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「他人に興味がない」と得意げにイキイキと喋る人がどうにも苦手である。

こういう要素を持ってる人が全員嫌いだとか言いたいわけではなく、こういう要素がいきすぎると私は仲良くなれないな〜くらいのテンションですので一種のエンタメとして見ていただきたいと思うのですが、毒舌って最終的に嫌われる(自分も言われそうって心配にさせちゃうことがある)ってのは分かりながらも、noteではこんな感じのことを書くことを許されていたい…。

「おわりに」では悪口について書いた文章をはっつけました。

「他人に興味がない」と得意げにイキイキと喋る人がどうにも苦手である。


「他人に興味がない」とか「人を好きになれない」って、素晴らしいことを自慢するみたいに言う人がいるけれど、それってすごく恥ずかしいことだと思う。「昨日寝てないんだよね」と自慢する人くらい恥ずかしい。

だいたいの場合そういう人間はニヒリズム的な気怠さを演出したいだけのガキであるが、でももし万が一にでもほんとうに自分以外の人間に対して興味を持てないのであれば、世界に対する向き合い方を反省したほうが良い。

あなたは「人に興味がない」のではなく「誰もあなたに興味を持ってくれない」という現実を直視できていないだけだ。

誰かから興味を持たれたり純粋な好意を向けられたりすれば、どうしたって心が動く。誰かから自然な矢印を向けられたら「どんな人なんだろう」と気になってしまうものだ。優しくされたら自然とこちら側の態度も優しくなる。雨が降って川ができて海に流れて、蒸発して雲ができるみたいに、人間が集まるところには「好意の循環」が生まれる。

そういう好意の循環に入ることができなかった人が「他人に興味がない」とか言っているんだと思う。別にあなたがどんな状況にあってもいいんだけどさ、自分が本当に欲しいものに対して自覚的になる勇気も持てず、その孤独を正当化しようとしている精神性が気にいらない。(今日も言いすぎている)

言葉に質量がない人がどうにも苦手である。

誰かとしゃべっていて「言葉に質量がないな」と感じることがある。どこかで聞いたような、小学校の道徳の教科書にでも書いてありそうな「きれいごと」は、とくにむず痒い気持ちになる。「きれいごと」の何が悪いって、だってお前が喋っていないではないか。そこにはお前がいない。

もうちょっと具体的に表現すると、そこには嘘がある。自分でも気付いているんじゃないか?ベン図を書いてみたら重なり合いはあるんだろうけど、その言葉は広すぎるぞ。この言葉が使われてきた過去は、もっと広い場所を指してしまう。

紹介したいお店の場所が「新宿御苑前」だとしてお前は「関東地方にある」と表現するのか?いいかお前のその言葉は「東アジアにある店なんだけどね」って言ってるくらい伝わらないぞ、聞き手に違和感や不快感をもたらしているぞ。

お願いだから、含まれないものを丁寧に取り除いていってください。私が昨日YouTubeで見ていた耳掃除動画のように、不必要なものを丁寧に取り除いていってください。

それから、そこには論理の飛躍があるぞ。その事実から「誰かの役に立ちたい」はあまりにも飛躍している。お前自身をあらわす言葉として不適切だと言っている。そんな広すぎる使い古された言葉を使ったって、少しの引力も生まれやしない。

ありきたりな「いわゆる」が説得力を生む場面もあるけれど、いいかそういうときにも、きちんと質量を乗せろ。

質量のない「きれいごと」を聞かせることは暴力に等しい。おまえにはセンスが足りない。美意識が足りない。美意識が足りない!!!!!

おわりに:悪口とか批判とか

「粗い悪口」というものは、将来おまえらの首をしめる。でもじゃあ核心をついた悪口はどうかって、他人に対する悪口やら批判は結局のところ、くさびとしておまえらの行く道を狭める。それが望ましい誘導であることもあるけれど、ただ道を狭めてしまうこともある。

とかなんとか言いながらも、こうやって吐き出さずにはいられない。

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