優しさを育てるのが一番難しい
優しい人が好きです。
本当に優しい人は、もはや勝ち負けの世界に住んでいません。
昔は勝とうと頑張っていたかもしれないけれど、負ける挫折を味わったり、負けている人を見て居心地が悪かったりして…
詰将棋のように「幸せになるには優しくなるしか道が無かった」、という結論に至った人が多いように思います。
そういう人が結構身近にもちらほらいらっしゃって…私はそういう人たちのファンです。
最近、儒教の罪深さをよく考えます。
日本中、に漂う儒教感。
「礼儀正しくしましょう」「人に優しくしましょう」「きちんとしましょう」「勝ったら賞金」「負けたら罰ゲーム」
「良い点取りましょう」「1番目指しましょう」「美しくいましょう」「素敵な暮らしをしましょう」・・・
真面目な人ほど、頑張ってしまう。勝つことは確かに理想かもしれません。
しかしなぜこの「~しましょう」の儒教的な概念が流行しているか考えると、これを信じて生きていると「楽」なのです。
分かりやすくて、正しいことを信じていることは楽なのです。
自分で考えなくても、「勝てば幸せになれる(はず)」だし、「努力すれば幸せになれる(はず)」、レールに乗っていれば幸せになれるはずなのです。
難しいことは考えなくても、秩序を守り、忍耐・努力をすれば幸せになれるというのが儒教なのです。
しかし、儒教には大きな欠点があります。
それは勝つ人がいれば、負ける人がいるということ。情緒は後回しでも良い、という雰囲気が漂うところ。
そして勝ち負けの価値観の中では最後は誰もが体力の衰えには勝てず、若い人たちに、自分に負けるしかなくなっていく…
絶対なりたくない、と無意識で感じていた立場に、自分がなっていく恐怖ばかりがあって、なんとも悲しい結末を迎えることに理論上なってしまいます。これ、かなり大きな欠点ではないでしょうか。
こうしたら幸せですよ、という雰囲気はただの幻想。まさに月の欠損を追いかけるようなもの。
この勝ち負けの土俵を降りない限り、この幻想には気づけません。反対に、この儒教的な土俵から降りたら、自分で幸せを探す苦労はあるけれども、達成感を得られます。
儒教に対抗するように存在してる道教。
道教は優しいです。他人の目を気にせず、それぞれが、それぞれの良いと思った道を見つけていく。ただそれだけ。
儒教が悪いものだとは思いません。人が人と協力して生きる時、必ず必要になる価値観です。
ですので、儒教と道教のバランスが大切だとは思います。
しかし儒教に偏り過ぎた日本には大切なことが欠損していると思います。
儒教のせいで、人に優しくできない人がたくさん増えてしまったんですから。