森の小径
もうほとんど習性だと思う。
小径脇道獣道が好きなのだ。街なかの路地も大好物である。
どこへ続くかわからない道。その先になにがあるのだろう。そんな好奇心を刺激されるせいか、ぼくはメインストリートよりもつい脇道へそれてしまう。
ああなんだかこれって人生と同じではないか。子どもの頃からもうすでにぼくは横丁を歩く運命だったのだ。そういえば王道と言われるものよりも通なもの、マニアックなものに惹かれてきた。大勢が好むもの、一番売れるものなどなんの興味もない。口コミは読むが参考程度だ。最終的に判断するのはいつも自分だった。
森は小径だらけだ。むしろメインストリートなるものは存在しない。ひとがたくさん歩けば道は開拓されるがそもそもあまりひとがいない。せいぜい近所のひとが通るくらいである。ぼくが森を好きなのはつまり自然というだけではなかった。無数に走る小径だった。
いつも歩く森はすべての小径を把握しているので迷うことはないし、その先がどこへつながっているのかわかっている。それでも脇道があるたびにカメラを向けてしまう。すでに下草が種をつけはじめているので容易に入っていけないが、見るだけなら実に魅力的な道である。
秋の到来は森としばしお別れを意味する。
それは種のシーズンだからである。森の足元に生える数多くの植物が種をつける。背の低い植物がつける種はベタベタしているかトゲトゲしていると相場が決まっている。つまりそれをしらずに小径に侵入してしまうとひどい目にあう。オナモミなどかわいいものだ。アメリカセンダングサはとくにひどくてこれにやられるとチクチクチクチク発狂ものである。
道幅の狭い小径を歩くということはこうした種の洗礼を受けるということなのだ。だからぼくらは秋がくると森をでて原っぱへ行く。そして冬が来たらまた森へと還るのだ。