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セクト・ポクリット【コンゲツノハイク】より好きな句<2021年5月>
仮の世に焚火は本気出してをり 阿部まりあ(「秋」)
「本気出す」という漫画的な表現が好きです。あと、この世を「仮の世」とさらりと言ってのける作者の人生観がなかなかだと思いました。俳号「阿部まりあ」(アベ・マリア)さん、一度聞いたら忘れられません。
れんこんの穴をとほりて春の水 西江友里(「秋草」)
スーパーで買ったれんこんのきれいな穴を春の水が通ると解釈してもいいし、収穫されたれんこんを野外できれいにしていると解釈してもいいと思いました。(季語「春の水」の本意を考えると後者でしょうか。)さらりとした表現が魅力的です。
本尊の盗まれしまま椿山 山尾玉藻(「火星」)
本尊という大切なものが抜け落ちている寺院。それを取り囲む椿山は、いまが見頃とばかりに生命力にあふれている。人間世界の俗な出来事と、圧倒的な自然との対比に皮肉を感じました。なにか元ネタがあるのでしょうか。
身も骨も醤油に染まる年の暮 篠崎央子(「磁石」)
骨付き肉の醤油味の煮込み料理か、もしかしたら、年の瀬に醤油味の料理ばかりを食べている自分自身の身体のことかもしれません。至極簡易な表現ながら、いかにも日本的な年の暮の一句だと思いました。
歳晩や脚立を借りに行つたきり 山田牧(「磁石」)
家族や親戚が集まって新年を迎える準備をしているのでしょうか。そのなかでひとり脚立を借りに行ったきり帰って来ない人。人手が余って手持ち無沙汰になり、ひとりになりたくてエスケープしたのかもと思いました。待っているほうからしたら相当困った人ですが……。「脚立」というのが絶妙なセレクトです。
腿に添ふギターの窪み春の草 西嶋景子(「鷹」)
身体感覚の鋭さがよく現れている一句だと思いました。ギターなどの楽器を身体に添わせているとき、ふと楽器が恋人のような、我が子のような、そんな愛着がわくことがあります。季語「春の草」のやわらかさがよく効いています。
冴返るガン見されての人違ひ 三代寿美代(「鷹」)
なんといっても「ガン見されての」という素直な表現が面白いです。ガン見されてまで間違えられるなんて、どれだけ似ているのか、よほどおっちょこちょいなひとなのか……。「ガン見」なんて俗な言葉を俳句に使ってもいいんだと勇気をもらえる一句でもあります。季語「冴返る」の素直な斡旋も好きです。
幹のぼる水こくこくと木の根明く 高田良子(「橘」)
「木の根明く」は木のまわりの雪が丸く溶けていくことを指す春の季語。木のまわりの雪が水になって幹をのぼり栄養になっていく様子を童話的に表現しているのがいいと思いました。「こくこくと」のオノマトペがかわいいです。
春寒や風呂に茶壷の唄うたひ 如月真菜(「童子」)
「ちゃちゃつぼ ちゃつぼ ちゃつぼにゃ ふたがない」という手遊びの唄ですね。お子さんとのささいなやりとりにほっこりとします。(もちろんひとりで茶壺の唄を歌っていてもよい風景。)春寒のころは格別にお風呂が楽しいです。如月真菜さん、『琵琶行』にて第12回田中裕明賞受賞おめでとうございます。
人の輪の海側欠くる焚火かな 三森梢(「都市」)
浜辺の焚火を囲む人々の輪の海側が欠けている、それだけのことしか言っていないのですが、人々が海を見ていたくて、海に背をむけないようにしていることが想像できます。焚火と海。太古の記憶を呼び起こすような雄大な句です。
光る風時に尖りて向ひ来る 小松紀久子(「南風」)
目にするものすべてをきらきらと光り輝かせる春の風。しかし真正面に向かって吹いて来られると、意外に寒くて思わず身をのけぞってしまったのかなと思いました。季語「風光る」は便利な季語で、取り合わせに容易に使ってしまいがちです。その「風光る」の一物仕立てにチャレンジしている、すごい句です。
花ミモザ朝餉の皿もそのままに 戸澤光莉(「南風」)
朝ごはんを食べ終わった皿は、パン屑やジャムにすこし汚れてテーブルの上にそのままになっているのでしょう。同じテーブルにミモザの花があり、すこしこぼれているのかも。季語のおしゃれさを活かした一枚の絵画のような一句。
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