「トランスフォーマー/ロストエイジ」の精神的続編+ボストンの黒歴史=「テッド2」
先のエントリで「トランスフォーマー/ロストエイジ」の考察記事を長々と書きましたが、
同作がチャイナマネーのせいでメチャクチャになり放り出されてしまったテーマを拾いあげ、精神的に引き継いだと思われる映画に2015年公開の「テッド2」があります。
「テッド2」は、セス・マクファーレン監督・脚本・製作の2012年公開の(日本公開は2013年)「テッド」の続編です。1985年のクリスマスに孤独な少年ジョンが、「一人でいいから親友がほしい」とプレゼントにもらったティディベア「テッド」に命が宿るよう祈ると奇跡が起こってそれが叶い、以後2人はずっと親友として共に暮らし成長するも、そのまま2人とも自堕落かつオタクなアダルトチルドレンのオッサンになってしまう…という設定のおバカなファンタジーで、一作目では2人がぬるま湯に浸かったような関係から脱し大人になれるのか?というかアダルトチルドレンはダメなことなのか?アダルトチルドレンのまま恋愛・結婚して大人になってもよくないか?という、新たな生き方を提示するストーリーでした。
しかし「テッド2」はいきなり前作とうって変わって、「こいつは物か人間か?」「人間の条件とは何か?」「魂のあるなしの判断基準は?」と深遠かつ壮大な命題をテーマにし、且つそこにストーリーの舞台であるマサチューセッツ州、ひいてはボストンという街が背負う黒歴史をかぶせ、最後に鑑賞者に「クソバカを助けるべきか否か?」を突き付けてくるハイコンテクストっぷりを見せつけてきます。監督・脚本・製作は前作同様にセス・マクファーレンで、主演も前作同様にマーク・ウォルバーグ(ジョン)とマクファーレン(テッド)が務めています。
ここでまず気付くのは、「こいつは物か人間か?」「人間の条件とは何か?」「魂のあるなしの判断基準は?」というテーマは、「トランスフォーマー/ロストエイジ」の冒頭でも示されていたことです。奇しくも「~ロストエイジ」の人間側の主役も「テッド」シリーズと同じマーク・ウォルバーグ。ポンコツとなってしまったオプティマス・プライムを助けたマーク・ウォルバーグ演じるレッドネックのメイカーのケイドが、会話の中でトランスフォーマーの生命の源である「Spark(スパーク)」を人間の「Soul(魂)」に相当するものだと理解し、彼らをロボットという「物」ではなく人間と同じように魂を持つ知的生命体であると認めますが、それを奴隷制時代に黒人奴隷を酷使・虐待しまくっていたテキサス州を舞台に描くこと自体がなかなかに攻めていました。また、そのシーン以前にもケイドの友人ルーカスの台詞で「人間が人間を所有しようとするのはテキサスでも大昔の話」と言わせていることからも、「~ロストエイジ」のテーマは「物か人間か?」であったことは明らかです。ところが、前述のように同作はチャイナマネーを投入した中国資本の作品だったため後半中国へ飛び、ストーリーも演出も何もかもがメチャクチャになってしまいこのテーマがあやふやなまま放り出されてしまいました。
これを踏まえて「テッド2」を見ると、公開のタイミングといいいキャスティングといいテーマといい、「~ロストエイジ」で放り出されてしまったテーマを描き切り、「テッド」の続編でありながら「~ロストエイジ」の精神的続編であろうとした映画のように思えてなりません。これまた奇しくも、「テッド2」はぬいぐるみがメインキャラということもあってトランスフォーマーのライセンスを持つ玩具メーカーのハズブロが全面協力しており、劇中に「~ロストエイジ」バージョンのオプティマス・プライムとバンブルビーがやたら映り込むやらシーン演出にも使われるやらで、明らかに「ネタ」になっているのです。なお、本作でハズブロはテッドを「物」と見なして起業利益のために分解・解析して利用しようと企む、ちょうど「~ロストエイジ」の悪徳軍事企業に相当するヴィラン役なのですが、それでも全面協力したなんて本当に懐の深い企業だと思います。
テッドの人権裁判=ドレッド・スコット対サンフォード事件
本作はテッドが職場で知り合った彼女タミ・リンと結婚するところから始まりますが、テッドもタミ・リンも無教養な典型的下流白人なこともあり(テッドはぬいぐるみですが中身の性格がまさにそれ)、くだらないことで喧嘩を繰り返すようになり夫婦仲が冷め始めてきます。そこで同僚の黒人女性が言うには「やっぱり子供を作るのが一番。子供は夫婦のかすがい」と。そこで2人は子供を持とうとするのですが、テッドは生殖機能がないぬいぐるみなので、まずはジョンから精子提供を受け人工授精で子供を授かろうとします。ところが産婦人科を受診したところ、タミ・リンは若い頃の薬物乱用がたたって卵巣が荒れ、妊娠能力を失っていたことが判明。そこで養子縁組をしようとするのですが、親が「人間」でないと養子がもらえないということになり、ここにきてテッドはぬいぐるみでそもそも人間ではない、人間ではないから当然市民権はおろか人権もない、従ってタミ・リンとの結婚も無効であり、ジョンが所有する「財産(Property)」であるとされ、それまで享受していた一切の権利を剥奪されてしまうのでした。
というわけでテッドは自分が人間(と同等)だと社会に認めてもらうため裁判で戦うことを決意するのですが、これには明らかに元ネタがあります。それは1857年にアメリカ合衆国最高裁判所で「黒人はアメリカ合衆国の市民権を得ることができない」と判決が下され、アメリカの奴隷制問題の転換点となり、南北戦争への引き金ともなった裁判「ドレッド・スコット対サンフォード事件」です。
この裁判の原告は黒人奴隷のドレッド・スコット氏。彼は奴隷の両親から生まれた生まれながらの奴隷で、1833年にもとの主人であるピーター・ブロウ氏から陸軍軍医ジョン・エマーソン少佐に使用人として転売されました。ここで面倒なのが、エマーソン少佐がやたらと転勤の多い人だったことです。彼は最初自由州(奴隷の所有・使役を禁じている州)のイリノイ州の砦に勤務しますが、その後やはり州の権限付与法のもと奴隷の使役が禁じられていたウィスコンシン準州(現在のミネソタ州)に引っ越します。その地にいる間、ドレッド・スコット氏は同じ黒人奴隷の女性と出会い結婚し、夫婦ともにエマーソン少佐に仕えることとなります。
1837年10月、エマーソン少佐は奴隷州のミズーリ州セントルイスに転勤になりますが、引っ越しのドタバタから落ち着くまでの間スコット夫妻を他人に”レンタル”してミネソタに残しておきました。奴隷を他人に貸し出してレンタル料を取ることは奴隷を容認する奴隷州ではよくあることでしたが、前述のとおりウィスコンシン州権限付与法のもとでは違法行為でした。
ところが早くもその翌月の同年11月、エマーソン少佐は今度は奴隷州のルイジアナ州の砦に転勤となりました。そこでようやくスコット夫妻はミネソタから呼び寄せられ、またエマーソン少佐も結婚。こうして2組の夫婦はアメリカのあちこちの砦を転々としますが、その旅行中に奴隷州と自由州の境界となる川の近くでドレッド・スコット氏の最初の子供が生まれます。
1840年5月、エマーソン少佐はフロリダ準州でのセミノール戦争に従軍しますが、妻とスコット夫妻を伴わず、当時住んでいたミズーリ州セントルイスに残していきます。彼は戦争から帰還すると自由州であるアイオワ準州へ転勤となりますが、またもやスコット一家をレンタルに出してセントルイスに残します。そして1843年12月、エマーソン少佐はわずか40歳で不慮の死を遂げますが、スコット一家は彼の「遺産」として残された未亡人に相続され、やがて彼女の兄弟であるジョン・F.A.サンフォード氏の所有となり、なんと3年間も一家でレンタルに出された挙句サンフォード氏から暴行を受けます。ここで遂にドレッド・スコット氏は自分達の自由を「買う」ことを決意しますが当然未亡人もサンフォード氏も拒否。そこでドレッド・スコット氏は「奴隷を禁じている自由州での居住期間があるのだから自分達は奴隷ではなく自由黒人(Freeman)である。したがって暴力による人権侵害が成立する。」として損害賠償を求め1846年にミズーリ州裁判所に提訴しました。
上記の経緯を見ると、彼らは奴隷州に居住していたこともありますが、奴隷を禁じた自由州に居住した時点で奴隷を所持・使役していたエマーソン少佐は違法行為をしていたことになり、奴隷とされていたドレッド・スコット氏は法的に自由な身分になれるはずです。当然ながら第一審はこの理屈で原告であるドレッド・スコット氏の訴えを認める判決を出しました。被告は第二審をミズーリ州最高裁に抗告したものの裁判所は一旦これを棄却。1850年になってようやく第二審が開かれましたが、そこでも第一審の判決をほぼそのまま引き継ぐ形でドレッド・スコット氏とその家族が法的に自由であるとしました。それでも諦めきれない被告は連邦最高裁にまで抗告しますが、なんと1857年3月の最終判決で原告の訴えが退けられ、逆に被告の訴えの方が全面的に認められる判決が出ました。要点は以下の3つ。
・黒人は奴隷の子孫であろうとなかろうとアメリカ合衆国の市民権は得られない。したがって原告にはそもそも連邦裁判所に訴訟を起こす権利はない。
・彼が最終的に居住していたミズーリ州は奴隷州であり、イリノイ州(自由州)の法律は適用されない。
・連邦議会は合衆国諸州に奴隷制を禁止する権限を持たないため、彼が北部に住んだとしても自由になることはできない。
つまり、黒人は人間ではなく財産だというわけです。ということでドレッド・スコット氏の結婚は法的契約とは認められず、また彼にはそれをする権利もなく、奴隷である彼から生まれた子供もまた親と同じく奴隷という「所有者の動産」ということになりました。
なぜ最高裁で逆転敗訴してしまったのか?それは当時の最高裁判所長官ロジャー・トーニ―が奴隷州であるメリーランド州の裕福なタバコ農園主の出身だったからです。当然彼の実家では黒人奴隷を使役していたでしょう。その出自から、奴隷州の農園主の意向に沿った判決を下したであろうことは容易に想像できます。
敗訴後のドレッド・スコット氏とその家族の運命ですが、最高裁の判決から約2カ月後にもともとの主人であったピーター・ブロウ氏の息子が一家全員の自由を「購入」したため晴れて自由黒人になりました。しかしそれからわずか1年4ヵ月後の1858年9月17日、ドレッド・スコット氏は結核に感染したことが元で亡くなってしまいました。
彼の自由な人生は短期間で終わってしまいましたが、この裁判は後のアメリカ史を大きく動かすことになります。最高裁判所長官ロジャー・トーニ―はこの裁判により奴隷制の是非に一応白黒を付けたということで世論が落ち着くだろうと信じていたそうですが、当然ながら反対の結果を生みました。奴隷制廃止論者はこの判決に大激怒し、奴隷制拡大に対する批判もより一層強まり、判決の2年後の1859年には白人の急進的奴隷制即時廃止論者が黒人奴隷と共に反乱を起こす「ジョン・ブラウンの蜂起」が発生。翌1860年の大統領選でかのリンカーンが当選し、それに危機感を強めた南部の奴隷州は合衆国から分離しアメリカ連合国を結成、これによりアメリカは南北に分裂して南北戦争に突入することとなります。
インテリ黒人とクソバカ白人の対比
この「ドレッド・スコット対サンフォード事件」のあらましを見ると、「テッド2」は黒人奴隷の部分をティディベアに変えたストーリーに思えますが決定的に異なる点があります。それはテッドと彼の妻タミ・リン、親友のジョン、彼らの裁判を担当する若き弁護士サマンサの全員がどうしようもないクソバカ白人だということです。だいたい前述のドレッド・スコット氏なんて、19世紀半ばに白人相手に裁判を起こしている時点で相当なインテリでしょう。肖像画もちゃんとした身なりで描かれていることから(黒人奴隷の肖像画がある時点で規格外)、彼がしていた仕事は肉体労働や単純労働ではなく、家を管理する執事のような仕事であろうことが伺えます。
それが「テッド2」のメインキャラときたらインテリのイの字もないバカばかり。自分達が深刻な状況にあるというのに新人コメディアンにいじわるなヤジを飛ばして嫌がらせをし、ジョギングしている人に林檎を投げつけてまた嫌がらせをし、飲んだくれ、マリファナを吸い、エロ動画を集め(しかもマニアックなやつ)、教養なんて1ミリもない下品でくだらない会話に興じる…露悪的と言ってもいいくらい前作に勝るクソバカっぷりが強調されます。弁護士は大学を出て司法試験に受かってるんだからバカじゃないだろうと思うかもしれませんが、彼女もまた依頼人の前で突然マリファナを吸い出し、テッド達と共にくだらない悪ふざけやいたずらに興じ、大麻畑を見て目を輝かせるような奴です。彼らを見ているうちに「はたしてこんなクソバカ共に手を差し伸べる価値なんてあるのだろうか?」という思いさえ沸き上がってきます。
そんな鑑賞者の気持ちを代弁し、また彼らと相対しているかのように本作には複数のインテリ黒人が登場し徹底的に彼らに塩対応を繰り返します。まずテッドはタミ・リンに人工受精させるため産婦人科を訪れますが、その医師が黒人で、冷たく「(荒れた卵巣を見て)吐き気がしました」と言い放つ、そして黒人の裁判官はテッドは人間ではなく物だと宣告し、最後の奥の手として弁護を依頼した人権派ベテラン弁護士はテッドとジョンの素行の悪さを理由に弁護を断り、「お前らがやってきたことはジャスティン・ビーバーと同じくらい無価値なんだよ!」と切って捨てる。この人権派ベテラン弁護士を演じるのはモーガン・”フリーマン(Freeman)”。言わずもがなダブルミーニングでその狙いの深さに唸らされますが、同時にモーガン・フリーマン御大が上記の台詞を放つのが面白過ぎます。
なお、このインテリ黒人とクソバカ白人の描写にも元ネタがあります。それは本作の舞台であるマサチューセッツ州ボストンの歴史そのものです。
ボストンはマサチューセッツ州の州都で、アメリカ史の節目節目で重要な役割を果たした同国で最も歴史の古い街の1つであり、「ニューイングランド(イギリス系移民が真っ先に入植したアメリカ北東部の総称)の首都」と言われているほか、市内及び周辺地域にはハーバード大学やマサチューセッツ工科大学、バークリー音楽大学といった世界に名だたるトップクラスの教育機関があることから「アメリカのアテネ」といった異名もあります。その一方、厳格で選民思想的な性格を持つ「ピューリタン(清教徒)」が開拓した地域であることから、彼らの価値観からはみ出している者に決して容赦せず、その一方で人種・民族差別や女性差別を公然と行い、つい最近まで社会の上層の者に”のみ”快適な街作りをしてきた不寛容な地域だったという黒歴史を背負っています。
マサチューセッツ州ボストンの歴史は、1620年の「ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers:巡礼の父祖たち)」まで遡ります。
アメリカ建国の”神話”はピルグリム・ファーザーズから始まるとされていますが、実際は北米に最初の植民地を建設したのは新大陸での一攫千金を狙った投機家でした。彼らは1607年に現在のヴァージニア州に植民都市ジェームズタウンを建設しましたが、建国神話が一攫千金狙いの商人から始まるのはどうにも恰好がつかない…ということでアメリカの「建国の父」はピューリタンのピルグリム・ファーザーズということになっています。
ピューリタンとはキリスト教のプロテスタントの一派で、起源はイギリスのヘンリー8世にあります。1534年、ヘンリー8世は王妃キャサリンと離婚して愛人のアン・ブーリンとの結婚を合法化するため、離婚を禁ずるカトリック教会から離脱する宗教改革を断行…したとされていますが、実際の狙いは欧州を支配し富と権力を独占していたバチカンとローマ教皇の支配から独立し、自らの手に富と権力を取り戻したかったという政治・経済的目的の方がメインで、離婚は「ついでにできてラッキー」ぐらいな感じだったという説があります。ここら辺の事情は最近のイギリスのEU脱退と似ていて面白いなと思うのですが、彼の死後からイギリスは宗教で混乱することとなります。
ヘンリー8世の死後、エドワード6世の短い治世を挟み1553年にヘンリー8世の最初の妻キャサリンの娘で母親と同様カトリック信徒だったメアリー1世が即位しますが、即位後すぐにイギリス国教会をローマ・カトリック教会に戻し、一方でイギリス国教会に連なるプロテスタントを徹底的に弾圧しました。彼女は女性・子供含む約300人ものプロテスタントを次々と処刑したため、のちにカクテル名として定着する「 ブラッディ・メアリー (Bloody Mary) 」のあだ名で国民に陰口を叩かれるようになりました。
その一方、約800人のプロテスタントが海を渡り欧州大陸各地に亡命し、このうちスイス・ジュネーブに亡命した一団が、宗教改革の思想家ジャン・カルヴァンを始祖とする「カルヴァン主義」に強い影響を受けます。
カルヴァン主義は、神に救済される者と滅びる者はあらかじめ決められているとする「予定説」と、すべての人間は最初から罪によって堕落しているとする「全的堕落」の教理によって知られている、異端・正統問わず全キリスト教の宗派・教理の中で最も厳格なものの一つとされています。人間は皆最初から罪人なんだから、現世では真面目に勉強して真面目に働け!質素倹約に務めろ!酒や博打やセックスに溺れるなんて言語道断!とにかくちゃんとしろ!というわけです。ジャン・カルヴァンもまた迫害から逃れてジュネーブに亡命した人だったことと、厳格な教理が厳しい気候・環境のスイスに合っていたこともあり、当時はジュネーブがこのカルヴァン主義の中心地でした。
1558年、メアリー1世の後に即位したエリザベス1世は、即位後の最初の仕事としてイギリス国教会を復活させ、また表だったプロテスタントの弾圧も一応は止めたため亡命していたプロテスタントたちもイギリスに帰ってきます。彼らは亡命先で影響を受けたカルヴァン主義を以て、イギリス国教会に残る華美で虚飾的なカトリック的要素を一掃する教会改革を推進しようとしました。この頃に、彼らは清潔・潔白を表す言葉「Purity」に由来しで厳格な人、潔癖な人を指す「Puritan(ピューリタン)」という名称で呼ばれるようになります。ただこの言葉、もともとは「バカ正直な奴」という蔑称でもあったのですが。この単語の意味を訳し、日本ではピューリタンのことを「清教徒」と表記しています。
エリザベス1世の治世ではなんとか穏健に過ごせたピューリタンでしたが、1603年に彼女の後継者であるジェームズ1世が即位した頃にカトリック色を残すイギリス国教会の主教派の勢いが増し、ジェームズ1世も彼らに組し「反抗的なピューリタンを服従させてやる!さもなくば国外追放してやる!」と公言するようになりました。ここにきてピューリタンは、現状に妥協して穏便に暮らしていこうとする穏健派と、じゃあお望みどおり出てってやるよ!という急進派に分裂しました。この急進派のうちメイフラワー号に乗った一団がピルグリム・ファーザーズで、最終的に彼らは新大陸アメリカのイギリス植民地を目指すこととなります。
前述のとおりこの「メイフラワー号のピューリタン」はアメリカの建国神話となっていますが、実は乗船者全員がピューリタンというわけではありませんでし。メイフラワー号の乗船者は102名で、そのうちピューリタンだったのは半分にも満たないわずか41名。彼らは自分を「セイント(Saints:聖徒)」と呼び、それ以外を「ストレンジャーズ(Strangers:よそ者)」および「奉公人」と呼びました。このわずかなセイントのうち、さらにわずか17名の成人男性”のみ”が中心となって、ニューイングランドと呼ばれるようになるアメリカ北東部に厳格なカルヴァン主義に則った「神の街」を建設し、後に彼らは現在も政治・経済あらゆる面においてアメリカ上層部を掌握するエリート集団「WASP(White-Anglo-Saxon-Protestant)」の原型となっていきます。
前述のとおり、ピューリタンに影響を与えたカルヴァン主義には、神に救済される者と滅びる者はあらかじめ決められているとする「予定説」がありますが、メイフラワー号のピューリタンは、自分たちこそが神に選ばれた救済される者だという選民思想を持っていました。自らをセイントと呼び、自分たち以外をよそ者・奉公人と呼んで区別していたのはその顕著な現れですが、彼らはその選民思想をそのまま植民地に持ち込んで街作りを開始します。セイント身分は上陸後も維持され、指導的な役割を果たすのは常にセイントの成人男子のみ。セイント成人男子だけが選挙権を行使することができ、行政に携わることができました。こうしてセイントたちは、カルヴァン主義の教理に則った統治「神政政治」を断行し、違反者たちを厳しく罰する不寛容っぷりを発揮するようになり、やがてヒステリックな仲間割れを起こします。その最も代表的かつ有名な事例が「セイラム魔女裁判」でしょう。
それはピルグリム・ファーザーズの上陸から72年後の1692年、マサチューセッツ州の北部にあるセイラム村から始まりました。そもそも魔女裁判とは、中世のキリスト教社会で「正統」なカトリック教会が、異端者に魔女のレッテルを貼り拷問・処刑していた中世欧州の黒歴史です。それを中世を脱した1600年代末期に、欧州ではない新大陸で、それもカトリックに叛旗を翻したプロテスタントが入植した地で起こったこと自体がおかしいのですが、これもまた異なるものを許容しないピューリタンの不寛容・排他性を示す格好の例といえます。この魔女狩りの嵐はたちまちセイラム村からボストン、アンドーヴァ、グロスター、チャールズタウンといった周辺一帯に広がり、容疑者は瞬く間に200人近くに膨れ上がり、このうち19名が絞首刑で刑死し、1名が拷問中に圧死しました。
この「セイラム魔女裁判」の事の起こりは、地元の牧師サミュエル・パリスの家で、彼の娘ベティと従姉妹のアビゲイル・ウィリアムズをはじめとする少女たちが興じていた、水に卵の白身を投入してその形で将来の結婚相手を占う遊び。その最中、アビゲイルが白身の形が棺桶に見えたと突然暴れ出し、他の参加者も次々と半狂乱になり、大の大人でも押さえつけたり引きはがすのに難儀するほどだったとか。彼女らは医師によって悪魔憑きと診断されたため、ベティの父親で家の主人であるサミュエル・パリスは、自身が地域の牧師だという世間体もあって率先して事件の捜査にあたり、真っ先に家で使役していた南米先住民の奴隷ティテュバを疑い、彼女を拷問して自分が魔女であることとブードゥー教(西アフリカのベナンを起源に奴隷貿易でカリブのハイチやルイジアナ州ニューオーリンズに伝播したアミニズム的民間信仰)の妖術を使ったことを「自白」させました。
ティテュバの自白以降、占い当日に半狂乱にならなかった他の少女たちまで次々と異常行動を起こすようになり、悪魔祓いを行うも効果はなし。サミュエル・パリスは少女たちを尋問しますが、そこで彼女たちはティテュバをはじめとした村内で立場の弱かった無関係の女性たちを告発します。ここから人々の間に疑心暗鬼と焦りと恐怖が広がり、誰かに告発される前に告発してしまえ!と”告発合戦”に発展、最終的に200名近い人が告発され収監施設がパンク状態となりました。
しかし当然ながら告発された人も拷問・処刑された人も誰一人魔女ではありませんでした。告発されたのは、非白人、ピューリタンではない人、心身に病気や障害を負っていた人、貧しい人、寡婦、高齢の未婚女性、他の住民との間にトラブルを抱えていた人、そしてピューリタンの倫理規範である質素、勤勉、規律、節制から外れていると見なされた人など。つまり「セイラム魔女裁判」は魔女裁判の名を借りた手っ取り早い「厄介者の始末」だったというわけです。
ミュージシャンとしても映画監督としても活躍するマルチアーティスト、ロブ・ゾンビが2006年にリリースしたアルバムに「エデュケイテッド・ホーセズ(Educated Horses)」というのがあるのですが、
その中にこの「セイラム魔女裁判」をモチーフにした楽曲「American Witch」と「The Lords of Salem」が収録されています。
ロブ・ゾンビは幼少時よりあらゆる映画、ドラマ、アニメ、漫画、小説、音楽、その他ポップカルチャーを浴びまくってきたエリートオタクで、彼の楽曲もその多くが彼が影響を受けたであろう作品のオマージュなのですが、この2曲に関してはPVの内容も含めてストレートに歴史を取り扱っており、「セイラム魔女裁判」を知っている人ならすぐにそれと分かるようになっています。ちなみにロブ・ゾンビはマサチューセッツ州ハーヴァーヒル出身でニューヨークの名門美術大学パーソンズ・スクール・オブ・デザインで学んだ人。自分の故郷が背負う黒歴史をモチーフにし「マサチューセッツなんてインテリぶってるくせに過去に集団ヒステリーになって魔女裁判やったじゃねえか!」と”告発”する意図もあったのかもしれません。特に「American Witch」では以下の歌詞が繰り返され、ロブ・ゾンビの非難と告発の意図が垣間見えます。
「エデュケイテッド・ホーセズ」のリリースから6年後の2012年、ロブ・ゾンビは「セイラム魔女裁判」をテーマにした映画も製作しました。彼にとってよっぽど思い入れのある歴史的事件なのでしょう。
しかし「セイラム魔女裁判」でふと気になることがあります。それは「なんで北部のニューイングランドに奴隷がいるのか?」です。アメリカの奴隷制は南部で行われており、北部はそれに反対していたため南北戦争が起こったというのが一般的な認識でしょう。ところが、実はアメリカにおける奴隷の使役は北部の方が先で、北部にある程度奴隷が行き渡り、開拓・開発が進んで北部に経済力が付いた後に南部での奴隷使役が始まります。
奴隷貿易は15世紀半ばにまずはポルトガルによって始められ、16世紀~17世紀初頭にかけてはポルトガルとスペインの独占状態が続きました。この2国は北米大陸より先に南米大陸を侵略したため、最初のうちは先住民のインディオを奴隷化します。おそらく「セイラム魔女裁判」で最初に告発されたティテュバは、その時代に端を発する家政婦奴隷だったのでしょう。その後、2国はアフリカ大陸から黒人奴隷を「仕入れ」て新大陸の自国領植民地へ送る黒人奴隷貿易に手を出し、1595年に奴隷貿易の独占的請負制度「アシエント(asiento:スペイン語で「契約」の意味)」を採り入れます。これは王室が特定の個人や団体に徴税や貿易などの独占権を与える供給契約で、最初はポルトガルが独占していましたが、その後オランダ、フランスの手に渡り、1713年のユトレヒト条約で最終的にイギリスが保有するに至りました。この変遷はちょうど大航海時代の勢力推移と重なります。イギリスはイギリスで1672年に既に奴隷貿易独占会社を設立していましたが、1698年には独占を廃止し、どこのどんな船舶も10%の税金を払えばイギリス国旗を掲げて奴隷貿易に参入できるようにしました。それは現在で言うところの新興ビジネスの参入障壁を取っ払う規制緩和ですが、如何せん「商品」は人間です。しかしニューイングランドの船主や商人は速攻でこれに飛び付き、先を争うように奴隷貿易に参入しました。
ニューイングランドの奴隷商人が巧みだったのは、早期に本国イギリスと同様の三角貿易構造を確立したことです。まず欧州から銃火器、火薬、ラム酒、衣類を仕入れてアフリカで売り、その利益の中から黒人奴隷を仕入れてアメリカで彼らを売り捌き、その利益の中から砂糖、煙草、綿花を仕入れて欧州で売る…の繰り返し。なお、ニューイングランドは早期に製造業が盛んになったことから工業製品を自分達で作れるようになり、欧州からの仕入れは徐々に少なくなっていきました。また、アフリカで奴隷を仕入れた後に西インドに立ち寄ってラム酒の材料となる糖蜜を仕込む旅程も挟まれるようになったとか。つまり「セイラム魔女裁判」からわずか6年後には、ニューイングランドで普通に黒人奴隷が使役されていたということになります。
ちなみにアメリカにおける一番最初の奴隷貿易の事例はピルグリム・ファーザーズの前年の1619年。オランダ船がヴァージニア州ジェームズタウンにやってきて、20人の黒人奴隷を住民相手に売り捌いたのが始まりです。奇しくも同じ年、ヴァージニア州では植民議会の代議院が始まり、やがてそれがアメリカの代議制議会制度に発展していきます。そんなアメリカ民主主義の事始めとアメリカ初の黒人奴隷貿易の年が一緒だなんて、もはや皮肉を越えてアメリカという国家が背負う二律背反そのものを象徴しているのではないかとも思えてきます。こうして黒人奴隷の使役に手を出したアメリカは、開拓のために先住民のインディアンから土地を奪い、黒人奴隷の労働搾取によって蓄財し、その経済力でイギリス相手に独立戦争を行い勝利します。初代から5代までのアメリカ大統領のうち、第2代のジョン・アダムスを除く4人が黒人奴隷所有者で、「建国の父祖」で知られるジョージ・ワシントンもトーマス・ジェファーソンも奴隷所有者でした。そのジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言の中に以下の有名な一節がありますが、
言うまでもなく「すべての人間」に先住民のインディアンと黒人奴隷は含まれておらず、ついでに女性も含まれていません。この独立宣言に書かれた自由で平等な社会は、長らく「すべての人間」の数に入れてもらえなかった人々の不自由と不平等の上に成り立っていました。
「テッド2」の舞台であるボストンは、こうした歴史を背負った地域の「首都」と言われている街です。独立戦争前夜にはボストン虐殺事件(1770年にイギリス軍の兵士が市民に発砲して11人が被弾し5人が死亡した事件)やボストン茶会事件(1773年にイギリス本国議会の植民地政策に憤慨した急進派市民が港に停泊中の貨物船に侵入し、東インド会社の積荷である茶箱を海に投棄した事件)などの歴史的な事件が発生し、独立後ボストンはニューイングランドの製造業の中心地になると共に、多くの企業家と投資家を輩出、彼らはニューヨークの同業者と競い合いアメリカの経済を回していきます。
ボストンはイギリス東部の港町ボストン出身のピューリタンによって1630年より建設された街でしたが、建設から間もない頃から北東部の国際貿易港として発展しました。その礎となったのが、現在のアメリカ・メイン州東部とカナダ・ノバスコシア州に相当するアカディアとの交易。アカディアに入植していたのはプロテスタントと敵対するカトリック信徒のフランス系で、しかもイギリスとフランスは昔から仲が悪く戦争を重ね、当時も世界各地の植民地で衝突していましたが、ボストンのピューリタンは宗教や国益よりも地縁と実利を取ります。尤もアカディアに住んでいたフランス系カナダ人も、1755年のフレンチ・インディアン戦争でイギリス領アメリカ植民地と戦って負けたことで住処を追われ、ボストンとの蜜月は100年程度で終わってしまうのですが。ちなみにアカディアのフランス系カナダ人は、住処を追われたのち北アメリカ大陸を流れに流れ、最終的に現在のルイジアナ州に辿り着きケイジャンと呼ばれるようになり、沿岸部に美食、酒、博打、音楽、セックス、薬物、同性愛、ブードゥー教信仰なんでもアリな、ボストンとまるっきり正反対の享楽と退廃の街ニューオーリンズを築き、こちらはこちらで南部の国際貿易港として繁栄するのですが、それはまた別の機会に。
このような背景の街だったため、ボストンは黒人奴隷貿易に参入しても南部のように畑で重労働に従事させられていた奴隷は少なく、家の中での家事労働や企業・店舗・工場での労働、港湾や漁船での労働が主となりました。そうなると、人によっては日々の労働を通じて読み書きを覚えたり、専門知識やスキルを身に付けたりしてインテリ化、熟練職人化していきます。そして良心的な主人や顧客から小遣いやチップを貰えるようになる人も出てきて、更にはそれをコツコツ貯めて自分の自由を「購入」して自由黒人になる人や、良い働きに免じて奴隷から解放する主人も出てきました。またボストン市民も経済的に豊かになるに従い人道主義に目覚め、その観点から奴隷制廃止論が高まり、18世紀末にはボストンから黒人奴隷はほぼ消え、1804年までに北部の全州は奴隷制度を廃止。以後ボストンは奴隷制度廃止運動の中心地となります。
ところが面白くないのは南部で黒人奴隷を使役し大農園を営んでいた南部貴族です。自分達より早く黒人奴隷貿易に手を出していたくせに、それで経済的に豊かになったくせに、後から黒人奴隷を使うようになった南部を非人道的だと非難するなんて北部の奴ら許せねえ!となり南部諸州は合衆国から離脱しアメリカ連合国を結成、1862年にアメリカ史上最多の戦死者を出すこととなる最悪の内戦・南北戦争に突入するのですが、合衆国陸軍省は自由黒人と解放奴隷で組織される「アメリカ合衆国有色軍(United States Colored Troops:USCT)」を設立します。
アメリカ合衆国有色軍は志願制で、歩兵、騎兵、工兵、軽砲、重砲といった各種連隊が北部全域から募兵されましたが、1865年の終結時には178,000人以上からなる175個連隊が存在し北軍兵力の約一割を占めました。募兵に応じた黒人兵には白人兵より低賃金とはいえ(後にロビー活動により同額化)週払いで給料が支給され、基本的な軍事知識や戦術を教えるための無料の軍事学校も開設されました。元奴隷だった黒人兵にとって、給料をもらうことも教育を受けることもこれが初めての機会で、彼らにとって兵士になるのは市民権を得るのと同様だったことでしょう。
しかしこの時、ボストンはいきなり黒人兵のみで歩兵連隊2個と騎兵連隊1個を組織します。当時の兵科の中で最も技術力が必要で、そのため「エリート」しかなれなかったのは騎兵です。銃や大砲は道具だから、使い方さえ訓練で覚えれば弾が当たる当たらないは別として一応誰でも撃てるようになるし、それまで個人で持つ機会がなくても軍隊に入隊すれば軍から支給されます。しかし生き物である「馬」に上手に乗れて、しかも乗った状態で戦えるようになるには長年の訓練が必要で、かつ常日ごろから馬に乗れる人には、自分で馬を飼ったり定期的に牧場へ行って乗馬訓練するだけの経済力が求められます。それなのに黒人兵だけで騎兵連隊1個を組織できたということは、それだけボストンには馬を操るスキルを身に付けたエリート黒人がいたということ。一方、南部では自由身分であっても黒人が馬に乗るのは基本的には禁止で、馬車の御者すら少数だったそうです。
このアメリカ合衆国有色軍の設立前夜を描いた映画に、1989年公開の「グローリー」があります。
本作の舞台もまたボストンで、幼い頃から白人と一緒に育てられたため彼らと同等の教養を身に付けているインテリ黒人や、農園から逃亡してきた逃亡奴隷、訓練によって射撃能力が開花する兵士、経験と能力が評価され曹長に昇進する兵士(モーガン・フリーマン)など様々な黒人兵が描かれます。また、北軍を描いた映画なのに彼らが略奪行為を行っていたという戦争犯罪の事実を描いていたのも画期的でした。この作品で若かりし頃のデンゼル・ワシントンがアカデミー助演男優賞を受賞しています。
1865年に南北戦争終結後、マサチューセッツ州議会は数度にわたり公民権法 を制定・改正し、その結果マサチューセッツ州内の黒人は法の上では白人と同等の諸権利を得られるようになりました。白人が行くような店に行けるし、ハーバードなど大学にも行ける、劇場や博物館にも入れる…はずでしたが、現実は違いました。確かに法律では諸権利が認められても、現実世界では黒人は「二級市民」扱いされ、店に入ろうとすれば入店拒否される、学校に行ったら白人にいじめられる、劇場の桟敷席のチケットを買っても一番安い端っこの席に座らせられるなどなど。この時、現状に幻滅したマサチューセッツ州の黒人の一部は、アメリカのど真ん中にあるカンザス州に黒人の理想郷を建設し自営農家として独立することを目指し移住していきました。カンザス州は南北戦争以前より奴隷制に反対する北部出身の移住者とカンザスを奴隷州にしたい南部出身の移住者が衝突し、暴力沙汰も起こったため「血を流すカンザス(Bleeding Kansas)」と呼ばれていましたが、最終的には北部の移住者が勝ったため「自力で人種差別に打ち克った」黒人の希望の地と見なされていました。
その一方、マサチューセッツ州に残った黒人たちは団結して踏ん張り、何度も集会やロビー活動を続けて黒人差別をした店舗や施設への罰則規定を法に盛り込むなど現行法の補強を求め、法の上でも現実世界でも差別がなくなるよう戦い続け、少しずつそれを実現していきます。ところが、その傍ら彼らが生み出したのは能力主義と自己責任論に立脚した「新たな差別」でした。前述のとおり、アメリカはイギリス植民地が出発点にあったので、建国当初より国の社会システムもイギリス的性格を持っていました。それは「階級社会」です。
アメリカの社会構造は、後からやってきた移民が社会ヒエラルキーの一番下層に置かれるようになっており、先に来ている集団ほど押し上げられ上層に登る構造のため、初期に来たイギリス系移民はずっと有利な立場を享受していました。アメリカの支配層は基本的にWASPであることも既に書きましたが、彼らの植民地時代の祖先は「コロニアル・ストック(Colonial stock:植民地時代からの血統)」と呼ばれ、他の移民と区別されています。WASPは歴史的に政治家、弁護士、医者、学者、経営者といったエリート職に就きアメリカの支配層として君臨してきました。独立宣言にも自由と平等を盛り込んだアメリカでしたが、それは旧世界の欧州の身分制度を踏襲しなかっただけで、結局新大陸で新たな身分制度を作り出してしまい、むしろ見えにくい階層社会を形成したといえます。それを端的に表した言葉が「ボストン・ブルーブラッド」です。ブルーブラッド(青い血)とは、昔は高貴な身分の者には青い血が流れていると信じられていたことから、欧州の王侯貴族など高貴な血を示す言葉。つまりボストン・ブルーブラッドとは、ニューイングランドの、とりわけボストン出身・在住の王侯貴族にも等しい特権階級のエリートを指す言葉です。かつてピルグリム・ファーザーズがカルヴァン主義の教理を基に自らのことをセイントと呼んでいたように、ボストンのエリートも自らをボストン・ブルーブラッド(高貴な血)と呼びました。ただし宗教ではなく能力主義と自己責任論を基に。
南北戦争後に一応自由になったボストンの黒人は、積極的に白人側に同化するように務め、WASPが占めている職業に就くことを目指して猛勉強し、激務に励んで蓄財し、高級住宅街のアップタウンに住み、WASPが行くような演奏会や展覧会に行き教養を高め、WASPと交流しボストン・ブルーブラッドに入り込もうとしました。大学に行けるようになったんだから勉強してハーバードでも何でも行く!試験も受ける!結果南北戦争終結後の短期間に黒人の政治家や弁護士、医者、学者、経営者が激増。特に南北戦争に従軍し生還した元軍人は、退役軍人会のコネクションを通じて法執行官などの公職に比較的容易に就くことができました。そして政治や公職 、ビジネス、専門職 の分野で白人との接触を強めながら社会上昇を遂げ、名実ともにインテリ化、エリート化した黒人が次に行ったのは、自らのアメリカ人としての正統性を確立するための差別でした。その標的になったのがアイルランド系移民です。
アメリカに来るアイルランド人の移民が急増したのは、ちょうど前述の「ドレッド・スコット対サンフォード事件」の事案があった頃の1840年代。その理由は1845年~1849年に欧州全域で発生した「ジャガイモ飢饉」でした。
ジャガイモ飢饉とは、当時アイルランドの主食だったジャガイモに疫病が発生し枯死したことで起こった大飢饉のこと。欧州の他の地域では領主が積極的に救済活動を行ったため餓死者を出すには至りませんでしたが、アイルランドを治めていたイギリス人の領主は自らの収入が減るのを心配するあまり、領地に餓死者が出ているにもかかわらず食料の輸出を続けたうえに配給も出し渋り食糧難に拍車をかけました。
アイルランド系移民は、アフリカからさらわれてきた黒人奴隷や、甘言に騙されたり借金のカタに半強制的に連れてこられた後述する清国の苦力のような「不自由移民」ではなく、自らの意思でアメリカに移住した「自由移民」とされます。しかし「もうこれを選択しないと死ぬ」という状況に追い込まれての選択に自由意志なんてあるでしょうか。こうして「餓死よりはマシ」とアメリカに移住したアイルランド系移民は、もともとイギリス人の領主に搾取されまくっていた貧農だったため、教育を受けた者はほとんどおらず読み書きもおぼつかない、当然職人でも熟練工でもない、農民になろうにも着の身着のままで来たから西部開拓に向かう用意もできない…ということで都市の最底辺に落ち着きました。
アイルランドの農村は、親類縁者や友人との強い連携のもと家々を一ヵ所に密集させ、中心にカトリックの教会を置き、何かと祭事を行うことで村の絆を強めるという日本の農村集落によく似た構造です。アイルランド系移民はそれを都市の最底辺で再現しようとし、やがてそれが「ゲットー」となっていきますが、それまで自然豊かな農村で暮らしていた第一世代のアイルランド系移民は都市の「使い方」が分からず、ゲットーを最も不衛生な生活空間にしてしまいます。下水道はおろか上水道もない。自然の中だったら土に還る生活ゴミも汚水も溜まるに任せ、ひとたび感染症が流行すれば一番大きな被害を出すのがアイリッシュゲットーでした。
知識も技術もないアイルランド系移民は、土木建築の現場、港湾の荷役と雑用、荷物の配送、工場での単純作業、ゴミ収集、掃除人、メイドと、ちょうど黒人がエリート化して空いた穴を埋めるように最下層の仕事に就くしかなく低賃金にあえぎました。するとそのストレスから家族に暴力を振るったり、家族を捨てて蒸発したり、僅かな稼ぎを酒と博打と女と薬物で溶かしたり、身を持ち崩してギャングになる者も出てきましたが、学がないのでギャング団に入ってもアイルランド人にできるのはみかじめ料の集金や鉄砲玉といった末端の仕事くらい。2019年に公開された映画「アイリッシュマン」は同名のノンフィクション作品を原作とする映画ですが、やはりこうした歴史が背景にあるのだと思います。
この、学がない、粗暴、酒飲み、すぐ博打と女と薬物に手を出すといった特長は、やがてアイルランド系、とりわけアイリッシュ男性のステレオタイプとして定着していきます。そしてそんなアイルランド系移民を旧ボストン・ブルーブラッドのWASPと、南北戦争後に社会上昇を果たした新ボストン・ブルーブラッドのエリート黒人は徹底的に蔑み、また酷使しました。特にエリート黒人の間では、敢えて白人を家の使用人として使役することがステイタスになっていたので、彼らの家の雑役婦(夫)は大抵アイルランド系でした。おそらくエリート黒人たちはこう思っていたはずです。「俺らの先祖はいきなり誘拐されて言葉も習慣も違う国で差別されながらタダ働きさせられて、それでも生き延びて俺らは今こうして自分の努力で成り上がったのに、お前らは肌も白くて英語も喋れて生活習慣もだいたい同じなのに一体何やってんだ?なんでもっと努力しねえんだよ!酒飲んだり女買ったり博打してる場合じゃねえだろ!そんな暇あったらちょっとは勉強しろよ!おまけに住んでるところは汚ねーし!お前らに比べたら俺らの方がよっぽど立派なアメリカ人だわ!」と。なお、アイルランド系移民と同じ頃に、阿片戦争で疲弊した清国から年季奉公人として苦力が連れてこられたのを皮切りにアジア人移民が増え、アイルランド系は自分たちより下の階層であるとして彼らを差別し、仕事を奪われる恐怖感から敵対意識を持つようになりますが、アジア人は元黒人奴隷以上に爆速で社会上昇を果たしてエリート化し、アイルランド系は完全に社会階層の下層において行かれてしまいます。そしてアジア人もまた「アイルランド系ってなんで白人で英語喋れるのにド底辺なの?バカなの?死ぬの?」と蔑むのでした。
ただ、もちろんアイルランド系全員がド底辺だったわけではありません。前述のように彼らは親類縁者や友人との絆が強かったのでお互いを支え合って生き延び、激務で命の危険があるものの、なってしまえばとりあえず公務員の肩書が手に入り、何より地域の人に尊敬される職業として、まずは警察官、消防士、軍人になり、それを足掛かりに徐々に地方議員や首長などの要職に就いていきました。元からの特権階級のWASPは社会的上昇を果たしたアイルランド系を彼らの祝日「聖パトリックの祝日(セント・パトリックス・デー)」にちなみ「グリーン・ブラッド(偽貴族)」と言って嘲笑しましたが、やがてそんなグリーン・ブラッドの中から最も成功したアイルランド系政治一族のケネディ家が出現します。
こうしてボストンは、様々な人種・民族が入り乱れるに従い、差別問題はあるにせよ一旦それらは置いておき、純粋にエリート&インテリか、またはそれ以外かで社会階層が分かれるようになっていきます。20世紀後半には、住宅地を再開発して高級化すると共にそこから低所得者を排除する「ジェントリフィケーション」を推し進め、その結果家賃と地価が急上昇。しかしそのおかげで現在のボストンはアメリカ国内でも最も安全な都市の一つとされています。
テッド達=アイルランド系のメタファー説
こうしたマサチューセッツ州ボストンの歴史を振り返ると、テッド、ジョン、タミ・リン、サマンサの4人はアイルランド系のメタファーではないかと思えてきます。劇中に彼らの先祖のアイデンティティを示すものは何も出てきません。だいたいテッドはぬいぐるみだし。しかし1作目からの彼らのキャラ演出と俳優の演技を見ると、どうもそうとしか思えないのです。
アイルランド人の気質を表す言葉に「Gift of Gab」と「One for the road」があります。「Gift of Gab」は「弁舌の才」「口達者」を意味する慣用句で、アイルランド人は人懐こくてよく喋る奴らだということを示しており、また「One for the road」は「帰り道にもう一杯」という意味で、それくらいアイルランド人は常に酒を飲んでいる呑んべえだということ。これらを鑑みると、テッドとジョンは勤労意欲も向学心もなく、酒を飲みまくり、ついでにマリファナも吸い、20数年も一緒に暮らしているというのに常にくだらないことを喋り続け、取っ組み合いの喧嘩をし、テッドに至っては1作目で部屋に娼婦を呼んで王様ゲームをやる始末。やっていないのは博打ぐらいですが、もしかしたらその代わりのオタク趣味なのかもしれません。また若い頃に薬物に手を出し、やはり教養がなく下品なことしか喋れず、アメリカでは最底辺の仕事とされるスーパーのレジ係に甘んじているタミ・リンや、禁断症状が出るくらいマリファナを吸いまくっているサマンサも同様にアイルランド人のステレオタイプを踏襲しているといえます。
彼らがアイルランド系のメタファーだとすると、彼らと対峙したインテリ黒人がみんな塩対応だったことにも納得できます。つまり彼らはマサチューセッツ州ボストンで社会上昇を果たした新ボストン・ブルーブラッドのエリート黒人と、社会階層の下層において行かれたアイルランド系をそのまま象徴するキャラだったのでしょう。モーガン・フリーマン演じる人権派ベテラン弁護士が言う「お前らみたいなクソバカを誰が助けるか!」(要約)という台詞も、鑑賞者の気持ちを代弁すると共に19世紀末のエリート黒人がアイルランド系に対し抱いていただろう心情を表現していたのかもしれません。
キャラに特定の地域を象徴させるという手法は映画に限らず様々な作品で頻繁に使われます。先述の「トランスフォーマー/ロストエイジ」のケイドもまさにそうで、彼は典型的なレッドネック(アメリカ南部の田吾作)からなんとか脱却してTechやスタートアップ方面に明るい進んだ地域になることを目指す現在のテキサス州を象徴するようなキャラでした。この「テッド2」は、1作目から続く「ボストンのクソバカ」というキャラ設定はそのままに脇役をさらに作り込むことで、その地域の歴史を振り返ると共に今後の課題すらも提示する多重構造なストーリー作りに成功しています。
人間の条件とは何か?
劇中のテッドの人権裁判に於いて、議論を続けるうちに「こいつを人間と同等と見なす条件は何か?」が争点となってきます。見た目はぬいぐるみだから生物学的には人間ではない、では「人間」の条件とは?そこで「『Soul(魂)』の存在のあるなし」ではないかと条件が提示されますが、実はこれもまたアメリカの奴隷制に絡んだネタだったりします。
南部で黒人奴隷を使役していた奴隷主は当時本気で「黒人奴隷には魂がない」と信じていました。奴隷主はプロテスタント・カトリック問わずキリスト教徒でしたが、キリスト教徒にとっての人間の条件は「全知全能の神から人間としての魂を与えられているかどうか」です。もし黒人奴隷が魂を持っているなら彼らは人間ということになり、同じ人間を使役し搾取している自分達は死後天国に行けないことになってしまいます。そこで奴隷主たちは、黒人奴隷は動植物や虫と同様に人間の魂なんて持っていないから人間ではなく、従って彼らを使役し搾取してもそれは家畜を使うのと同様だから罪ではないと考えました。ある意味非常に論理的ではありますが、やはり無理があるし理不尽です。だから奴隷主は黒人奴隷に教育を与えることはせず、むしろ読み書きすることを禁じました。万が一彼らが読み書きを覚えたら聖書も読めるようになり、その理不尽に気付いてしまうかもしれないからです。
それから時が経ち1950年後半、ブルースと黒人教会で唄われていたゴスペルが混ざった新たな音楽が生まれ、後に「ソウル」と呼ばれるようになります。もちろん語源は「魂」で、その源流になったブルースとゴスペルも、奴隷市場があったことから黒人奴隷貿易の中心地だった前述のルイジアナ州ニューオーリンズで使役されていた黒人奴隷の労働歌や彼らが信仰していたブードゥー教の儀式の太鼓のリズム、周辺に住んでいたインディアンの民族音楽、奴隷主のケイジャンが祖国フランスから持ち込んだ西洋音楽すべてが混ざって生まれたことに由来します。劇中の裁判シーンで「お前にソウル(魂)はあるか?」と聞かれたテッドが「あるよ」と応えて音楽のソウルを歌い出し一瞬黒人の裁判官と意気投合するギャグシーンがありますが、以上の歴史を踏まえて見るとそれはギャグシーンではなく、むしろとんでもなく重い意味を含んだシーンだったことが分かります。
そして裁判は進み、魂の存在の根拠は「誰かを愛することができるかどうか」であろうということになりますが、テッドの人格の”入れ物”となったぬいぐるみの開発・販売元のハズブロの社員が参考人として呼ばれ、「お腹を押すと『I Love You!』と音声が再生されるようプログラミングしました」と答弁。これが決め手になり、テッドが誰かを愛していると思っているのはハズブロ社員がプログラミングした単なる「機能」であり、魂の存在の根拠にはならないとされてしまいます。つまり、全知全能の神から人間としての魂を与えられていれば人間だが、人間の手によって作られたものは「物」であるというわけです。テッドにとっては大変なアイデンティティ・クライシスで、これはもはやキリスト教の教義を越えて実存主義哲学の領域です。
なお、この「魂の存在」についても先述の「トランスフォーマー/ロストエイジ」の冒頭で触れられています。オプティマス・プライムからトランスフォーマーの生命の源「Spark(スパーク)」の話を聞いてケイドが瞬時に人間の「Soul(魂)」に相当するものだと理解したのがまさにそれ。トランスフォーマーをただの機械だと考える悪徳軍事企業によって軍医ラチェットは殺されて分解されますが、「テッド2」で提示されたように魂の存在の根拠が「誰かを愛することができるかどうか」であるならば、ケイドと友情を築きラチェットの死を悼むオプティマス・プライムや、彼と疑似親子のようになっているバンブルビー、戦友のような悪友のような関係のハウンド、ドリフト、クロスヘアーズの様子から、トランスフォーマーは十分人間と同等の知的生命体であると判断できます。
ボストンでは禁止
法廷で魂の存在を否定されたテッドは、さぞアイデンティティ・クライシスに陥り苦悩するかと思いきや、まったくそんなことはなく徹頭徹尾クソバカに徹します。もはや鋼の意思と誇りを持ってクソバカであり続けているのかと思うほど。そこでふと思い浮かんだのは、19世紀末から20世紀中頃までボストンおよびエンターテイメント業界で使用されていた慣用句「ボストンでは禁止(Banned in Boston)」です。
「ボストンでは禁止」とは、古典を含む執筆物、楽曲、図画、演劇、映像といったあらゆる作品において、ボストン当局が不適切と判断したものの演奏・頒布・公開を禁じたことを表現する慣用句。この時期、ボストン当局は「いかがわしい」内容の作品を禁止する広範な権限を有していました。もともとボストンは厳格なピューリタンが建設した街だったことと、時代を経るにつれエリート&インテリが街の上層を形成してきた背景から、コンテンツ産業にまで彼らに相応しい道徳的なものであることが求められ、上流階級に資金を提供された検閲組織が80年以上にわたりあらゆる作品を検閲し、劇場への立ち入り調査や賭博場と売春宿の摘発、客の逮捕を行いました。主に「ボストンでは禁止」されたものは、猥褻なもの、下品な言葉を使うもの、残酷・暴力的なもの、薬物使用が出てくるもの、その他過激と思われるものなど。しかしその基準は不可解かつ理不尽で、ボッカッチョの「デカメロン」といった古典の名作や、ヘミングウェイ、ホイットマン、フォークナーといったアメリカの文豪まで「ボストンでは禁止」されました。その検閲方針があまりに厳格だったため、逆に流通業者は「『ボストンでは禁止』で上等!むしろそれが刺激的で面白い作品だと示すラベルみたいなもんだ!」と思うようになり、実際に「ボストンで禁止」になった時はPR材料になると喜ぶようになったそうです。ここら辺はCDの「ペアレンタル・アドバイザリー」ラベルを彷彿とさせます。
これを踏まえると、「テッド」シリーズは21世紀の現代において積極的に「ボストンでは禁止」を攻めまくった映画ではないかと思えてきます。もうこのUS版予告だけで「ボストンでは禁止」をフルコンプしている状態ですから。
ちなみにアイルランド人のステレオタイプには、危険なことに敢えて挑んでいく勇敢さと権威に対する反抗心に満ち溢れているというのもあるのですが、テッド達がアイルランド系のメタファーだとするなら、法廷で魂の存在を否定されてもなお悩むことなくクソバカであり続けるテッドたちの姿はドンピシャだといえます。こうなるともはや彼らにとって何があろうともクソバカであり続けることこそがアイデンティティみたいなものです。
クソバカを助けるべきか否か?=放蕩息子の帰還
しかしその一方、テッド達が露悪的なほどクソバカ過ぎて、見ているとだんだんと「どうして努力もしない無学で下品なクソバカを助けなければならないのか?こんなクズを助ける必要なんてあるのか?時間と金の無駄じゃないのか?もっと他に助けるに値する人達がいるだろうに…」という思いが強くなっていきます。これは現実世界でもよくあることで、実は私自身しょっちゅう思っています。特につい最近まで行政関係の仕事をしていたので、毎日仕事中に「なぜこの程度の文章を読んで理解できないんだ?なぜこの程度の短文を書くことができないんだ?なぜこの程度の字を読み書きできないんだ?なぜこの程度のことも知らないんだ?なぜこの程度のこともできないんだ?こいつは中学高校と一体何をやってきたんだ?死にもの狂いで勉強してこなかったのか?」「こんなバカを税金で助ける価値があるのか?こんな奴らに数万~数十万円をくれてやって経済効果がどれほどあるのか?こんなバカに金をくれてやるくらいなら私にくれよ!もっと有効活用してやるから!」と思っていました。
そこでまたふと思い浮んだのは、新約聖書ルカ福音書にある「放蕩息子の帰還」のたとえ話です。
これはイエス・キリストが弟子に語った神の憐れみ深さを示すたとえ話とされています。内容は以下の通り。
あるところに2人の兄弟がいました。兄は父親と共に真面目に働いていましたが、弟は父親が健在なうちに財産の半分を要求した挙句、はるか遠くの外国に旅立ち、そこで放蕩の限り尽くして散財し瞬く間に身を持ち崩して無一文となってしまいました。そこで彼は実家に帰ることを決心し、帰ったら父に「もう自分は息子と呼ばれる資格はないから、どうか使用人の一人として家に置いて下さい」と謝罪しようと心に決めていました。ところが父親は帰ってきた息子を見た途端に駆け寄って抱き寄せ、彼が無事に帰ってきたことを祝う盛大なパーティを開きました。それを見た兄は「私はずっと真面目に働いて家を支えてきたのに、今まで好き放題に遊び惚けて財産を使い果たし落ちぶれた弟をなぜ許して帰還を喜ぶのですか」と父親に不満をぶつけ、弟を軽蔑しました。しかし、父親は兄をたしなめて言いました。「お前はいつも私と一緒にいて、いずれ私のものは全部お前のものになる。だが、お前の弟は死んだと思っていたのに生き返って戻ってきた。いなくなっていたのに見つかった。それを喜ぶのは当然のことだ。」と。
これは聖書に登場するたとえ話の中でも最も有名なものの1つで、多くの画家が題材として取り上げ、15~16世紀のイギリス演劇ではサブジャンルの1つにもなり、シェイクスピアも「ヴェニスの商人」「お気に召すまま」「冬物語」でネタにしています。また英訳版の文中にある「Lost and Found(いなくなっていたのに見つかった)」は特に有名で、これもまた様々な著作物や楽曲の歌詞、慣用句に引用され、今では「遺失物取扱所」の意味で使われています。
このたとえ話、およびこの「Lost and Found」のフレーズは「無条件の神の愛によって救われる罪深き者」という救済のメタファーとなっていますが、早い話が「どんな人間だろうが困って助けを求めているなら助けてあげなければならない」ということのたとえです。この「テッド2」に当てはめるなら、どんなに苦境に陥っても懲りずにクソバカであり続けるテッドたちが放蕩息子で、彼らに塩対応するインテリ黒人たちが兄です。また、マサチューセッツ州ボストンの歴史に当てはめるなら、ピューリタンのセイントやWASP、ボストン・ブルーブラッドが兄で、それ以外の下層の者とされたのが放蕩息子に相当するといえます。しかし、彼らが本当に聖書に忠実に生きる厳格なピューリタンだったなら、そもそも自分達をエリートだと特別視せずに、イエス・キリストが語った「放蕩息子の帰還」のたとえ話に倣って自分達以外の者に手を差し伸べるべきだったでしょう。街作りに女性やピューリタン以外の者を参加させるべきだったし、厄介者とされた女性たちを魔女裁判にかけるべきではなかったし、黒人奴隷貿易に手を出すべきではなかったし、アイルランド系移民を差別するべきではなかったし、ジェントリフィケーションで低所得者を排除するべきではなかった。この「放蕩息子の帰還」のたとえ話に照らすと、マサチューセッツ州ボストンの歴史はずっと欺瞞だらけだったことが分かります。
とはいえ、似たような話なら日本にもいくらでもあります。なんで元不良が更生して大学入って先生になったら殊更褒められるんだ!最初から真面目に勉強していた奴の方がよっぽど立派だろう、なんで生活保護受けてる奴がパチンコやったり酒飲んだり煙草吸ったりしてるんだ!普通に生活必需品にだけ金使えよ、なんでコロナ禍緊急経済対策で水商売や風俗を支援するんだ!まず普通の店や企業に金を回せよetc… しかし、「放蕩息子の帰還」のたとえ話に照らせば、どんな人間でも困っていて助けを求めているならば、行政であれ民間であれ可能な限り助けてあげなければならないのが人の道というもの。まさに「人道主義」です。甚だ理不尽ではあるが、たとえその人が努力も勉強もしないクソバカであろうともです。ちなみに日本にもこれを言い表すことわざと浄土真宗の宗祖・親鸞の名言があります。それは「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」と「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる)です。
なお、先程マサチューセッツ州ボストンの歴史はずっと欺瞞だらけと書きましたが、一瞬だけだけそうでなかった時期があります。それは18世紀中頃~19世紀前半、経済的に豊かになったボストン市民が人道主義に目覚め、その観点から奴隷制廃止論を展開し、ボストンが奴隷制度廃止運動の中心地となった時代です。そしてテッドの人権裁判も、まさにこの一瞬の隙を突くように「奴隷制廃止論」を弁護の突破口にしていくのです。
本作がどういうラストを迎えるのかはネタバレになるので敢えて書きませんが、もしかしたらそれを見て「なんでこんなクソバカ共が幸せそうにしてるんだ、というかこいつらこの先大丈夫かよ」と釈然としない、モヤモヤ、イライラした気分になるかもしれません。しかしおそらくセス・マクファーレン監督はそれも計算ずくでそういう演出にしたのだと思います。助けるに値しなさそうなどうしようもないクソバカすらも救済されるのが真の人道主義だと示すために。
ところで本作は、前作と同様にオタクなネタもてんこ盛りで、「トランスフォーマー/ロストエイジ」以外のあらゆる作品にオマージュが捧げられています。第一ラストシーンがニューヨーク・コミコンなのでオタクネタなんて出し放題。それらを探しながら見るのも一興です。
もしニューイングランドの歴史に興味が湧いてきたら以下の本がオススメです。文中に貼った本も含めだいたいどれも学校や街の図書館に収蔵されていそうな本ばかりなので、買うより借りた方が手っ取り早いかと思います。