
#8 不快は良い鏡
今日のワタシ
《やらなきゃいけないこと》が無いとき
《やった方がいいこと》をやらない自分にモヤモヤ。
今日の相方(毎日会うので)
引き続きクラフト市の準備をしている。
「徹夜する」と言うのを「およしよ…」と一生懸命止めた(毎回徹夜して、イベント後3日間くらい機能停止してしまうので)
やったことリスト
衣替え
クラフト市のブース設営リハ
料理:栗のクリームリゾット
リモートワーク1件

今日の発見
「不快は良い鏡」
今日の発見というか、最近の発見で気に入ってるものがある。
「不快は良い鏡」だということ。
あと、不快は身体に現れる。
“ストレスで体調を崩す” みたいなヤバい状態のことじゃなく、「小さなストレスも身体で感じられるなぁ」というふうに思ってる。ふとしたとき肩に力が入っていたり、僕は喉が弱いため、喉が詰まったり引き攣ったりするので、そういうところから「あ、今の状況(または頭に浮かぶ考え)嫌がってるな…」というのがわかる。
「不快は良い鏡」だというのは、不快から呪いがわかるなぁ…というアイデア。
ある状態を見て「不快である」というためには、物事に価値判断の基準を持ってないと無理で、《価値判断の基準 ≒ 呪い》みたいなことをぼんやりと。
例えば今日はいろいろあって
《やらなきゃいけないこと》が無いときに《(先々のために)やった方がいいこと》をやらない自分にモヤモヤしていたことに気がついたんだけど
このモヤモヤを発生させるには、“見通しを立てて賢く立ち回れる人が《良い》/できない人は《悪い》”みたいな価値判断の基準が必要で、この価値観で生きててるから僕は僕自身を見て嫌な気持ちになる。
他にもいくらでもある。
話の長いおいちゃんにウンザリして笑顔が引き攣るのを感じるとき
“自由に動けるのが《良い》/動けないのは《悪い》”とか
“相手の都合を気に掛ける人が《良い》/そうじゃない人は《悪い》”とかを見つけたり
コミュニケーションで自分の考えが理解されず、不安で喉の辺りが苦しくなるのを感じて
“理解してもらえる人が《良い》/そうじゃない人は《悪い》”を見つけたり。
こういう、自分が採用してきた価値判断の基準が、見るもの聞くものを”嫌なもの(好ましいものの場合もあるけど、それはそれで問題…また別の機会に)”にしてるとしたら、それを捨てることで楽になれたりしないだろうか?
そんなことを考えている。
所感
手を動かしていたい気持ちと、とことん考えてみたい気持ちとがあり。
それでいてどちらも進んでいない😅こまった
1日おつかれさまでした!
明日もゆるゆるやってきましょー🍵