よい時計とは。
よい時計には条件がある。
しかしその条件の前になにをもって良いとするのかを明らかにしておく必要がある。時計は時刻を知るための道具である。ファッションアイテムだろうと宝飾品であろうと、それが時計であるならば、まず第一に時刻を知る道具でなければならない。
つまり、よい時計というのは時刻がきちんと読み取れる時計であるということである。その点もにおいてデジタル表示はその時刻瞬間を知る道具として最高であるが、ここでは昔ながらの針を使った時計に絞りたいと思う。
よい時計であるために難しいことはなにもない。事実昔の時計はほとんどよい時計だった。なぜならそれが当たり前だったからである。時計を見るときにただその時計を惚れ惚れと眺める私のような一部のマニアを除けば、たいていは時間を知りたくてみるのである。そのとき特別な苦労をしないで何時何分かわかるのは時計の性能として当然のことだった。
要するに、長針と秒針がきちんとインデックスに届いている時計がよい時計なのである。よい時計の条件とはたったこれだけである。たったこれだけのことなのだが、現代の時計の多くはまったくその辺を疎かにされてしまっているのが現実だ。
針の短い時計は興ざめである。針がインデックスに届くか届かないかの寸足らずの時計を見るともどかしくて仕方がなくなる。あと0.5ミリ伸ばせば届いたのに、なんと惜しいことを……という時計はたくさんある。なぜそうなってしまうのかというと理由はいくつか考えられる。
腕時計が大型化してもともと直径35ミリだったのが38ミリになる。そこで35ミリ時代の針を使えば必然的に針は短くなってしまう。しかしこの場合在庫が枯渇すれば解消される問題である。しかし世の中から針の短い時計がなくならないところをみると、事態はもっと深刻であると考えるべきである。
時計メーカーはもはや時刻を知る道具としての時計を売るつもりがないのかもしれない。とくにそれは安い価格帯に顕著である。安くなればなるほど針が短くなっていく。ということは高級時計は針が長いのかといえば、長いのである。ちゃんとインデックスに届いているのである。ためしにロレックスやオメガの時計を見てほしい。長針と秒針はきちんとインデックスをなぞっているではないか。メーカーはわかっていて針の短い時計を売っているのである。何がわかっているのかと言えば、どうせ安い時計を買う消費者は針の長さなど気にしないに相違ないということである。大変残念だ。
クォーツ時計になると針の長さはますます短くなる。本来であれば、その精度は機械式時計の何万倍も優れているのがクォーツである。しかし、その性能を自らスポイルして自ら貶めている。クォーツの針がなぜ短いのかと言えば、針を長くすると重くなってバッテリーのランニングタイムに影響するからである。もしかしたら樹脂製パーツの強度にも関係するのかもしれない。にしてもだ。針の短すぎる時計が多すぎる。それならいっそのことインデックスを伸ばして針に届かせるという手もある。とにかく、短い針がどこを指しているのかわからないのが嫌で仕方がない。
安い時計でもたまにこれはと思う時計がある。おそらく偶然のなせる技であろう。安い時計は文字盤のバリエーションがたくさんあっても針は共通部品であることが多い。だからたまたまデザインやサイズの妙で針がインデックスにとどくことがあるのである。ぼくはそういう時計を見つけると嬉しくて仕方がない。最近ではオリエントのバンビーノにその奇跡を見た。もっともケース径が38ミリあるので買わないが。
時計の適正サイズは手首の太さに依存するため、何ミリが正解ということはない。ただぼくの手首は極端に細いため36ミリがマックスであり、34ミリがベストサイズである。大きい時計はぶつけるし、重い時計はしなくなるものである。人間は思いのほか最小限度の動きで行動しているのだ。だから、大きい時計は机や扉などにぶつけるのである。重量が重い時計は自然と手が伸びなくなる。腕が自動的に嫌厭するのだ。このような経験を通して時計の趣向が定まっていく。時計は軽くて小さく、そしてできれば薄いのが好きである。
話がそれたが、よい時計とは長針と秒針が長くてしっかりとインデックスにとどいてる時計である。ただそれだけである。
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