【エッセイ】私とエッセイ

陸上競技の元アメリカ代表、フローレンス・グリフィス=ジョイナーは、1988年ソウルオリンピックの3種目で金メダルを獲った。長く伸ばした爪に鮮やかなマニキュア、その上にラインストーンをちりばめている。両手首にはブレスレット、長く伸ばしたままの黒髪をなびかせてゴールを駆け抜ける美しいアスリートは、日本でも人気が高かった。彼女が夫のアル・ジョイナーと共にテレビで歌っているのを、見たことがある。お世辞にもうまいとは言えなかった。その時、私は黒人が全てダイアナ・ロスのように歌がうまいわけではないことを知った。私のように勝手に誤解をして、こういう人だと思い込んでしまうことをマイクロアグレッション(小さな偏見)というそうだが、誰にも一度や二度経験のあることではないだろうか。
更年期になる前の私は、背が高くスポーツ万能に見えた。実際は自分でも驚くほどどんくさいし、大作りな顔立ちのせいか派手な性格だと思われる。「悩みなどひとつもないやろ」と、よく言われるが、本当の私は幼いころから繊細で感受性が強い。人の感情や表情のわずかな変化、匂いや音に敏感で、心の中はいつもそわそわしている。私は何十年もこんな自分に折り合いをつけながら生きている。
最近、テレビのバラエティー番組で私と似たタイプのタレントや俳優を見かけることがある。男性に多いようだが、彼らは芸能界という特異な世界で才能を発揮し活躍している。一方私は特別誇れるものも無く、社会にも馴染めないでいる。これだけの繊細さと感受性があれば、芸術の才能に恵まれても良いだろうにと苦々しく思うこともある。
それでも私は、就職し結婚し子育てもひと段落し、55歳を過ぎた。残りの人生は何か人の役に立てる生き方をしたい、と密かに思っている。そんな時、5年来の友人であるアロマセラピストの日和さんがこう言ってくれた。
「ちいさん、文章を書いたらどうですか」と。彼女は数年前、私の書いた拙いエッセイを読んでくれたことがある。それで、「私は好きですよ」と褒めてくれた。しかし私は浮かれてはいけない、と自分を戒める。本屋に並ぶエッセイとままごとのような私のそれとでは、海と水滴くらい深さが違うのだ。
(はて、私はあの時何故、エッセイを書いたのだろう)
リビングの床に寝転び目を閉じる。窓の外から聞こえる雨音に耳を傾けながら、心を落ち着ける。ふと瞼の内側に過去の自分が現れた。忘れてしまいたい過去と向き合っているようだ。何が辛かったのか、どこが苦しいのか、どうして欲しかったのか、を文字にしようと眉間にしわを寄せ机に向かっている。
エッセイは、日常のいろんなできごとや体験から思い描いたことを自由な形で書いていいが、その向こうに読者がいる。私はエッセイを通して、事実を受け止め心を整理することを学んだ。そして読者に伝えるための表現ができた時、心が軽くなるのを感じた。社会で私にできることはあまり無いかもしれないが、経験や体験から得たものが誰かの役に立てるかもしれない、と思う。私のように感受性が強い人や繊細な人、社会性が低いと感じている人、苦しみのど真ん中にいる人、に寄り添うことはできそうだ。本当の気持ちを表現することで、客観的に自分を見ることができる。その先に、隠れていたほんとうの自分が浮かび上がってくるのだ。
私は思う。心は自分のものだ。たとえ神様であろうと支配することはできない。どんな状況に陥ろうともどんなに抑圧されようとも、「生き方」を決められるのは自分だけだ。第二次世界大戦中、アウシュビッツの強制収容所で歌を歌った人のように。
「どんな生き方をするか」を決める自由は自分にある。
その根源的な部分に気付けたら人生は変わる。
だから私はエッセイを書こうと思う。

#思い込みが変わったこと


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