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城戸の木島に対する愉悦と占有。(ドラマ「インディゴの気分」ラストの城戸さんに寄せて)【インディゴの気分考察】

3月21日は城戸さんの誕生日!!
城戸士郎さん、お誕生日おめでとうございます!!
この文章は「インディゴの気分」最終話配信直後に城戸さんについて考えてみたものです。第一印象です。憧れだった男だからこそ、手の内におさめてみたいという城戸の占有と愉悦、木島を欲したことで自制が外れ情動に揺さぶられる様が愛おしいなと。Twitterに徒然なるままに綴ったのでまとまっていませんが、覚書として。文体が呟き口調ですがすみません。
(2019年4月稿)


 城戸さんはやっぱり気持ちのどこかで、木島は俺のものだ、という占有意識みたいなものを持っていた気がする。独占欲と言ってしまうと、もっと能動的な印象になってしまうかもしれない。欲というほどはっきりしないけれど、無自覚に心の内で飼っているような。占有している間は、そこにあるのが当たり前で、見ないでいようと思ったら見ないでいられるようなもの。
 それに愛という名前がつけられるのであれば、それは歪であっても真っすぐに木島に向く、愛であったと思う。
 発端は劣等からくる憎悪や嫉妬であったけれど、木島との時間を積み重ねるにつれて、形を変えていった。官能小説という自分の領域に引き込むことで、うまく書けない木島に、何かが満たされる。今まで人生を掛けるほど意味を見出せなかった、編集という仕事が役に立つ喜び。
 経験であの木島に意見を言うことができる。担当編集になって、目の届く範囲に憧れの男が収まっていること。木島が自分に惚れたらしいこと。木島に対してなぜか欲望してしまう己と、素直に反応を返してくる相手。存外に愛おしく思える友人だった男。
 きっと、そういうものの一つ一つが、城戸を底なしの泥沼に惹きこんでいったんじゃないかと思う。
 でも、城戸にも、自分の真実の愛と欲望を見つめるチャンスはあったんですよね。囚われていたところから、一歩踏み込み、とらえたい、という衝動に変わったあの時。
 蒲生田先生に呼び出されたあの夜、また、秘めていた想いを吐露してしまった瞬間、木島から突き放された仏前で、湧き上がった気がするんですよね。でも木島もまた、最後には見ぬふりをしたことで、自分を守っていた部分があって。
 結局城戸も、それを正視しないまま進んでしまったんだろうな。
 それは余計に、無意識下に押し込めた潜在的なものになっていって。
 そして、その反面、城戸にとって結婚は、不安定でいる不安を解消し、自分を安定させる、バランスを取るためのものでもあったのかな、という気がしている。はたから見たら本当に身勝手に感じるけれど、特別な相手に対する占有のために、揺れる自分を安定させたいっていう気持ちは、私には馴染のある感覚だなって思ってしまった。
 ある意味、それが、木島を見て「嫌になる」自分を手放すのに、必要なことだったのではないかと。
 城戸は、純粋な好意を無下にされ、貶められ、プライドを傷つけられて、憧れの男をぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。でも木島は思いのほか簡単に、自分の手の中に落ちてきた。ぐちゃぐちゃにするよりよっぽど容易に、木島を得られた。想いは変化していって、いつしか、城戸は、そういうぐちゃぐちゃから、「自分の手」で彼を救い出したいという感情に変わった
のかな、と思った。無自覚とはいえ発端を作ったのは自分。本当の、真実の城戸の望みは、そうやって、 木島を完全に手に入れることだったんじゃないか、と、 タクシーを降りた城戸を見て思いました。
 一方、理生にとっては、城戸が父になったことが完全な駄目押しだったと思う。木島にとって父親という存在は、ただの愛を得たくても得られなかった存在で。そして城戸さんは子の父親になった。家庭人って そういうことですよね。
 城戸に子供ができて、爪の先に灯すようにして持っていた木島の微かな望みみたいなものは、完全に消え去った。完全に断たれた。父になった城戸にはもう絶対に手出しできない。
 そして、どうにもできないうちに、木島の前に久住くんが現れて、ぐちゃぐちゃの彼を救ってしまった。
 本当は、そうしたかったのは自分なのに。どうやっても、自分にはそれができなかった。木島が書けなく なったのは自分だという責任もある。木島理生の書く世界を取り戻したかったのも事実。たとえ自分の力 でなくても、それを得た事で、自分を納得させようとしたのかもしれない。
 とても陳腐な言い方になってしまうけれど、無くして初めて気づくものがある。俺もモノだった木島が、行 ってしまった。城戸の言う「元気で」って、そういうことかな、って思った。でもきっとまだどこかで、城戸 は木島の創作の一番の理解者は俺だ、って思ってそうだ。
 燻りを灯したまま、城戸はそこに縋っていくんだろうか。たぶんでも、ずっと、城戸は木島の友人とし て普通のまともな優しい男として、彼の傍にいるんだろう、と私は思いました。
 またもう少し何回か見たら印象は変わるかも…でも、ドラマの城戸さんのラストを、こんな風に受け止めてみました。おしまい。

 懐かしく振り返りますが、原作の城戸さんからドラマの城戸さんを紐解こうとする姿勢が垣間見えますね。
 今は原作とドラマの城戸さんの描かれ方の違いを当時よりもはっきりと認識していますが、この時はまだ処理しきれぬまま、受け止めたもの感じたことを吐き出したように思います。ちょっと違うな、という部分も多分にありますが、こうした勢いが面白いと思うので上げてみました。
 中の人を知れば知るほど、また、三木監督の演出を多く見れば見るほど、ドラマと原作の差を体感します。今ではそれがよくわかる。
 でも、その差こそが作品をどう受け止めたかを理解する手がかりであり、魅力であり、興味深いところだと思います。
 また、城戸士郎という人にどういう想いを重ねるかは、本当に人それぞれ。人生観や普通に対する価値観が透けてみえて、それこそ人の数だけ城戸さん像はある。だから時々城戸さんが玉虫色に思える。
 先日の地上波再放送でも改めて思いましたが、「インディゴの気分」は本当に胸が苦しくなるくらい美しく心かき乱されるドラマです。人間味あふれる城戸と純粋や繊細さを感じる木島と、圧倒的な存在感の蒲生田先生、また、恋愛に焦点を当てた三木監督の演出は、いつ観ても何回見ても色褪せず、観るたびにノックダウンさせられます。
 プレイバックを観ると、蒲生田先生と木島と城戸の物語を振り返りたくもなりますね。劇場公開は終わってしまいましたが、3人に想いを馳せながら映画を心の中に蘇らせたいと思います。






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