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映画・美術:マルクス・O・ローゼンミュラー監督の映画《ミュンターとカンディンスキー》

このブログでは主にオペラ・コンサートについて、そしてたまに美術について書いています。
私は映画も好きで、ドイツに住む前、東京にいた頃はずいぶん長い時間を映画館で過ごしました。岩波ホール、Bunkamura、シネマスクエア東急・・・お世話になりました。

さて、映画《ミュンターとカンディンスキー》を観ました。春のミュンヘン映画祭でとりあげられていたので一般公開を楽しみにしていました。

パンフレット。

映画のトレイラーのLINKです。

『ドイツ表現主義』、『青騎士』を知っている方ならワシリー・カンディンスキー(1866ー1944)とガブリエレ・ミュンター(1877ー1962)のことはご存知でしょう。
今回、二人をテーマに映画化されたのは初めてだそうです。

『青騎士』については少しですが以下の投稿で触れています。→


『抽象画の父』と言われるカンディンスキーですが、ミュンターへの態度は人間として最低です。

ロシアに妻がいながらそれを隠して11歳年下の弟子(当時、女性はアカデミーに入学できませんでした)ミュンターと関係を持ちます(1903年)。
当時は現在にもまして大変なスキャンダルだったはずです。
カンディンスキーは秘密にしておくようミュンターをさとし、他人の目を気にして、二人は1904年、旅に出ます。
旅といっても、3年以上の長旅で、行ったところはオランダ、イタリア、チュニス、フランス・・・。以前、読んだ資料では「旅の費用はミュンターが負担した」とあったのですが、今、確認できないので、もし間違っていたらご教示ください。

二人はドイツに戻り、棲家を探します。
そしてミュンターは1908年、ミュンヘンの南ムルナウに家を買います。
強調しますが、お金を出したのはミュンターです。カンディンスキーではない。
現在、ミュンター・ハウスと呼ばれています。

ここに後述の芸術家たちが集まり、中でもロシア人が多かったので、『ロシア・ハウス』とも言われました。

映画の冒頭はミュンターがミュンター・ハウスの地下室で画布を枠から外し、新聞紙に巻いて、ジャムの瓶の後ろに隠す作業シーンで始まります。
突然、家の呼び鈴がなり、ミュンターがドアを開けると、そこにはゲシュタポがいます。彼らはカンディンスキーをはじめ『頽廃芸術』とされた『青騎士』たちの画家の作品を没収するべく家宅捜索をします。
兵士がジャムの瓶を落とし、作品が発見されるかと思うと、兵士は赤いジャムの汚れを気にするばかりで、作品は難を逃れます。
この暗い赤が、とても印象的でした。

映画はそこから時間を遡って、二人の出会いと幸せだった時、ロシア・ハウスの時代を描きます。バイエルンの自然、ムルナウとシュタッフェル湖、新芸術家協会、青騎士の設立・・・。

しかし、ほどなく第一次世界大戦が始まります。
ミュンターは戦争のためにロシアに戻ったカンディンスキーの少しでも近くに行こうと、北欧に行き1916年カンディンスキーと会うのですが、これが二人が会った最後になりました。
カンディンスキーはそれまでも、ミュンターに何度も「妻とはもうすぐ別れる。結婚しよう!」と言っていました(手紙が残っています)。

しかし、カンディンスキーは1917年、二人目の妻となるニーナと結婚します。

ミュンターは二人の結婚を人伝てに聞きます。
そしてカンディンスキーは第三者を介して、ロシア・ハウスに残した自分の作品や持ち物(下着までも)の返還を要求します。

1921年、カンディンスキーはワイマールのバウハウスに移ります。キャリアを積み、幸せな結婚をしたカンディンスキー。

それに対し、カンディンスキーの裏切りにあい、絶望したミュンターは、絵筆をとることもできず長い間鬱状態に陥るのですが、映画ではそこはわずかで、ミュンターが後世一緒に暮らしたヨハネス・アイヒラーのことは出てきません。

また、ミュンター・ハウスに集まった芸術家たち、フランツ・マルク、マリア・マルク、アレクセイ・フォン・ヤフレンスキ、マリアンネ・フォン・ヴェレフキン、パウル・クレーも出てきますが、少しです。
アーノルト・シェーンベルクも少しです。

タイトルは《ミュンターとカンディンスキー》ですし、それで良いのかも、とは思いますが・・・。

ただ、映画の中で、「私は対象物を描くのではない、感じたことを絵にするの!」というミュンターのセリフ、そして絵筆ではなくペインティング・ナイフで色を重ねていく技法のアップはたいへん印象的でした。

そして最後に「ミュンターが守った青騎士の作品は彼女が80歳になった1957年、ミュンヘンのレンバッハ・ハウスに寄贈された」と文字で説明が出ていました。

少し説明を加えますと、ミュンターはカンディンスキーからの返還要求に応えず、そしてナチの手から多くの作品を隠し、守り通しました。
カンディンスキーからの返還要求については、権利の問題があったとされていますが、青騎士の作品が売られることを避けた、との見方もあるようです。

『もし』を言ってもしょうがないのですが、もし返還し売られ没収されていたら、『ドイツ表現主義』は現在私たちが見るようなかたちでは明らかになっていなかったかもしれません。
ミュンターに感謝です。
命がけで作品を守ったのですから。
しかも、戦後は経済的に苦しかった時期もあったようですが、売らず、美術館に寄贈したのですから。

カンディンスキーの死後、「唯一の相続人」と遺言状に指定された夫人ニーナ(二人の子供は早逝しています)は、ミュンター・ハウスにあった作品の所有権について1957年、ミュンターと和解したということです。

そしてミュンターは上述したように1957年、ミュンヘンのレンバッハハウスに夥しい数の『青騎士』たちの作品を寄贈し、これによりレンバッハハウスは一夜にして世界的な美術館になる、という美術史上の重要事件が起きました。

一方、ニーナ・カンディンスキーは作品を売って、スイスのシャレーで豪華な暮らしをしていたのですが、1980年、強盗に襲われ落命します。これは未解決だそうです。

以下はムルナウ・シュロスムゼウムとミュンター・ハウスで撮った写真です(2023年3月18日)。

シュロスムゼウムの入口

以下はムルナウ・シュロスムゼウムのチケットとパンフレット。

読めるように英語版をのせます。

右はミュンター作《山岳地方の家》1908/09
左はカンディンスキー作《ムルナウー絵を書くミュンター》1908
ミュンター作の版画(和紙)《ハルモニウムを弾くカンディンスキー》1907
カンディンスキーもミュンターも音楽にたいへん造詣が深く、カンディンスキーはミュンター・ハウスにハルモニウムを持ってきていました。
ムルナウの街
ミュンター・ハウス
ミュンター・ハウスは現在、ミュンヘンの『ガブリエレ・ミュンター、ヨハネス・アイヒラー財団』がケアしています。
映画の中で、カンディンスキーがこの
階段に絵を描くシーンがありました。
シェーンベルクもミュンター・ハウスを訪れました。
シェーンベルクとカンディンスキーの交友関係もよく知られています。

カンディンスキーはバイエルン地方の民族衣装を好んで着ていたそうです。
上記の絵のモデルになった場所。

以下はミュンター・ハウスのパンフレット

FOTO:(c)Kishi

それにしても、ミュンター、なぜ「あんなヒドイ男」を愛したんだろう?

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