ゲーム実況論、ゲームは見るものではなく遊ぶものだ説は正しいか?
「ゲーム実況」批判は燃えやすい
Twitter で毎年話題になる「ゲーム実況」批判、東京ゲームショウが開催された今週明けにまたもやはげしく燃えあがった。
出火元はこの一連のレスバトル?らしい(本来の火種となった元ツイは事実誤認があったとして投稿者により削除済み)。
ゲーム実況&配信の是非はとにかく燃えやすい。
僕の立場を述べると、ゲーム実況&配信文化の隆盛によりリスナー(視聴勢)という新しい層がゲーム文化の人口増加とともに出現したこと、また、プレイヤーとリスナーはときに重複する(ゲームを遊びながら動画視聴も楽しむ)ことも考慮すると、動画視聴という受容形態への批判はより大きな社会現象の変化を見誤っているのでは?というものだ。
これは 2 年前に書いたとおりで、この文化はもはや是か非かを論じても抗いえないほど爛熟したといえるだろう。
実際、Baldur's Gate 3 や Cult of the Lamb のようにユニークな Twitch 連携機能で独特な視聴体験をかたち作ったゲームも少なくならずある。
直近の作品では Frostpunk 2 や The Casting of Frank Stone にもそうした機能があった。それが開発コストに見合う効果をあげているかはわからないが、英語圏ではすでに実況&配信を前提にしたゲーム作りへ移行したように感じる。
今回の「ゲーム実況」をめぐる喧々諤々を眺めながらおもうのは、少なくないひとに「ゲーマーはプレイヤーであるべきだ」「ゲームは見るものではなく遊ぶものであるべきだ」というドグマがなおも巣食っていること。
ゲームを「遊ぶ」ことは「見る」ことに勝る。
たしかにそれは "ゲーム体験" としては正しそうだ。しかし、ゲーム実況&配信文化への批判としては "どこまで" 有効だろうか?
本記事では、僕の主宰する Discord 鯖「ゲーム&批評を考える」での議論をもとに「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」説の有効射程を吟味する。
ねがわくば、ゲーム実況&配信をめぐる言説がいま少し精緻にならんことを。
「ゲーム実況」はそもそも何を指すか
ゲーム実況&配信問題は、本質的にはほかの著作物と同様に「プレイ動画は創作物たりえるか?」「創造性をどこに認めるか」という厄介でかつ曖昧な問題を抱えている。
創造性から考えると、ゲーム実況&配信とひとくちにいってもその実態はかなり多様で、それこそがこの文化の百花繚乱を示している。
たとえば、ユニークなプレイスタイルで攻略をめざしたり、ゲーム内知識を解説したりした企画投稿ものはわかりやすく創造的で、かなりの手間暇をかけて制作されたことは想像に難くない。
Disco 鯖内で紹介されたものでは、2010 年頃からニコニコ動画などで活動し、任天堂からの案件動画をきっかけに事実上の引退にまで追い込まれた「ただてる」の実況動画がその好例だ。
また、僕が楽しんだ実況動画のなかでは「つー助教授」のストラテジーものが印象深い。
Twitter で問題視されがちないわゆる「ゲーム実況」とは趣もだいぶちがうはずだ。
僕の印象だが、2010 年代後半からゲーム実況&配信の中心がこうした企画投稿ものから元プロ選手などのスキルフルなプレイ配信に移り、新型コロナ禍からは声が良くて話が面白いひとのバラエティに富んだ配信に移ることで、プラットフォームでの収益化の整備が進むとともにそのイメージも変化した。
「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」とはいうものの、わかりやすく創造的な企画投稿ものを念頭におくと、ゲームを「遊ぶ」ことと「見る」ことはそうカンタンには優劣を付けられないほど体験としての違いがあまりに大きい。
ゲーム実況、あるいはゲーム配信を語るとき、厳密にはどういうジャンルの動画コンテンツを問題にしているか。その前提を明確にしないと議論が成立しないほど、ゲーム実況&配信文化は成熟している。
ゲームは「見る」ものでもある
ゲームプレイ動画の価値
結論を先に書こう。
「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」説は、命題としては一定の正しさがあるものの、ゲーム実況&配信への批判としての有効範囲はその直感に反してかなり狭い。
というのも、
ユニークな遊び方や解説の企画投稿動画
スキルフルなプレイヤーの実況&配信
入手困難なゲームタイトルのプレイ動画
などの動画コンテンツには、一定の社会的価値が "わかりやすく" 認められるため、それらの素材となっているゲームを「遊ぶ」ことが「見る」ことに勝るとはとてもじゃないが言い切れない。
企画投稿ものはいうにおよばず、対人戦ゲームの経験があるひとなら卓越したプレイスキルは一朝一夕で身に付くものではないことは身に沁みて知っていよう。何百時間、何千時間とそのタイトルをプレイしてはじめて獲得できるので、その域に達していないひとが実際にプレイしたところで得られる体験はまったく違う。
また、ゲーム実況&配信されているなかには今では入手困難なものも少なくない。
Twitter でも「デジタルアーカイブ」としての役割を認める声もあったように(しょせんは投稿者とプラットフォーマーの一存で消えるのであまり過大視すべきでもないが)、この世のすべての作品がだれにでもアクセスしやすいほど恵まれた文化環境にあるわけでもない。
実際、僕の Disco 鯖ではこの 1 年間ほどデジタルゲーム関連の書籍を読み継いできたが、レトロゲームのプレイ動画はたいへん役立った。
以上のことから、「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」説は、基本的に、創造性がわかりやすくは認めづらく、希少性の価値も認めにくい、そして、今の主流でもあるだろう、
おしゃべりしながらの実況&配信
にのみ有効な批判と仮定して話を進める。
コミュニケーション体験の価値
その場合、ふたつの論点が思い浮かぶ。
1.視聴者はゲームではなく実況&配信者を観ているのではないか?
実際には、
a.興味のある作品を動画で観る
b.好きなひとが実況&配信しているから観る
c.好きなひとが興味のある作品を実況&配信しているから観る
のどれか(あるいはその中間)だが、「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」説が有効なのはaの場合にかぎられる。
というのも、視聴者にとってゲームではなく実況&配信者に価値があり、彼ら彼女らとの疑似的・間接的なコミュニケーション体験こそをもとめているからだ。その(bcの)場合には、ゲームは実況&配信者の魅力を惹きたてる道具的な役割が期待されているため、ゲームを「遊ぶ」ことと「見る=コミュニケーションする」ことを体験として比較することにそもそものズレがある。
ゲーム実況&配信批判への反批判としてよくみられる「自分で遊ぶことと友だちが遊ぶのを観ることは楽しさがちがう」説がこれにあたる。
慰みとしての高い利便性の価値
2.ゲームプレイと動画視聴は交換不可能な行為ではないか?
動画視聴、とくにスマートフォンの場合には受容行為として無視できない特徴がある。それは、
a.場所を選ばない
b.時間を選ばない
c.集中力を要さない
ことだ。
すなわち、出掛けたさきの暇潰し、隙間時間の慰み、仕事や家事のながら作業のお供といった、時と場所と集中力を要さない、いわばテレビやラジオでありながら「リアル」なコミュニケーション体験としての高い利便性がある。極端な話、ゲームをしながらでも動画視聴はそれなりに楽しめるが、ゲームをしながら別のゲームを楽しむのは難しい。
自分でやるゲームプレイとなると、これらの特徴をすべて満たせるのはおそらく一部のスマホゲームだけだろう。
Switch のような携帯ゲーム機ならabは満たせるが、cはタイトル次第になる。僕のフレンドに毎朝の通勤電車で Skyrim のドラゴンをひと狩りすることが日課だった猛者もいるが、さすがの彼もそれなりの集中力でプレイしていた、と想像する。
また、据え置きのコンソールやパソコンではabは満たせず、ごくいち部のかぎられたジャンルやタイトル(たとえば Placid Plastic Duck Simulator のようなたんに眺めるだけのもの)、あるいは、集中しなくて攻略として失敗しないような特異なプレイスタイルにおいてのみcを満たせる。
要するに、ゲーム配信&実況の視聴にはいつでもどこでもテレビ代わりに流せるという高い利便性があるので、ゲームを「見る」ことに「遊ぶ」ことが勝るとはかぎらない。
たとえば僕の場合、ゲーム実況&配信を観るのは食事や家事の「ながら」時間にかぎられ、それらは実際のゲームプレイでは交換不可能な行為だ。
結論
以上をまとめると・・・
「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」説は、ゲーム体験の質を問題にするかぎり命題としては正しいが、ゲーム実況&配信への批判としてはその文化と受容の実態を鑑みると有効範囲はしぼられる。
その範囲は主に・・・
自分が興味のあるゲームを、適当な実況&配信者がおしゃべりしながら、あるいは垂れ流しでプレイするのを、場所と時間を選び、しっかり集中しながら観る場合(だったら自分でプレイしなさいよ、という批判が成り立つ)
にかぎられ・・・
そうではない場合、ゲーム実況&配信という動画コンテンツにも創造性や希少性といった社会的価値が認められるうえ、コミュニケーション体験として視聴者から楽しまれていることが多く、時と場所と集中力を要さずに暇を潰せる慰みとして高い利便性が認められる。
ひとことでいうと・・・
ゲームは「見る」ものとしても価値がある。
「ゲーム実況」批判の根底にあるもの
本記事では、「ゲーム実況」を鑑賞態度の問題として批判した「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」説の正しさを検討した。
ゲーム実況&配信文化には、鑑賞態度だけでなく、創造性と著作権をめぐる法律の問題はもちろん、プラットフォーマーを中心としたビジネスの問題もある。さらに、デジタルゲームには上演芸術的な側面があるため、他人のプレイングを観ることは(とくに自分が見知ったタイトルなら)それだけで面白いという美学上の特性もある。
「ゲームは見るものではなく遊ぶものだ」説は、ゲーム体験としては正しすぎるがゆえにこれらの興味深い、あるいは真に検討すべき問題を覆い隠す。
そもそも、今のゲーム実況&配信者はゲームプレイに留まらない雑多な配信活動でその影響力を強めている。歌や雑談、お絵かき、食レポ、野外配信、コラボ企画は中小規模の活動者もしているし、トップ配信者ともなればいうにおよばない。
ひょっとしたら「ゲーム実況」が荒れがちなのはある面では「ストリーマー」というわずか数年で急速に影響力をもち、天井知らずの高収益を叩きだす新しい職業に社会常識が追い付いていないせいかもしれない。もちろんそれは、ゲーム実況者や配信者にとどまらず、YouTuber や TikToker やインスタライバーなどのインフルエンサーも含むのでより大きな文化現象として扱う必要をうながすだろう。
いずれにせよ、文化を語るにはより広い視野と繊細な手さばきがもとめられる。
なにかを批判しているようで、実は、不公平という道徳感情やアイデンティティの不安を吐露しているだけなのは残念ながらありがちだ。