目の経塚は2つあります。明神山と亀の瀬です。
明神山 普賢菩薩勧発品(みょうじんやま ふげんぼさつかんぼつほん)
『葛城修験第二十八番経塚は、多くの古記には河中の「亀の尾宿」であると記述されている。また『役君形生記(えんくんぎょうしょうき)』によれば「卒塔婆の峰」に埋経したとあり、この「卒塔婆の峰」が現在の明神山に当たるのではないかと考えられたことから、明神山を第二十八番経塚とする説もある。現在、明神山の山頂には水神社が鎮座し、地元で「西山の明神さん」として親しまれ、修験者の方々も訪れている。』
(「葛城修験」パンフレットp 27より引用)(写真は筆者撮影)
明神山は奈良県王寺町にあります。標高273.6mで気軽に登れる山です。私も麓の無料駐車場に車を置いて、登ってみました。
明神山の山道は舗装されていてスニーカーでも登りやすく、約40分で頂上に到着。展望デッキからの眺めもとても良かったです。
亀の尾宿 普賢菩薩勧発品(かめのおしゅく ふげんぼさつかんぼつほん)
『もうひとつの第二十八番経塚とされる、大和川の「亀の瀬」にある亀石。役行者が開いた修行の場でもあった。急流で磨かれた大きな花崗岩は、江戸時代に刊行された『大和名所図会』の挿絵に「かめ石」として描かれ『葛嶺雑記』にも「亀瀬の経石」と記されている。室町時代には、岩には文字が刻まれ、横に宝篋印塔が建っていたという。』(「葛城修験」パンフレットp 27より引用)(写真は筆者撮影)
亀の瀬は大阪府柏原市にあります。『亀瀬は古来より河川交通の難所で、難波舟から大和舟の荷揚場でした。安全祈願から龍王社が祭られ雁多尾の集落は古来、たたら製鉄の工人集落で此処小鞍嶺は古代の龍田越え筋で大和河内の国境の峠です。』(亀の瀬龍王社の立て看板より抜粋)
私が訪れた場所はほんのごく一部です。ですが、このように役行者ゆかりの地をたどってみると、本当に様々な場所に行場や寺があることが分かりました。『役行者は数多くの寺を開かれましたが、生涯その寺々には定住されませんでした。また、修験道の開祖ではありますが、修験道という組織や宗団を作ったわけではなく、さらには著作は何も遺しておられないので、これが教えだという確たるものはありません。』(体を使ってこころをおさめる修験道入門p70)
吉祥草寺のお坊さんのお話をうかがった時も「空海さんにはたくさんの著書があるのに、役行者さんはなにも本を書き残していない。大峯山奥駆けの修行では、ただ一日中ひたすら山を歩いているだけ。それでも心がなぜか浄化され、人に優しくなれる。」とおっしゃっていました。
役行者は修験道の開祖といわれますが、『役行者ご自身が修験道を大成したわけではなく、また、役行者の時代に修験道がまとまった信仰形態として定まったということでもありません。』(同前p28)なぜこのようなことが起こったのでしょうか?修験道が現在まで途絶えず続いているのはなぜでしょうか?次の章では、そもそも修験道とはなにか?そして、その歴史についてまとめていきます。
9 修験道とは?
修験道を作ったのは?
日本古来の山岳信仰に神道や外来の仏教・道教・陰陽道などが習合して成立した日本独自の民族宗教です。修験道は役行者が開祖と言われていますが、本当はどうだったのでしょうか?
『時代が下がって、役行者の足跡を慕う多くの山林修行者が現れてきました。たとえば、弘法大師空海をはじめ、当山派修験の祖・理源大師聖宝(しょうぼう)、天台修験三井寺(みいでら)の開祖となる智証大師円珍や、比叡山の回峰行の祖・相応和尚(そうおうかしょう)など数多の行者が金峯山や大峯山で修行しました。
それら私たちの先人となる山林修行者たちが、徐々に修行法や所作をかたちづくり、儀礼や教養を持った宗教として集団をつくりあげていきました。』(「体を使ってこころをおさめる修験道入門」p28)実際はこのように、さまざまな修行者によって徐々に作り出された宗教だということが分かりました。
では修験道とは何なのか?簡単にまとめていきます。
①山の宗教・山伏の宗教
古来から、大自然は聖なるものの住まう場所と考えられていました。修験道では大自然(山・神・仏)が道場です。
山修行の意義は疑死再生の修行ということです。山に入り、山中で一度死んで生まれかわって出てくると考えられています。
・山上ヶ岳表行場の西の覗き・・・一度死んでリセット
・山上ヶ岳裏行場の胎内くぐり・・・母の胎内から出てくる
たとえばヒトの細胞は数年で入れ替わっています。皮膚は28日、胃腸は40日、血液は127日、骨は200日、肝臓・腎臓は200日で新しく作り変えられています。しかし私達は「生まれかわった!」という実感は持てません。
それが、山修行では「一度死んで生まれかわる」という実感があるそうです。それまでの自分が一度死んで、生まれ変わって山から降りてくる…参加者全員の顔つきがかわり、生きる苦しさ、生まれかわる苦しさを体験します。これが山行の実践で得られることです。
また山伏とは、「山に伏し、野に伏して修行する」修験道の行者の様子からそう呼ばれるようになりました。山伏12道具(18道具)といわれる独特の恰好をしていますが、それも威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)、すなわち「姿かたちの中に仏法そのものが生きている」という考えの現れなのです。
山伏の服装
教義上では、鈴懸や結袈裟は金剛界と胎蔵界、頭巾は大日如来、数珠・法螺・錫杖・引敷・脚絆は修験者の成仏過程、斑蓋・笈・肩箱・貝の緒は修験者の仏としての再生というように、この衣装の着用によって、山伏が大日如来や金胎の曼荼羅(まんだら)と同じものとなり成仏しうることを示すと説明されている。
❶頭巾(ときん)大日如来に五智宝冠を現し、迷いの衆生と悟りに仏とが一体であるという教えを象ったもの。二本のひだは十二因縁、黒は煩悩を表している。
❷錫杖(しゃくじょう)錫杖は人々を悟りに導くもので、修験者は六の菩薩の錫杖を用いる。身を守ったり、自分の存在を知らせたり、経を読むときに調子を取ったりするのに用いる。
❸結袈裟(ゆいげさ)
修験道の山伏がつける袈裟。九条袈裟という袈裟を折りたたんだもの。
❹法螺貝(ほらがい)お勤めの時や山を歩くときに吹く道具。山伏が山中に入るとき、猛獣を追い払うときに吹いた。正しい教えを多くの人に伝えるという意がある。
❺手甲(てこう)
❻引敷(ひっしき)鹿やウサギなどの皮で作られた携帯座布団。文殊菩薩が獅子に乗っていることになぞらえている
❼脚絆(きゃはん)
❽鈴懸衣(すずかけい)修験道の行者山伏が衣の上に着る麻の法衣。鈴掛とも書く。金剛界を表わすという上衣と、胎蔵界を表わすという袴から成る。行者が深山を行くとき、篠竹の露を防ぐためのものといわれる。
❾螺緒(かいのお)山岳修行において、岩場を登る時や危難の時にこれを解いて用いる用具
履物について
昔は「八つ目のわらじ」と呼ばれる履物でしたが、今は白い地下足袋を履きます。役行者は一本歯の下駄を履いていたとされています。吉祥草寺の住職さんに実物をみせてもらいました。「山道を上り下りするとき意外とバランスが取りやすい」とのことでした。現存の役行者像は二本歯の下駄を履いていることが多いそうです。
役行者が手に持っているものは?
長い棒は山伏が持っているのと同じ、錫杖。輪が触れ合う音で山の中で毒蛇や害獣を避けました。反対の手に持っているのは独鈷杵。巻物を手にしている場合もありますが、それは法華経だと言われています。
②宗派を超えた実践宗教
修験道では滝行、山での修行、火渡りなど、自分の体を使って行じていく中で何かを得る、「実修実験・修行得験」の宗教です。実践でしか味わえない世界、山の修行にはそれがあります。体を使って心をおさめます。大峯の奥駆け修行では1日12~13時間歩きますが、「我」が山の修行の中でとけるようになくなっていく体験をするそうです。
③神仏習合・混淆(こんぎょう)の宗教
修験道は神仏習合・混淆(こんぎょう)の多神教的宗教です。これは日本の家屋に仏壇もあれば神棚もある、というようなとても日本人的な祈りです。
日本人の仏教受容の歴史をすこし振り返ります。まず神道があり、仏教が6世紀半ばに伝来しました。始めこそ蘇我氏と物部氏の間で対立がありましたが、その後明治時代の神仏分離までの間、1300年間も神と仏は仲良しでした。
仏教の「仏」は日本に伝来した当初「蕃神(あだしくにのかみ)」すなわち「隣の国から来た神」として受容されました。
日本人にとっては神も仏もほぼ一緒だととらえられました。森羅万象に神の存在を感じ八百万(やおよろず)の神とも表現される古代日本の神観念では八万四千の法門から生ずる仏もわけ隔てなく尊ぶおおらかさがあったのでしょう。
神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現われたとする、「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」もさかんに唱えられました。「権現」とは「権」は「仮」、「現」は「現れる」という意味で、現代で言うアバターのようなものです。
全国の主な権現
場所 熊野 (熊野三所権現)
神 本宮・家都美御子神
仏 阿弥陀如来
神 新宮・速玉神
仏 薬師如来
神 那智・弁須美神
仏 千手観音
場所 羽黒
神 羽黒権現
仏 観音菩薩
場所 白山
神 白山妙理権現
仏 千手観音
場所 英彦山
神 英山三所権現
仏 阿弥陀如来・釈迦如来・千手観音
場所 富士山
神 大棟梁権現
仏 大日如来
④優婆塞のための宗教
出家の修行者を 比丘(びく)(男性)、比丘尼(びくに)(女性)といいますが、在家の修行者を 優婆塞(うばそく)(男性)、優婆夷(うばい)(女性)といいます。
修験道は在家主義を本義とします。修験道の教え自体が在家、出家を問いません。役行者自体が生涯出家せず在家のまま通したので、通称「役行者優婆塞」ともいいます。真言でも「おんぎゃくぎゃくえんのうばそくあらんきゃそわか」といいます。
役行者以来、修験は優婆塞信仰、庶民信仰を大切にしてきました。大伽藍の奥に収まるのではなく、常に社会に出て世俗のなかで活動するのが修験道の特徴です。
優婆塞、優婆夷のための宗教であり、優婆塞、優婆夷自身が担い手の宗教です。理論や教義に縛られることなく、猥雑ともいえる日々の生活のなかで庶民の宗教心に寄り添い続けた宗教です。(参考「体を使ってこころをおさめる修験道入門」)
修験道は役行者がすべて作ったわけではなく、その後彼を慕って山で修行をしたさまざまな行者によって徐々に形作られていきました。そのため、役行者の伝記ではたくさんのエピソードが創作されました。後から次々に話が付け足されるので、矛盾するようなところも出てきたのでしょう。たとえば前鬼と後鬼を従えた役行者の年齢も伝記によって食い違っています。
しかし言い換えれば、それだけ役行者や修験道に対する民衆の信仰が高まっていったということです。
たとえば聖護院の末寺は全国に二万二千余カ寺もあったそうです。修験道のお寺だから、開祖の役行者の像が配置されます。このようなわけで、全国たくさんのお寺に役行者像があるわけです。
役行者は亡くなってから1000年以上後の寛政二年(1799年)に、当時の光格天皇から神変大菩薩という諡号(しごう)を与えられています。このことからも、いかに民衆から長くにわたって厚い信仰を受けてきたかがうかがえます。しかし信仰を集めれば集めるほど、権力者からはやっかいな存在として認識されていきます。
ちょっと話は戻りますが、なぜ役行者は讒言され伊豆に流されてしまったのでしょうか?
『その当時の仏教界と役行者の生き方はちょっと違ったわけです。その当時の仏教というのは、今考えるような仏教ではありません。(中略)
当時は特別の人しか坊さんになれないというふうな仏教でしょう。役行者はそういうあり方の仏教に背を向けて、自ら葛城山に入って修行するという道を選ばれた。だから時の権力からは異端視されます。
すでに奈良にはお寺があったわけですから、そういうお寺に対して背を向けて修行して、そこに人が蝟集してくる。これはけしからんということですね。民衆が役行者を頼って集まって来るんですね。学問寺へはいきません。そういうことで、大寺院のいかりやねたみをかったのでしょうね。』(「〈修験〉のこころ」p199)
同じように時の権力者のいかりやねたみをかったせいか、江戸時代以降、宗教政策が相次ぎ、修験道は弾圧されていきます。江戸幕府は1613年に「修験道法度(はっと)」を定め、寺社の擁する軍事力をふくむ大きな勢力をそいで幕府の管理下に置こうとします。修験者を全国の修験者を天台宗の本山派と、真言宗の当山派のいずれかに所属させ、遊行禁止・定住を命じました。
『修験者は人里から遙かに離れた深山を抖擻(とそう)し、山づたいに自在に移動して諸国を股に活動することにより、独自の神秘性と固有の存在感を保持したが、中世以降、本山・当山の支配のもとに組み込まれると、そこに大きな変質が生じた。(中略)
かつて国境を自在に超えて活動した山伏たちは、町や村に住む「里(さと)山伏」へと姿を変え(中略)江戸期を通じて「修験は低級な宗教」という評価を定着させていったのである。』(「修験道の本」p107)
山伏は悪者というイメージはこのようにしてついていきました。
そして明治元年1868年「神仏分離令」(正式には神仏判然令)により、神か仏のどちらかを残せと法律で決め、全国で廃仏毀釈という仏教の排斥が始まります。
さらに明治5年1872年に「修験道廃止令」が出され修験道そのものが禁止されました。『明治初期の修験道廃止により職を失った山伏は、なんと一七万人にものぼったといわれます(中山太郎『日本巫女史』大岡山書店・一九三〇年)。』(「体を使って心をおさめる修験道入門」p38)
また、私は金峯山寺のお坊さんに「昔は日本の人口の10人に1人は山伏だった。」と教えてもらいました。山伏は先先や医者としての役割もあったそうですが、これほど民衆の生活と密着していた修験道、山伏は「修験道廃止令」により激減します。こうして修験道という宗派は第二次世界大戦終了時まで、宗教法制上は非公認という状態が続きます。
私は神仏分離令や廃仏毀釈のことは知っていましたが、修験道禁止令のことはお坊さんの話を聞いたり、本で調べたりするまでは全く知りませんでした。ほんの150年ほど前の出来事なのに、私のように「修験道廃止令」や当時の歴史を知らない人は多いのではないでしょうか?
しかしそんな大打撃を受けた修験道が再び注目されています。そのきっかけは2004年7月に『紀伊山地の霊場と参詣道』がユネスコ世界文化遺産に登録されたことです。登録されたのは、吉野・大峯、熊野三山、高野山という3つの霊場と、大峯修行道(大峯奥駈道)、熊野参詣道(熊野古道)、高野山町石道という3つの参詣道です。今ではたくさんの人々がこの地を訪れています。
現在は「第3次キャンプブーム」だそうです。キャンプ、アウトドア、ハイキング、登山が流行しています。自然に触れることで元気になったり、癒されたり、多くの人が趣味としてアウトドアを楽しんでいます。昔は日本人の10人にひとりが大自然を駆けまわって修行していた山伏だったのだから、今でも自然を求める気持ちが日本人の無意識に刻まれているのかもしれません。
10 訪れた場所
役行者について調べるために訪れた場所を紹介します。
元山上千光寺
奈良県生駒郡平群町鳴川188
西暦660年頃、生駒明神に参拝の折にご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、将軍木(ウルシの木)で千手観音を刻んで安置しました。その後、天武天皇が国家鎮護を願って伽藍を建立し、「千光寺」と名付け、寺領500石を下し賜われました。役行者霊蹟札所。
信貴山 朝護孫子寺
奈良県生駒郡平群町信貴山2280-1
醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。
役行者霊蹟札所。
金峯山寺
奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされました。白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。役行者霊蹟札所。
吉祥草寺
奈良県御所市茅原 279
この地は修験道の開祖役行者神変大菩薩の出生地とされ、当時は役行者(小角)の創建と云え、境内の一角には産湯の井戸がのこされています。役行者霊蹟札所。
葛城坐一言主神社
御所市森脇432
『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。葛城修験構成文化財。
祈りの滝
御所市関屋
昔、役の行者が、葛城山へ修行にゆく時にこの滝で身を清めて衆生済度の祈りをこめたところだという。
箕面大滝
大阪府箕面市箕面公園2−2
「日本の滝百選」に選定されている落差33mの大滝。
その流れ落ちる滝の姿が、農具の「箕」に似ていることから、
箕面大滝と呼ばれるようになり、
地名の由来もここから来ていると言われています。
箕面山瀧安寺
大阪府箕面市箕面公園2-23
箕面山は古来より箕面滝を中心に修行道場として発展し、我国では最も古い修行地の一つです。西暦六五八年、役行者が箕面滝で修業し、弁財天の導きを受けて真理を悟り宗教家として大成。行者は報恩感謝のもとに、自ら弁財天の像を作製し、滝の側に祭祀して箕面寺と称したのが、当寺の始めと伝えられています。(後に、瀧安寺と改称)
松尾寺
奈良県大和郡山市山田町683
松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、勅命による日本書紀編纂の折、42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立された日本最古の厄除霊場です。役行者霊蹟札所。
霊山寺
奈良県奈良市中町3879
神亀5年(728)流星が宮中に落下し、大騒ぎになり孝謙皇女が征中の病(ノイローゼ)にかかられた時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、すぐに行基菩薩が代参。皇女の病が快癒しました。天平6年(734)聖武天皇は行基菩薩に大堂の建立を勅命。役行者霊蹟札所。
寶山寺(宝山寺)
奈良県生駒市門前町1-1
寶山寺の開創について、詳しいことはわかっていませんが、生駒山は、天智天皇三年(664)、役行者が梵文般若心経を納めたと伝説されている「般若屈(はんにゃくつ)」という洞窟があり、そこを拠点とした山林修行者達によって、次第に開かれていった地であるようです。よって寶山寺では、これをもって開創の年としております。役行者霊蹟札所。
石上神宮
天理市布留町384
石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
當麻寺
奈良県葛城市當麻1263
二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、現在の當麻寺がはじまったのです。https://www.taimadera.org/
友ヶ島
和歌山県和歌山市
紀伊水道に浮かぶ和歌山県の友ヶ島は、5カ所の行所を持ち、葛城修験のはじまりの地。
亀の瀬
大阪府柏原市峠
亀の瀬の右岸にある竜王社は、かつて剣先船の船着き場があった地で、「大坂剣先船問屋中」と刻まれた石燈籠も残っている。
11 法螺貝体験
金峯山寺の法螺貝体験に引き続き、9月11日(日)千光寺で毎月第2日曜日に行われている法螺貝講習会に参加しました。法螺貝と言えば、戦国時代に武士が合戦の合図として吹いている、というイメージがあるのですが、修験道の法具としても使われています。山での合図や、法要で吹いたりします。講習会では参加者ひとりずつ法螺貝を吹いていきます。私もさっそく法螺貝を渡されて、ほかの参加者の前でいきなり吹かされたのですが、今回も音が出ました!初めてでは音が出ない人も多いそうです。なぜ初心者の私でも法螺貝の音を鳴らすことができたのか気になったので調べてみました。
法螺貝について
仏教法具で、修験道では山伏の象徴として法要、峯中での合図などに古来から使われてきました。
仏教での使用 法螺は「ほら」ではなく「ほうら」と読む。如来の説法の声を象徴し、その音を聞けば罪が消滅し、極楽に往生することができると経典にはある。そこで衆生の罪の汚れを消し去り、悟りに導くことの象徴として法螺を吹くのである。空海が持ち帰ったといい、灌頂(かんじょう)の際には、阿闍梨が受者に法螺を授ける。(『密教の本 驚くべき秘儀・修法の世界』p152 より)
ルーツ
インドが起源の仏教の音具。いまでもヒンドゥー教寺院で盛んに使われている。フィジー諸島の人々は町の魚市場を開く時、大きな法螺貝を吹きならして島民に合図をする。千手観音の持ち物のひとつでもある。(『日本の伝統芸能8 日本の音と楽器』p18 より)
法螺貝はどんな楽器?
法螺貝は楽器の分類では気鳴楽器といい、空気そのものが振動して発音体となり音を発する。意外なことに、法螺貝はトランペットやホルンと同じく金管楽器に分類される。リードがなく自分の唇をふるわせて音を出す。構造上、笛ではない。英語で法螺貝は「トランペット・シェル」という。(『音楽のはじまり4 管楽器の話』『図解音楽の世界3 金管楽器』)
トランペットとの比較
トランペットは取り外しのできるマウスピース(唇に当てる部分)が付けられて、唇の振動が、管内に効果的に伝わるようになっている。トランペットは主に、バルブを使って管の長さを変えて、音の高さを変えている。バルブを押さない時は「ド ソ ド ミ ソ ♭シ ド」の音しか出ない。
法螺貝の吹き方
大型の巻貝の先端を削って、木や金属でできた円錐形の歌口を取り付けている。息を吹き込むときに唇を振動させて共鳴音を出す。
トランペットと違いバルブが無いので、出せる音は少ない。
調べてみると、なんと法螺貝とトランペットは同じ楽器の分類であることが分かりました。どちらも唇を振動させて音を出す構造です。私は小学生のころ金管クラブでトランペットをやっていたので、唇をふるわせて吹くことが自然にできたため、初めてでも法螺貝の音を出すことができたようです。
立螺作法(りゅうらさほう)
法螺貝を吹くことを正式には「法螺貝を立てる」「立螺(りゅうら)」という。法螺貝の吹き方の作法を「立螺作法」と呼び、山伏や兵法の流派によって多少異なる。唇の左右の上下の唇の出し方、引き方で音をコントロールする。伝統的な立螺法では「秘伝」として唇の出し方、口金の当て方が伝承されている。
音は高低があり、高音を甲音(かんおん)、低い音を乙音(おつおん)という。音階は低いほうから 木、(もく)火(くわ)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)と5音ある。木、(もく)火(くわ)は乙音、土(ど)、金(ごん)、水(すい)は甲音。乙にも高低があり、5音のそれぞれに中間があり10音。1音は2つの意味があり、1つの音、という意味と、音の高さを表す意味もある。音には時間の流れで形があって、乙では発声、前声、返し、後声、吹き上げと構成される。
天然物
天然の貝に歌口を付けただけのものなので、一つ一つ音が違う。大きい貝は低い音が出て、小さい貝は高い音が出やすい。胴体の部分によっては生地が薄い部分もあり硬いものに当てると簡単に割れてしまう。胴にひびが入るだけでも音が変わってしまうほどデリケート。
武士たちの戦場の合図としても使われた法螺貝
合戦のはじまりを告げる合図や命令伝達としても法螺貝は使われた。平安時代末期ごろ、山伏などが使っていた法螺貝を、陣貝として軍用に転用。網袋をかぶせて紐をつけ肩から下げて戦場で持ち運んだ。安土桃山時代には一般的になり、一軍の将として部隊を任されることを「貝を許される」というようにもなった。法螺貝は音を出すのも、音による符丁を成立させるのも難しいので、戦場では陣太鼓も使われた。(『ずかん武具』p95 より)
出世螺(しゅっせぼら)
江戸時代の「絵本百物語 桃山人夜話」に登場する日本の妖怪。「深山(しんざん)にはほら貝(かひ)有(あり)て、山に三千年、里に三千年、海に三千年を経て竜と成る。」法螺貝は山に三千年、里に三千年、海に三千年経た後、龍になるという話。
江戸時代の外科医・武井周作の著書『魚鑑』によれば、深山の土中には巨大なホラガイが棲んでおり、これが山中に三千年住んだ末、大規模な山崩れと共に土の中から抜け出し、さらに里に三千年、海に三千年住んだ法螺が龍に化身したものが出世螺だという。
また、『理科十二ケ月. 第九月 暴風雨』(1901)の「第九回 法螺貝ぬけて老婆仰天す」(p35)には山崩れの原因が「法螺貝がぬけたから」と信じる当時の人たちの様子が描かれている。
まとめ・感想
役行者について調べてみようと思ったのは、今年の4月2日に京都府木津川市の神童寺で役行者像に出会ったのがきっかけでした。仏様なの?お坊さんなの?実在した人なの?様々な謎が浮かんだので、この図書館を使った調べる学習コンクールのテーマにしようと思いました。役行者の生まれ育った葛城山(現在の金剛山)は私が小さい頃から見て育ってきた山です。地の利もあるし調べやすいだろうと思っていました。
しかし実際調べてみると、様々な役行者の話があり、どこまで本当か作り話か分からなくなってしまいました。このまま役行者に関する本を集めて読んでいても、レポートとしてまとめられるか不安になりました。煮詰まってしまい、これは本を読んだり、インターネットで情報を集めているだけでは前に進まないと思い、役行者ゆかりのお寺で開催されていたイベントに参加することにしました。
朝5時に自宅を出発して、金峯山寺の朝の朝座勤行に参加したり、千光寺では滝行体験したり、法螺貝を吹いたりしました。お坊さんに役行者について質問した時は、どなたも丁寧に優しく教えてくださいました。千光寺は住んでいる町内にあり、数年前何かのイベントの時に連れて行かれて、途中の坂道が本当にきつくて「もう絶対行きたくない」と思っていました。それがこの夏休みは毎朝早起きして仕事の前にお参りに行くようになったので、人生何があるかわかりません。
この夏は日焼けもしたし、体力もついたし、初対面の方に質問して話を伺わせてもらう度胸もつきました。お坊さんだけでなく、一緒にイベントに参加した方やガイドの方にもお話を伺うことができました。千光寺にお参りする方や、鳴川の方にも声をかけていただきました。これだけたくさんの方にお世話になったのだから、レポートを完成させない訳にはいきません。
もうすぐ締切です。なんとか最後のまとめのページまで進めることができました。内容としては、反省ばかりです。すでに役行者に詳しい方からすれば、本当に表面的なことばかりで、あまり面白くないかもしれません。しかし、私にとっては知らないことばかりだったので大変おもしろく勉強できました。
吉祥草寺の住職さんからは「修行で一日中山を歩いているだけなのに、なぜか人に優しくなれる」と大峯奥崖修行の奥深さを教えてもらいました。私は女性なので女人禁制の大峯山には登れませんが、何か機会があったら山に登ってみてもいいかなとさえ思っています。
インドア派の私がこんなにアウトドアに興味を持つようになったなんて、自分でも驚きです。役行者のお話をしてくださった方々、本当にありがとうございます!そして、いろいろな縁を作ってくださって、おもしろい勉強をさせてくださった1300年以上前に葛城でお生まれになって千光寺で修行された役行者さまに感謝します。
参考・引用文献リスト(本)
No.
書名
著者名
出版社名
出版年
図書館名
請求記号
1
平群町史
平群町史編集委員会
平群町役場
1976
平群小学校図書館
216ヘ
2
平群の今むかし
平群町観光ボランティアガイドの会
2020
平群小学校図書館
216ヘ
3
奈良大和路寺寺の昔話し
フジタ
1989
平群小学校図書館
388ナ
4
拝んで幸せ奈良の仏像100
田中ひろみ
西日本出版社
2009
平群小学校図書館
718タ
5
広辞苑 第六版
新村出/編
岩波書店
2009
平群小学校図書館
813コ
6
役小角と山の神
夢絵本製作委員会
夢絵本製作委員会
2013
平群小学校図書館
Eオ
7
ずかん武具
小和田泰経/編
技術評論社
2013
平群小学校図書館
201ズ
8
日本の伝統芸能8日本の音と楽器
小柴はるみ
小峰書房
1995
平群小学校図書館
772ニ8
9
音楽のはじまり4管楽器のはなし
キャロル・マホーニー/ダニーステイブル
リブリオ出版
1993
平群小学校図書館
763オ4
10
図解音楽の世界3
アラン・シップトン
偕成社
1994
平群小学校図書館
760シ3
11
図解音楽の世界4
アラン・シップトン
偕成社
1994
平群小学校図書館
760シ4
12
奈良のむかしばなし
山崎しげ子
2018
平群小学校図書館
13
わたしたちの平群町平成28年改訂
平群町社会科副読本編集委員
平群町教育委員会
2016
平群小学校図書館
375ヘ
14
日本の歴史2
山本博文
/監修
KADOKAWA
2015
平群小学校図書館
210ニ2
15
日本の歴史3
山本博文
/監修
KADOKAWA
2015
平群小学校図書館
210ニ3
16
新訂増補国史大系 續日本紀 前編
黒板勝美/編
吉川弘文館
1976
平群町立図書館
210.0こ
17
続日本紀(上)全現代語訳
宇治谷 孟
講談社
1992
平群町立図書館
B210.3し1
18
平群の里の歴史(上)
塚信一/編著
平群町役場
1990
平群町立図書館
216つ1
19
平群の里の歴史(下)
塚信一/編著
平群町役場
1996
平群町立図書館
216つ2
20
密教の本
学研
1992
平群町立図書館
188み
21
修験道の本
学研
1993
平群町立図書館
188し
22
生駒谷の祭りと伝承
桜井満 伊藤高雄/編
桜楓社
1991
平群町立図書館
386い
23
山伏まんだら
重松敏美
日本放送出版協会
1986
平群町立図書館
188し
24
大和の祭り
高田健一郎
向陽書房
1991
平群町立図書館
386た
25
人生生涯 小僧のこころ
塩沼亮潤
到知出版社
2008
平群町立図書館
188し
26
大和・河内 発見の旅
米山俊直
PHP研究所
1982
平群町立図書館
291よ
27
奈良大和路の年中行事
田中眞人
淡交社
2009
平群町立図書館
386た
28
遊歩5 西ノ京、斑鳩、生駒、郡山
十人会
編集工房あゆみ
1988
平群町立図書館
291ゆ5
29
遊歩7 五條、吉野、大峰、大台
十人会
編集工房あゆみ
1988
平群町立図書館
291ゆ7
30
役行者伝記集成
銭谷武平
東方出版
1994
平群町立図書館
188ぜ
31
超人役行者小角
志村有弘
角川書店
1996
平群町立図書館
188し
32
役行者と修験道の世界
大阪市立美術館/編
毎日新聞社
1999
平群町立図書館
188え
33
〈修験〉のこころ
五條順教 塩沼亮潤
春秋社
2008
生駒市図書館
188
34
体を使って心をおさめる修験道入門
田中利典
集英社新書
2014
生駒市図書館
188
35
住職がつづる とっておきの金峯山寺物語
五條順教
四季社
2006
生駒市図書館
188
36
役行者伝の謎
銭谷武平
東方出版
1996
生駒市図書館
188
37
役行者霊蹟札所めぐり
役行者霊蹟札所/編
朱鷺書房
2019
生駒市図書館
188
38
よく生き、よく死ぬための仏教入門
田中利典
扶桑社新書
2018
生駒市図書館
188
39
役行者と修験道
久保田展弘
ウエッジ新書
2006
生駒市図書館
188
40
松葉健康法
高嶋雄三郎
ヒカルランド
2022
奈良市立西部図書館
499.8タ
41
梵字悉曇章中抄
聖誉写
永暦2
国立国会図書館デジタルコレクション
WA15-7
42
理科十二ケ月. 第九月 暴風雨
石井研堂 (民司) 著
明34
国立国会図書館デジタルコレクション
特46-802
43
前賢故実. 巻第1
菊池容斎 (武保) 著
明1
国立国会図書館デジタルコレクション
112-84
参考・引用文献リスト(Web)
No.
Webページ名
Webサイト名
Webページを作成した人・団体名
更新年月日
URL
アクセス年月日
1
役小角
Wikipedia
Wikipedia
2022年7月28日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92
2022年7月28日
2
前鬼・後鬼
Wikipedia
Wikipedia
2022年1月23日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%AC%BC%E3%83%BB%E5%BE%8C%E9%AC%BC
2022年8月2日
3
役行者霊蹟札所会
役行者霊蹟札所会公式サイト
役行者霊蹟札所会
http://www.ubasoku.jp/index.htm
2022年8月2日
4
日本遺産 葛城修験
日本遺産 葛城修験
葛城修験日本遺産活用推進協議会事務局 (和歌山県観光振興課内)
https://katsuragisyugen-nihonisan.com/
2022年8月24日
5
葛城修験
日本遺産ポータルサイト
文化庁
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story099/
2022年8月24日
6
元山上千光寺
元山上千光寺
元山上千光寺
https://motosanjyo-senkouji.com/
2022年7月24日
7
鳴川千光寺エリア散策
平群町観光オフィシャルホームページ
平群町
https://kanko.town.heguri.nara.jp/virtual/senkoji/
2022年7月25日
8
陀羅尼助(だらにすけ)
當麻寺 中之坊と伽藍堂塔
當麻寺 中之坊と伽藍堂塔
https://www.taimadera.org/purpose/4/p3.html
2022年9月30日
9
そもそもシリーズ修験道編
you tube
一般社団法人仏教生活センター
2021年12月16日
https://www.youtube.com/watch?v=4SAoID5tvZ8&t=7s
2022年8月30日
10
法螺貝の吹き方
you tube
chisyunの法螺貝チャンネル
2022年1月19日
https://www.youtube.com/watch?v=poWTxT5krqA
2022年8月27日
11
山岳信仰をざっくり解説するよ・修験道・山伏・仙人・六根清浄[Webセミナー]
you tube
低山ハイカー英武ゆう
2021年9月26日
https://www.youtube.com/watch?v=8ODrbdGjzZE&t=573s
2022年8月25日
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?