思い出話。
昨日だったか、Facebookを眺めていたら広告か何かで「シリアの厳しい冬に大変な思いをしている子どもたちに支援を、、」的なものが流れてきた。
シリアと聞いて思い出すのが、もう16年くらい前にLAで会ったジュエリーデザイナーの、ある男性のこと。
当時、というかいつでもなんだけど、わたしはよく「なぜ生きているのか?」ということを思い悩んで拗らせ過ぎるときがあって、
早く死にたいのに死ぬのが怖くて、そのくせ普通にご飯を食べて他の生き物の命を奪ってるの酷くないか…?と危機感を覚え、
ネットで「世界平和/自給自足」で検索したときに最初のほうに出てきた、平和活動をしながら自給自足しているホピ族のおじいさんの記事を読み、「ここに行くしかない、せめて死ぬことが出来ないなら生活の規模を縮小して平和的に生きたい…!」という思いが抑えきれなくなり
ブログを書いた人と連絡を取ろうとしたものの、その記事が10年前のものだったためか全く返事の来る様子はなく、ならば直接行くしかあるまい、と思っていきなりアメリカへと出発したのだった。
変にお金を持っていると日本に帰って来てしまうだろうと、全財産3万円くらいの状況で向かったので(元々仕事が続かないので最初からお金はなかったけど)、軽く騙されたりとかもあって、ホピの居留地に着く頃には$20くらいしか持ってなかったような気がする。
そのホピの村でも色々あったのだけど、今日はシリアのお話なので居留地でのお話はまた今度。因みに今はどうか知らないけれど、ホピでは基本的に他所者の滞在は4日までとされているらしかった。もう既に亡くなっていたその平和活動家のおじいさんは自分の土地に世界中から人を受け入れていたようだけど、おじいさん亡き後は養子になった白人男性も村を去らざるを得なかったとか(このあたりはうろ覚えです…)
さて。わたしもホピに長居は出来なくて、前にロンドンの安宿で会った女性に連絡を取り、傍迷惑なことに彼女にグレイハウンドのチケットを買うお金を借りて、そして彼女が友達とシェアする家に転がり込んだ。
と言っても彼女もあからさまに迷惑そうだったし(当たり前だけど)、入国時に往復チケットを買っていたので、その復路の日付までの3週間待たなければならなかったのだけど、彼女の家でだらだらしているのも憚られる、ということでLAの妙法寺というお寺に居候させてもらうべく、下見に行ったのだった。
本当はお寺の周辺も危険な地域だったらしく、最初お寺の位置が分からなくて、電話帳で似た市外局番の和菓子屋を見つけたので聞こうとしたら「ここまで歩いてくる気ですか?つい最近もお年寄りが殺されたんですよ、やめてくださいね!」と念を押された。まぁ、それでも行くしかなかったんだけど。
たぶんその日の帰り。行きは歩いても帰りは電車にしようかと思ったのだけど、LAの電車の乗り方が分からず。
記憶が曖昧なのだけど、前日もこの辺りに来て、結局その日は使わなかった電車のチケットをこのとき持っていた。パリでも切符はバラ売り回数券のような感じで当日以外にも使えるし、NYはトークンとかだった気がするから、昨日買った切符でも乗れるのかも?と思い、無人でストッパー的なものも何もない改札を抜けて電車が来るのを待っていた。
すると近くにいた男性がにこにこしながらやってきて、電車の乗り方はわかるか?みたいなことを聞いてきた。結論的にはLAでは当日発行の切符しか使えないし、多分デンマークのように不定期に車掌が切符をチェックしに来て、不正がバレると罰金みたいなかたちだったっぽい。
それで親切にもその男性が切符売り場まで一緒に戻ってくれて、切符の買い方をレクチャーしてくれた。
その間に一本電車が行ってしまい、その後で早口で聞き取れないアナウンスがホームに流れた。どうやら何かの不具合でノースハリウッド行きの電車は今日はもう走らない、と言っていたようだった。まだ16時なのに。
男性はしばらく悩んでから、地上に出よう、と言って歩き出したので、わたしも何が何だかわからないままついて行った。
てっきりバス停にでも行くのかと思ったら、上の駐車場にある自分の車に早く乗れと言っている。
なんで車があるのに電車で帰ろうとしたのかとか、バスはないのかとか色々な考えが頭の中でぐるぐる回っていたけれど、彼がもし本当に親切心でこのように接してくれているのなら変に疑ったら酷く傷付くだろう、もうレイプされて山奥に捨てられても仕方ない、という謎の勇気を振り絞って車に乗り込んだ。
彼は「おなか空いてないか?」と途中のバーガーキングでワッパーのセットを買ってくれ、「本当は19時に帰ると言ってあるんだけど」と言いつつ、自分はシリア出身だが今はジュエリーデザイナーをしていて、昔日本人の彼女もいたのでわたしを放っておけなかったというような話をしてくれた。
もうすぐ日本に帰るのだと言うと「観光はした?してないなら連れてってあげよう!」とE.T.の自転車の撮影をしたのはここだよとか、あちこち連れて行ってくれた。
わたしは内心、あまり遅くなると居候先の彼女に怒られるだろうとうわの空でいたところもあって、とりあえず連絡だけでも入れておきたいからと携帯を貸してもらった。彼は「ちょっと観光してて遅くなるよーとか適当に言っておけばいいよ」みたいなことを言ったけど、性格上嘘をつくのが苦手なので、居候先の彼女に実はこういうわけで…的なことを説明したら「◯◯ちゃん、殺人犯は殺人犯ですって顔してないんだよ!!」とこっぴどく叱られた。
それを見ていた彼は、言葉が分からずとも察したようで「ほら、僕は悪者になっちゃった…」としょんぼりしていた。
その後、わたしを居候先まで送り届けてくれて、名前や連絡先などを尋ねたものの、気にしないで、と言われてしまった。
あの頃のわたしは、年のわりに世間知らず過ぎるみたいなことをホピで出会った日本人にも散々言われて、実際その通りだったのだと思う。シリアのことも何も知らなかったし。
今でも良くは知らないけれど、去年だったか『存在のない子供たち』という映画を観て、映画館でぐちゃぐちゃに泣いてしまった。
デザイナーの彼がどんな人生を歩んできたのかはわからない。でも困っている人に手を差し伸べずにいられない人は、大概自分自身も同じように大変な目にあって、助けられてきた人たちのような気がする。
もう会うこともなくお礼も言えないけれど、彼は今頃どうしているのだろうと、ときどき考える。