書けなかった私を救うためのnote
chii と申します。
猫と本、雨が好きな1986年うまれ。
一度ならず何度も挫折した文章での発信を、大好きな友人のすすめで再開することにしました。
初回の今日は、過去の《書けなかった私》を救いに行こうと思います。
読むことが好きだった幼少期
私は幼いころから本が好きで、おままごと、お人形遊びには殆ど興味のない子どもだったそうです。ミニカーとレゴブロック、パズルも好きで、外に行けば乗り物や建物に目がいき、興味の傾向はどちらかといえば男の子に近かった様子。長女として生まれたため、女の子の遊びを期待していた我が家は拍子抜けしたようですが、私を尊重してくれたのは幸いでした。家には絵本から児童書、図鑑、辞典など、たくさんの本が溢れていました。今でも本は大好物です。
厳密に言うと文字と音に関心のある子どもだったようで、ひらがな・カタカナを覚えてからは、特に子音+母音で一音を表すアルファベットが面白かったようです。一緒に住んでいた祖母に本を読み聞かせしたくて、漢字もいっぱい書いて練習しました。字を書くことが好きなのは、このあたりの記憶からきているのかも知れません。
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書くことが好きだった少女期
書くことも比較的得意でした。苦にならなかったというほうが正しいかも。作文は考えがまとまったら一気に書いて、(たぶん授業で習ったんでしょうけど)書き終えたら読み直して違和感のある表現を修正し、ときには構成を変えて、提出するのが常でした。国語の先生に恵まれて、真剣に添削してくれたので、先生の意見や感想を反映して書き直す時間も好きでした。
高校生になって小論文を書くようになっても、苦手意識は芽生えず、むしろ積極的に取り組んでいました。与えられた課題に意見を出して、読み手に意図とその合理性が伝わるよう構成を練り、言い回しを考える作業は本当に面白かったです。作文は感情や体験を盛り込み共感を呼ぶ面が強く、小論文は主張を明らかにして論理的にその正当性を説くという理解をしています。
(言葉の遣い方、漢字の当て方にやたらとこだわる子だったようです。あとは異様に誤字脱字を見つけるのが早く、誤植もすぐ見つけます。謎の特殊技能…)
文章の上手な子として見られている自覚もあったし、自分でも「私は書くのが得意なんだ」くらいには思っていました。紙を前にすれば言いたいことは山ほど出てきて、いくらでも書けました。だからなんとなく、本当にぼんやりと「自分はきっと書くことで生きていく」と思っていたのです。将来の夢は作家だった時期も長く、自分のアイデンティティと文章表現を結びつけて、強く意識していたと思います。
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途方に暮れた20代
私は「こだわり」とか「熱狂的に好きなもの」が極端に少ない人だと思います。たとえば、特定の分野で誰もついていけないくらいの強い情熱を持っているとか、社会に対して明確な課題意識をもっていて「とにかくこれを伝えたい」「自分が発信しなければ」とかそういう類のものは見当たりません。
誤字脱字や言葉の選び方が気になるとか、何種類もの黒ペンを使い分けるとか、紙の質感と匂いの違いを気にするとか、そういう些細なレベルでの好き・こだわりはあるのに。
自分のなかでは趣味認定している読書、観劇やボードゲーム、美術館巡りだって、語れるほどではないと感じます(だから「〇〇が好き」と気軽に言えないタイプです)。周りから漏れ聞こえる蘊蓄や熱のこもった発言が、自分と周囲との世界を分断してしまう感覚。同じものを見て聴いて感じているのに、彼らとの解像度があまりにも違う気がするのです。
好きという強い感情、その熱意に下支えされた圧倒的な情報量、どちらも持ち合わせていない私は、書く内容に困り、途方に暮れるしかありませんでした。半端な状態で書き綴ることは、そのようなひとたちに失礼だとさえ思ってきました。
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だから、大人になっていざ書こうと思っても、書けなかったんですね。書くって技術やセンスも大事だけど、最後は結局メッセージ性だと思っていて、「私はこれを社会に向けて発したい」という情熱が高いほうが有利に思います。
書けたのは、あくまで自分が“察しの良い子ども”だったから。テーマが与えられ、何をどう書くべきか、大人たちが何を望んでいるか、わかってしまったから。文章を書くときの結論もメッセージも、実は自分で出したわけじゃなかった。無意識とはいえ、与えられていたんですよね。それに気づいたときの落胆と、虚無感といったら!
あれ、私、何も書けなくない…?
というか、書く必要ある…?
って。読書が好きだから足枷になっていたのも大きかったと思います。世の中には溜め息が出るほど美しい表現をするひとが、途方もない熱量をもって語るひとが、教養があり博識で、建設的な意見を交わすひとが、ひしめいています。わざわざ自分が書かなくても…という気持ちもあって。
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ただ書きたい、で書いてはいけないのか
じゃあ、伝えたい強い想いや、言い切れるだけの意見、明確な書きたいことが無いと書けないのか、書いちゃダメかってぐるぐる考えてみたけれど、きっとそれはただの言い訳で、別に何を書いたっていいのだと思います。だって、誰かに同じことを問われたら「書いたらいいよ!」って答えるから、絶対。
一億総クリエイター時代なんて言われて久しいですが、これだけ気軽に個人が発信できる時代に生きて、やってみたい気持ちもあって、やらない理由を探しているなんて勿体ないもんね。極めつけで、大事な友人が背中を押してくれました。chiiちゃんブログやってよ!読みたいよ!って。本当にありがとう。いきなり重い内容だけど書いてみたよ。
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今しか書けない、を大切にする
メモ魔の私はオンライン・オフライン問わず色々書き留めておくのですが、暫く経って読み返したとき、本当に自分で書いたのか疑わしくなるほど、はっとする文章やみずみずしい感性に出逢います。今の自分では到底紡げないような言葉と気持ちがそこにあります。
今しか使えない言葉、今しか書けない表現、今を逃せば二度と手に入らないかも知れない感性、今だから愛情を注げるもの・こと。
その日、そのときの自分が、どんなレンズを通して世界を眺めているのか、ていねいに記録していくこと。レンズの色彩、ときには形が変わっていくさまを受け止め、受け入れて生きること。うつろう自分を、書き留めた言葉が、文章が教えてくれます。
誰かが書いた文章を素敵だと思ったり、考え方に刺激を受けたり、そんな世界の一員になりたいと憧れた気持ちも。とはいえ書くことないな…なんていきなり迷子になった心もとなさも。明日には、来週、来月、もしかすると1年後には変わっているかも知れませんね。
今はそんな気持ちで、書くことに向き合っています。