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山口志道「百首正解」

江戸期の国学者、山口志道に「百首正解」という名著がある。
現在、カタカムナ寺子屋では天聞先生のカタカムナ読み時の合間に、本著をもとに百人一首を学び進めている。
この「百首正解」を活用することで、現在私が取り組んでいる百人一首の読み解き進み、言霊の習熟が期待できると考え、今後は「百首正解」を基にした百人一首の読み解きを進めていきたい。

読み解きに先立ち、先ずは本書前書き(附言)にある山口志道の言葉を訳してみようと思う。

大和歌は人の言葉である。天地の伯(イキ)である。
天地は元来伯(イキ)よりひらけ、人間も伯(イキ)から生まれている。
鳥獣草木あらゆるもの、見るもの聞くもの、伯(イキ)からできていないものはない。
しかし、その伯(イキ)の足る、足らざるによって、音(コエ)を出すことが難しくなったり、言葉を発することが難しくなったりする。

人は五十連(イツラ)の伯(イキ)をよく備えているために、(よくものを言う人は、)天地の御霊が、(天がものを言うのではなく、)人に言わしめているのである。

したがって、その伯(イキ)を発するときには、人は既に神なのである。

ここをもって、神世の御伝えと言うのは、父母一滴の中に、神霊の伯(イキ)を宿し、その伯(イキ)が五体をなし、その伯(イキ)が呼吸に顕れ、その伯(イキ)を組んで言葉を発している。

その詞に教えがあって、天地及びあらゆる理を知って、家や国を治め、身を修めることを知るのである。

その詞とはすなわち和歌である。従って、その詞を知るには、伯(イキ)を知ることである。これを皇国の大道(重要な道)というのである。

月を仰いで月とばかり知り、花を指して花とばかり知ることは、通俗という。都伎(ツキ)という二言の伯(イキ)を知って、月ということのもとを知り、波奈(ハナ)という二言の伯(イキ)を知って、花ということの本を知る。

このようにして、歌を詠んでこそ鬼神をもあはれと思わせ、我が国日本の和歌の道というべきなのである。

この学問(言霊の学問)が早くから疎かになって、定家卿の歌に
「敷島の道に我名はたつの市にまたいさしらすやまとことの葉」
と有る。
その頃より、伯(イキ)の学は朧げになったと思われるが、この百首を集めなさったことを考えると、定家は隅々まで集中してみている。実に後世の鑑というべきだ。

それ(百人一首)より後に伯(イキ)ということを知る人もなく、言霊の法則も無くなり、推し量って解くこととなっていった。

私はここに一言も漏らさず、一言一言言うのを、見慣れない人は煩わしく思うだろうが、それは伯(イキ)の自然に従って、一言も「私」を混じらせていないためである。

その正しいことは、水穂伝に詳しいので、併せて知ってほしい。

私は今七十余歳。身を浮雲の風に任せ、命は木の葉が散るかの如く。
眠れる門を叩き、満月を告げる。しかし気力も衰え、眼も朧になってどれほど経ったろう。見る人、どうぞお許しくだされ。

この附言を見ると、山口志道は「百人一首」に「言霊」を認めていることが分かる。百人一首をカルタという遊びで後世に伝わるように企図し、言霊を残そうとした先人の思いを私たちは汲み取らねばならない。

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