わたしが教員をやめたワケ
わたしは、教員という仕事は素晴らしいと思っている。
わたしが教員になろうと思った理由は、以下の記事に書き記したので是非読んでいただきたい。
小さい頃から、教員になりたくて仕方なかった。
今だって、別の職種とはいえ、学校に行くと気持ちがわくわくするのだ。
今日は、どんなことが起きるのかな。
今日は、子どもたちとどんなやりとりができるのかな。
『学校』という場所は、本来、わくわくする場所なのだ。
だけど、それでもわたしは教員をやめた。
ここから先は、綺麗なお話にはなりそうもない、わたしがかつて教員をやめたワケについて語っていく。(はっきり言って愚痴ばかりだが)
初任者いじめ
わたしが初任で配属されたのは、知的障害特別支援学校だった。同期はわたしを含めて4人。
わたしが最年少で、わたしの1つ上、2つ上、10個上の、講師経験のある3人だった。
わたしは、大学を卒業して、その年に教員採用試験に受かったので、講師経験がなく、大学生っぽさが抜けないまま教員になった。
わたしが担任になったのは、小学部3年生。
自閉症の子が多く、ほかの学年に比べて人数も多く、大変な学年だった。
学年主任は40代の女性。体育会系の、気の強い人だった。
わたしは右も左もわからず必死についていこうとしたけれど、主任からはダメ出しの毎日。それでも、「修行の身!わたしは打たれ強い!」と思って頑張っていた。
外遊びが終わって教室に帰ってきた瞬間に、
「1番帽子 2番手洗い 3番うがい」
と主任はよく言っていた。
子どもたちが、帰ってきてから何をすればいいのか、その道筋をわかりやすく伝えていたのだ。
あるとき、わたしが先頭で教室に戻って、子どもたちにその言葉を言い忘れ、子どもたちが帽子をかぶったまま手を洗おうとしたとき、
「今!!!今あなたの指示が一瞬遅れて、子どもたちが動けないのは、一般企業だったら1億円の大損になるくらいだ!!!やる気がないなら教員なんてやめればいい!!ぼーっと突っ立ってても何も意味ない!!」
と怒鳴られたこともある。
今思うと、意味不明である。
子どもが毎回人に言われなくてもできるような視覚支援の一つでもすればいいのに。
それから、5月にわたしの授業研があったのもひどかった。
しかも、一度も見たことがない「遊びの時間」という授業を担当することになったのだ。
授業案自体、
教育実習でしか書いたことがない。
しかも、ほかの初任者3人は、
「朝の会」や「国語・算数」などで授業研をするのに、わたしは「遊びの時間」だ。
遊びの時間は、知的障害特別支援学校では、大事な授業の一つとして設定されており、ただ遊ばせるのではなく、
子ども一人一人の課題に応じて、支援を考え、子どもの力を伸ばしていく学びの時間だ。
たとえば、「友達と一緒にやりとりして遊ぶ」や、「工夫して遊ぶ」「遊びを発展させる」「次の時間を楽しみにする」など、それぞれの子が、それぞれの段階で成長できるように、細かく考えられている。
それを、大学卒業したばかりで、まだ仕事をして2か月しか経っていない人の授業研、しかも、研修課が主催する研修のひとつとして扱うなんて、
わたしが困って恥ずかしくなるに決まっている。
しかも、授業案を学年会で見せれば、
「こんなに綺麗な言葉で書かれても、内容が、ぜーーーんぜんイメージできないんだけど!!」
と言われて、床に投げつけられる。
わたし、よく耐えたなぁ・・・。
そして、学年には、主任を含め6人の先生たちがいたけれど、
誰も助けてくれなかった。
希望を持って、教員になったのに、わたしの心はボロボロだった。
毎日笑顔で、ハツラツとしていて、楽しそうな先生に憧れて、
勉強も一生懸命して、頑張って合格したのに、
わたしは、いつも主任におびえながら、
「なにか間違ったことをしていないかな」といつもビクビクして、
子どもと会う朝8時半から、子どもが帰る14時半まで、
一秒たりとも気が抜けない時間を過ごした。
参観会のときには、
保護者の目の前で怒られた。
保護者からのアンケートには、
「なんでうちの子の担任が、あんな新人なんですか。納得できません」
と書かれた。
そして、そのアンケート結果が職員会議で配られて、赤面して泣きそうだった。
あるとき、主任が、学年の先生たちとコソコソ話している声が聞こえた。
「あの子、今まで挫折してきてないでしょ。だから、散々挫折させてやろうと思って。」
と言っていた。あの子、とは、もちろんわたしのことだった。
主任は、何年もかかって、教員採用試験に合格したようだった。
わたしが一発で受かったのが気に食わなかったらしい。
それを聞いて、「なんだ、そんなことだったのか」とがっかりした。
わたしは、それまで、これだけひどい仕打ちをされていても、まだ、
「わたしの可能性を信じて、伸ばすために、あえて厳しいことを言ってくれているんだ」と信じていたのだ。
なんだよ、ただのいじめじゃん。
ゆるーい就労規則
今でこそ、声高に物申す教員が増えてきたが、教員の就労時間について、わたしはずっと理不尽を感じていた。
わたしの就労時間は、
朝8時15分~だったが、8時には学校に来ている児童がいた。
だから、その子たちよりも当たり前のように早く出勤しておかなければならない。
そして、わたしは朝のほうが仕事がはかどるタイプだったので、6時半とか7時に出勤していることもよくあった。
出勤簿を毎月提出するのだが、そこに残業時間も記録する。教員に残業代は支払われないのだが、80時間以上超えた場合は、医師の面談が必要になる、と記載してあった。
わたしは、朝早く出勤している時間も、当然残業だということで、その時間も含めて書いて提出した。
すると、しばらくして学部主事がやってきて、
「ねぇ、申し訳ないんだけど、この時間って、早朝に来てる時間も入れているわよね?事務の方は、早朝の時間のことはわからないと思うから、夕方からの勤務時間だけを書いてくれる?」(意味不明である)
とのこと。
あ~、こうして教員の残業時間って短く申告されるんだな~と思った出来事だ。
文科省の人たちは、現場の下っ端をやってみたらいい。
とても理不尽でびっくりするから。
セクハラじじい
わたしはなんとか3年間耐えて頑張り、4年目に学級主任になった。
特別支援学校は、T・Tといって、一つのクラスに2人~3人の教員が担任としてつく。そのとりまとめを行うのが、学級主任だ。
しかし、わたしよりもだいぶ先輩の男性教諭がわたしの下についたのだ。普通なら、彼が学級主任である。
たしかに、その先生は、あまり仕事をしてくれなくて、ほとんど全員の先生から嫌われていた。わたしはその先生と割とうまくやっていたので、あの人なら嫌がらないだろうという理由で一緒のクラスにされたのは丸わかりだった。
1年間、なんだかんだ、うまくやっていたのだが、
次の年、わたしが結婚して、妊娠したことを明かすと、
「へぇ~、〇〇先生も、そういう顔して、エッチなことするんだー」
と職員室で大声で言われたのだ。
わたしの向かいに座っている若い男性と女性の先生たちは顔が引きつっていたし、私も顔が真っ赤になって、怒りなのか、恥ずかしさなのか、どうしたらいいかわからない気持ちになった。
それでわたしが言ったのは、
「わたしだって、やるときゃやります!!!」
だ。
あまりの出来事に、わたしも壊れた!笑
いまだに、もっと良い返しがなかったか、とたまに思う 笑
つまり、なんでこの仕事をやめたのか
なぜか、と言われれば、
出産が3回立て続けにあり、育児と仕事の両立ができないから。
というのが表向きの理由。
本心は、
もう、博打のような人事に振り回されて
神経をすり減らしたくないからだ。
わたしが働いていた間に、素晴らしい先生とも出会ったし、
一緒にお仕事をさせてもらって、幸せだった時期もある。
でも、そういう年ばかりならいいのだけれど、
そうでもないから困るのだ。
特別支援学校は、通常の学校に比べ、特に一緒に組む相手によって、
その1年が左右される。
それに一喜一憂するのは、わたしには荷が重すぎる。
あの頃よりは、大人になったし、
心も年をとり、うまくかわしたり、受け流せたり、
そういう知恵もついてきたが、
20代のあの未熟なわたしには、両立は絶対無理だった。
あぁ、本当に綺麗な話にならなかった。
わたしの悲しかった記憶たち。
初任の次の年の5月、見かねた父がわたしをサッカー観戦に誘ってくれた。
わたし、サッカーはまるで興味がなかったのだけれど、
それのおかげで、鬱にならずに済んだと思っている。
支えてくれる人に、いつも感謝しないとね。