練達:カオスの時代に燈を灯すには(2)
私はCQという、日本ではまだ知られていないコンセプトを持ち込み、広めようとしている。違いに橋を架け、そこから共創する社会を作るCQは、私のライフパーパス、パーソナルミッションであり、大手術後に臨死体験をした時に聴いた声、与えられたものでる。
CQは 相手の生き方を我慢して受け入れることではない。自分の生き方も、相手の生き方も、それぞれ素晴らしいと気づき、互いに学び合いながら成長してゆく。どんな人も大切な存在であることが当たり前の世界。そこに至る道は遠く、現実が厳しいことは承知している。自分の生命が地球上にあるうちに、どこまで実現できるのか、途方にもくれる。私がなかなか文章を書けないのは、日々厳しい現実に翻弄されているせいなのかもしれない。
しかし、PRジェネレータの根本陽平さんから、こんなことを言ってもらえた。「最初の『おひとりさま』は変わったやつだと認識されたかもしれない。しかし彼らは新しい価値観を体現するファーストペンギンであり、社会記号を作った。CQもそこまで持っていけるのでは」?
そうだ、私はCQを社会記号(辞書に載っていないけれどみんなが知っている言葉)にしたいのだ。そこに至るまでのJourneyは、一人では歩めない。大いなる声に耳を澄まし、賛同してくれる実践者を増やし、その仲間たちがCQを当たり前として活用する。そんな日々に向かって、自分の足でまっすぐ立って歩いていきたいのだ。私がカオスの時代に灯せる燈は、それしかない。そのためには練達が必要だ。
練達という言葉を、私は日常生活で聞いたことがなかった。練習して達人になる、英語だとMasteryのようなイメージだろうか。キリスト教の創設者であるパウロが、ローマにいる信徒へ送った手紙の、こんな一節が知られている。「(わたしたちは)苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(新約聖書:ローマの信徒への手紙5章)
どんなに苦しいことは起こっても、視点を変えればそれは学びの宝庫になり、諦めずに真剣に向き合えば、その経験は私たちを忍耐強くし、そのうち練達(熟練)して、怖れや怠惰などの感情は純化されて、苦しみをも希望に変えていく。
そして希望は「わたしたちを欺くことがない」。
CQが普通に使われる社会への希望を胸に、日々を、練達を目指して過ごしていきたい。