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クリープハイプ「こんなところに居たのかやっと見つけたよ」ライナーノーツ



CDレンタルも、友達との貸し借りの、それを聴くためのラジカセも、アルバムにパソコンにCDを読み込ませて携帯プレイヤーに入れるのも、一通りあった学生時代だった。
アルバムは買ったばかりのCDから聴くのが当たり前。手をよく洗って丁寧に拭いてから、そうっと歌詞カードを取り出して食い入るように見つめながら聴いていた。

社会人になり、配信やサブスクが主流になり、新曲を聴く緊張感がずいぶんとなくなった気がする。今回はアルバムリリースのタイミングで重めの仕事が重なり、空腹に気づかないふりをしながら残業を終え、帰っている途中にワイヤレスイヤホンで聴いた。
ままごとを聴いた時、はじめて聴いたのに懐かしいと思った。歌詞カードを見つめながらラジカセでアルバムを聴いていたときのことを思い出した。当時聴いていたうちの一つが「一つになれないならせめて二つだけでいよう」。1曲目の「2LDK」は、「これから これから いまから さよなら」というフレーズからはじまる。それに対し「このまま そのまま 二人でいよう」から始まるままごとは、あのときに別れた二人の前日譚のようにも聴こえた。あれからのこと これからのことを2人で考えてこなかった日々の中には、おままごとみたいに、後先考えずその日のことだけとりあえず、で楽しく暮らしていた2人がいたのではないだろうか。懐かしいと思えたのは歌詞がリンクしているように感じただけでなく、Aメロに突入するまでのサビフレーズ、一瞬の無音、中トロだけで、直球ストレートのクリープハイプを投げてくれたように感じたからだ。この構成が過去のラジカセの記憶と結びついて、はじまる!とワクワクした感情を呼び起こさせてくれた。

このアルバムで1番、今の自分の心境にあっていると思うのが人と人と人と人だ。仕事でよく利用する大阪駅。始発に近い電車に乗っていく時もあれば終電近い時間で帰る日もある。どんなに疲れていても、ライブに向かう人や飲み会帰りの人、やたらと声の大きなカップルなど、色んな人と同じ駅で乗り合わせる。夜遅くにくたびれた顔をして電車に乗る時、一刻も早く忘れたいのに、心にできた傷口のことばかり考えてしまう時、こんなに周りにたくさんの人がいるのに孤独を感じるときがある。そんな日々に共感し、肯定してくれるのがこの曲だと思う。
この曲が一際特別に感じるのは他にも、「栞」以来のFM802とのタイアップソングという点も大きい。Radio Bestsellersでの歌唱、クリープハイプとしてのリリース、RADIO CRAZYでのステージ、それだけでなく武道館での演奏、それがMVになったこと、14歳の栞主題歌…目まぐるしく曲が展開していって、クリープハイプの代表曲といえるまで広まったことが自分のことのように嬉しかった。美しいだけの桜ソングではなく、地面に咲いてるという泥臭さに何度も支えられた。今回の人と人と人と人にも桜というワードが出てくる。「桜の橋」は実際に大阪にある「桜橋」という地名から来ているもので、大阪駅出口の名前にもなっている。桜橋なのか御堂筋なのかどこから出てどう迎えばいいのか分からず、梅田を彷徨い歩いていた私も、仕事で頻繁に利用するようになったおかげでスタスタと歩けるようになってしまった。ライブに行く日だけ足を踏み入れる特別な駅舎は、いつしか日常の一部になった。そして、「どんな色の空ニモマケズ渡る桜の橋」からはじまった曲は「人と人と人と人がいつか始まる時に架かる桜の橋」で終わる。桜の時期は出会いをもたらす。いま同じ大阪駅にいる無数の人々の点が、私の持つ点と繋がって、いつか線になって橋を架けるかもしれない。そう思うと、また次もこの街にで何とかやってみようと思わせてくれる。

人が行き交う改札とビル入り口の間にあるポスター。


青梅
を聞くと無条件に夏フェスの光景を思い出してしまう。この曲は本当に夏の晴天がよく似合う。まだ日の高い時間、土埃が舞う中、特有の生暖かい夏の空気を吸い込みながらステージを見ていると、青梅のイントロが流れてくる。ドラムのビートに合わせて一斉にお客さんが揺れ、手を挙げる。そんな光景を思い浮かべる。SNSに投稿されていた、2023年にクリープハイプのフェスに帯同する青梅ちゃんと赤梅ちゃんのことを、この曲とセットで覚えているからかもしれない。
クリープハイプにはラブホテルやリバーシブルーなど、夏の恋愛をテーマにした曲がいくつかあり、どれもフェスにぴったりなメロディだが、青梅が1番誠実さを感じる。二人で酸っぱい顔してる、というのは芽生えたばかりの恋愛感情を大切に育て、一夏の恋ではなくこのままの関係を強く望んでいるように聴こえる。だからこそ「夏をもとめて」が最後「この夏をとめて」と、季節が進まないように願っていると思う。そんな二人の思いとは裏腹に、爽やかなピアノのメロディから、トドメを刺されたように ぐにゃんと曲がって終わるのがクリープハイプらしくて良い。

生レバは定食屋のカウンターでギリギリ隣から聞こえてきそうないただきますで始まりごちそうさまで終わる曲。クリープハイプの曲は言葉にできない思いを言語化されている点に唸ることが多いが。この曲は意味のない言葉の羅列のようだ。食べたいと楽して生きてたいという私利私欲にまみれた歌の中に、どこか転の声の世界を想起させる。最初聞いた時、サビはラリラリ…と聞こえていたが、段々ダリィダリィ…になり、いまはダとラのグラデーションに聞こえる。聞く人にとって聞こえ方やその変化に違いがありそうだ。タイトルに生とつくだけあって「たまにはサッと炙って焼いてでも」と出てくるが、正直この曲はそんな生ぬるい火じゃなくて、肉が一瞬で丸焦げになるような大きな炎がよく似合う。

あの時計の近くから撮った駅のホーム

Iは、以前リリースした空音さんとのコラボナンバー「どうせ、愛だ」をクリープハイプの楽曲として表現したもの。「栞」「陽」「蛍の光」のように、他のアーティストと歌った曲や提供曲を経てのリリースはいままでいくつかあったが、どれもクリープハイプの曲として、新しい魅力を生み出している。「どうせ、愛だ」の歌詞は、生々しいほど情景が見えてくる。部屋の電気やベッド、歌詞に出てこない2人の表情や匂いまで想像してしまうほど。対して「I」に出てくる2人は、配信時のジャケットのように空っぽだ。「君」の何が好きとか、君とどんな日々を過ごしていたのかとか、君との間にどういう経緯があったのかとか、歌詞からは読み取ることは難しい。メロディに乗せて何度も繰り返される「好き」は、この曲の場合、繰り返されるほど空虚さを感じてしまう。2曲前まで爽やかな夏の恋を歌っていたのに。この振り幅がたまらない。

インタビューの歌詞に出てくる「明日も勝ちます最高です」は、野球の試合中継後のヒーローインタビューでよく聞く台詞。他にも汗でも涙でも、とか、感動も熱狂も、とか、ワードだけ引用するとキラキラな青春ソングに見えそうだ。しかしこの曲にはまっさらな水に墨汁をポタポタと落としたような暗さが混じっている。「喜びと悲しみと苦しみと痛みと憎しみと信頼と慰めと諦め」といったように感情を並べてみると、プラスの感情の少なさに驚く。信頼も使いようでは苦しみや憎しみを呼び起こす。「この何かが何か知りたい」の何かはその中でも、名前のつかない熱量を持った感情であるように思う。燃え尽きて消え尽きたと思っても自分の中にある芯のようなもの。最後は「また明日話そう」と共に、ギターのリフレインが止まってコーラスが入る。冒頭や中盤に繰り返される、諦観のような「ああ、ああ…」とは違い、このパートには喜びではないけども何か希望を感じる。明日また話そうなんて子ども同士の些細な約束のようにも聞こえる。それでも、自分の声を「誰かが何かを喋ってる」と感じるほど表面と本心が乖離して、燃え尽きたと思っている大人にとっては、明日も聞いてくれる人がいるなら、明日も生きるか、と思えることは、些細なことでも大きな希望に感じる。

べつに有名人でもないのには、Iからインタビューで感傷的な流れができたところで、ゆっくりトドメを刺すような曲だと思う。タイトルと歌い出しの「ヤバイ過去が掘り起こされた」で、だいたいの状況が分かってしまう。クリープハイプの曲には時代の分かる、流行りものの固有名詞は出てこないが、この曲は現代だからこそ生まれる曲だと思う。SNSも多様になり、アカウントを使って投稿するだけで誰でも発信する側になり、その界隈では有名人になり得る。有名人とまではいかなくても、一つの投稿が良くも悪くもすごく拡散されて、いつのまにか時の人になる。そんな現代の有象無象が描かれているという印象。「好きな人との好きな君と可愛い家と赤いお花」の部分はいつも、とある昭和のレースを編む曲を思い出してしまう。離れた人を思う時、思い浮かべる昭和の曲はストレートに思いを綴っているが、この曲は「リバーシブルー」のように裏腹。でもそこがいい。

夜の大阪駅、改札からホームへ。

星にでも願ってろは、曲のはじまりも、ドラムのカウント後のメロディとコーラスと歌詞も長谷川カオナシ節全開。体を揺らしたくなるバンドサウンドに、カオナシさんの感性でしか書けない歌詞が乗っかっている。特筆すべき歌詞は何よりサビの「あの娘が幸せで居ますように でも孤独に寝てますように」だ。初めて聞いた時、驚きのあまり感嘆符と疑問符をいっぱいつけて頭の中で何度も復唱した。何ならちょっと口に出して言ってしまった。何と美しい独占欲だろう。恋して好意乞うて壊れた故の暴走なのだろうが、そのあと葬るために指ごともらおうとするところまでも美しい。それでも、星にでも願ってろ、や、星も困るだろうけど、と壊れた部分に対して何処か俯瞰的な部分もあり、ほんの少しの理性を感じるところも気に入っている。そんな特大の好意を、何でもないように淡々と歌い進めるカオナシさんの声も、歌詞の残された理性の部分に合っている。ただ、この曲をもしライブで見ることができれば、いいぞもっとやれという気持ちで、なりふり構わず思い切り拳を突き上げながら聴きたい。

dmrksの電子音の鳴りは最近のクリープハイプならではだが、歌詞のどうしようもなさとメロディはファースト、セカンドアルバムあたりの初期のクリープハイプを感じる。1分12秒あたりからのメロディの変化が好きで、短いフレーズが何度か繰り返されたあとにハミングだけになり、尾崎さんの低い声で2番が始まり、ハミングが笛のような音になり、おどろおどろしい太鼓の音と鈴の音がする。急に異世界に迷い込んだようで、閉じ込められてしまった感じもするし、お前の顔を青ざめさせるために追い詰めているようにも感じる。「クズ」も「ゴミ」も使い方によっては同じ意味だが、ゴミのほうがどうしようもない人の度合いが増すのはなぜだろう。

喉仏には個人的な思い入れがある。配信リリース日に人生で初めてピアスを開けた。ピアスを開けるというのは自分の中で自傷行為に近く、もうダメだ、と思った時に、お守りを身体に埋め込む思いで開けようと決めていた。開けるとしたら左耳にひとつだけ、と決めていたのはクリープハイプの影響が大きい。喉仏、というタイトルもちょうど体のパーツがタイトルになっていて、歌詞も「奥に何か隠してる」「早く塞いで」と左耳を彷彿とさせる部分がある。その日は病院まで喉仏を聴きながら歩くことで、痛みへの恐怖をなんとか意識の外へ追いやろうとしていた。喉仏のメロディはイトのように軽快で、少し重い足取りでも無理矢理軽くしてくれた。結局、ピアスは案外呆気なく開き、痛みも幸い耐えられる範疇だった。イヤホンを耳に挿しながら帰ろうとすると、ちょうど喉仏のイントロが流れているタイミングで外に繋がる自動ドアが開いた。その時の太陽の光、春の心地よい風、開放感のあるイントロで、無条件にもう大丈夫だ、と思った。

買い物がてらステーションシティを歩いて
ようやく見つけた場所


本屋の
を聞いて思い出すのは、大阪ステーションシティの中にある本屋だ。大阪駅を訪れた時、仕事の前後に行くことが多い。本棚が楕円形にぐるりと並んでいて、いくつもの島があり、大きな柱も棚になっている。その本棚や島の間をぐるぐる歩いている時間が好きだ。目的の本を探し回るときもあれば、目についた本を次々手にとっていくときもあるし、何も買わずに帰る時もある。興味のある本や作家は年々増えるのに、落ち着いて本を読む時間がどうしてもうまく確保できない。それでも本屋に行くことを止めないのは、これを読みたい、と本に自分の心が動くことを確認して安心したいからだと思う。買った本を抱えて帰る時は、少し帰り道が明るくなる気がする。いつ買ったか分からない本を枕元に置いて、いつ読んだか分からない本を棚に並べて、たまにはその本を読んで、これからもなんてない日々を本とともにやり過ごしたい。

疾走感あるバンドサウンドのセンチメンタルママは、歌詞とメロディの印象が全然違う。メロディは、イントロからライブはフェスでワッと拳を突き上げたくなり、エネルギッシュな感じさえするが、歌っている内容は39度の体調不良。そんな緊急事態をギターを掻き鳴らし軽快に歌いきってくれるのがやけにシュールだ。センチメンタルバスの引用で始まる歌詞はもちろん、「電話してくれるママもいない」「ここには悪寒(オカン)だけ」など遊び心満載。あとサビの歌詞も、「ねえいいからしばらくほっといて〜何も見たくない」までだけみると、何か大失恋でもしたのかなどと思ってしまうが、「36.3度の熱が尊い」で、「熱かい!」と思わずツッコミたくなってしまう。あと「死にそうなほど今を生きてる」とか、いちいち壮大なのである。それから「米も肉も甘いもの辛いのもサケタバコオトコ」の語感がいい。この曲はコロナ禍を経て、39度の高熱を経験した人が少なくないからこそ響くメッセージソングになっているのではないか。とか書いている今も世間ではインフルエンザ大流行。健康第一。皆さんお大事にしてください。

もうおしまいだよさようならは、全体重を預けたくなるような包容力のある曲だ。トム・ブラウンのポッドキャストのエンディングのために書かれたこの曲は、それまでの馬鹿馬鹿しい話も、怒号が飛び交うような大喧嘩も、イントロが流れたらたちまち丸く収めてしまうような心強さがこの曲にはある。エンディングに相応しい歌い出しと歌い終わりだが、その間には思わずドキっとするような問いかけと吐露がある。でもそんな恥ずかしさも別れも、分かった上で両手を広げてくれているような優しさを感じる。はじめてこの曲を聴いた時はもう寝る前で、布団の上で仰向けになりながら聴いていた。頭に思い浮かんだのはクリープハイプのライブの光景で、最後にこの曲を歌っている姿を想像したら涙が溢れた。それなのに泣かないで、なんて言うから思わず笑ってしまった。美味しいものを食べても、あったかいお風呂に浸かっても、どうもやるせなさが消えない日はまた、布団の中でこの曲を聴いて、一日を終わらせたいと思っている。

あまり乗らない路線のホームで偶然見つけた広告。
ライブの日を楽しみにそれまで何とかやってきているのに
はじまってしまえばあっという間で、それが寂しくて。
でもまた今度、と言ってもらえる優しさを胸に
今度のツアーも楽しみにしています。


あと5秒
は、尾崎さんの歌詞ツイートではじめて歌詞を読んだと記憶しているが、まさかスキップを、動画の広告を飛ばす行動と、予定を飛ばされる行動と重ねるのか、と思わず唸った。走り抜けるような曲かと予想して聴いてみると、歩くようにゆっくりで。「徒歩5分 一緒に歩けばまるで好きなバンドのMVだ」は、いつも「本当」のMVが頭の中を流れる。その先の歌詞は「あと5秒 たった5秒」「まもなく次の動画が再生されます」とにじり寄る焦燥感があるが、たっぷりとイントロと間奏に浸れるのが嬉しい曲。まるで考える時間を与えてくれているかのようだ。それでもこれが最後、と矢印にタップしてから伝えることを考えるのが、もどかしいけど愛おしい。

ままごとで始まったアルバムも天の声で終わり。あと5秒の後、お茶の間から徒歩3秒が流れる構成にまた唸る。クリープハイプではじめて聴いた曲が「憂、燦々」で、「栞」が前述した通り特別な曲で、その2曲の歌詞が入っているのが嬉しい。ままごとの「このまま そのまま」という言葉にはクリープハイプ4人の関係性にも重なり、メンバーに向けても歌っていると思って聴いていたが、それに対して天の声の「君は一人だけど 俺も一人だよ」はこちらに向かってはっきりと呼びかけてくれている。尾崎さんのひとりごとのような歌詞だけど、こちらを見て、目線は同じ高さにある気がするのだ。
クリープハイプに出会った頃は、大人になって社会で働くことを夢見ていた。歌詞カードに齧り付くようにして読んでいた学生の頃だって、それなりに悩んでそれなりに苦しんで生きていた気がするけど、その頃では到底考えつかないほど、悩みの形も、責任の大きさも、置かれる環境も変わってしまった。案外簡単に心が折れるし、回復に時間もかかる。なんかもういっそ、と自棄になることもある。それでもクリープハイプの曲に支えられたり、身と心を預けたり、お守りにすることで、毎日を生きている。どんなに自分の気持ちが沈もうとも、クリープハイプを好きでいることに変わりはない。だからまた曲を聴いて、ライブに行って、光の届かない窓から抜け出し、なんだかんだ楽しく生きてるなと思える。

15年という節目にリリースされたアルバムを、クリープハイプと共に歩んできた自分とバンドの歴史と重ねて聴いた。配信で手軽に聴くことができるようになっても、家でライブ映像を見れるようになっても、CDを買ってアルバムに想いを馳せ、ライブに行く。その想いの強さは変わりないどころかむしろ年々増している。
クリープハイプのその先を、この先もずっと見ていたい。そのためにも、クリープハイプの曲を聴いてこれからも生きていきます。

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