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呪いの言葉
小学校は、呪いの言葉であふれている。
0歳から森のようちえん的見守る子育て(主体性を大切に・自分を好きであることを大切に)で育ってきた小1次男のとある一言から考えたことをつづります。
次男の口から出た衝撃的な一言
昨夜は、家族でお好み焼きを食べに。
家のお米が尽きてしまったから。
夫も私も小6長男も食べ終わり、残すは小1次男のあと一口!
その前からかなりキツそうだったので、「どうする?まだ食べる?パパにあげる?」と尋ねたところ、次男の口から驚きの一言。
「…食べる。
全部食べたらかっこいいけん」
子育てにおいて、私や夫が使ったことない言葉。
思わず私の口から漏れ出たのは、
「お、おぅ、学校の呪いにかかっとるなぁ…」
でした。
夫も苦笑。
呪いのパワーワード
「◯◯したら~になれる」
「◯◯したら~できる」
っていう言葉って、
すごいパワーの呪いワードだと思うんですよ。
その裏に、
「◯◯しないと~になれない」
「◯◯しないと~できない」
がセットで隠されているから。
もちろん、例えば森のようちえんの場で
「必要な時に大人の言葉が聞こえないと安全が守れないよ」
と言うこともあります。
興奮状態がおさまらなかったり、大人の言葉に耳を傾ける姿勢がなかなか見られないときには危険のリスクが高まるので、「このまま(興奮して落ち着いて話を聞けない状態)では森に連れていけない」と伝えることもある。
他の場でも、
「◯◯しないと~することはできない」というような客観的事実に基づく条件のようなものがある場合もありますよね。
でも、「全部食べたらかっこいい(全部食べないとかっこよくない)」は違わないか?
それって大人の都合で子どもをコントロールしたいがための言葉なんじゃない??
「かっこよくなりたい」
「かっこいい自分でいたい」
そんな子どもの素直な願い・想いをうまく利用して、大人の都合のいいように子どもを動かそうとしている言葉なんじゃないか。
その子はもともと素晴らしい
そもそも、全部食べる・全部食べないというような条件に関係なく、その子はもともと素晴らしい!!
「全部食べたらかっこいい・全部食べなかったらかっこよくない」という言葉は、そもそもの「その子はもともと素晴らしい」…何があってもなくてもただ人として素敵な存在であるってことを最初から否定している言葉なんじゃないか。
お腹の調子とかその子自身の都合とかでごはんが食べきれない時だってある。
大人が予想して準備した量のごはんとその子のお腹の空き具合がマッチしないってことも、当たり前にあるはずですよね。
それでも、そのとき、この呪いの言葉を真に受けてしまった子どもが思うことは、「全部食べられない自分はかっこわるい」。
人生の中で往々にしてある「ごはんが食べきれない」場面。
そのたびに少しずつ自分のかっこよさのゲージ(自己評価)が下がっていく。
本来、ごはんが全部食べられるかどうかはその人の評価とは全く関係のないものなのに。
こんな不幸ってありますか。
教育の中で本当に子どもに伝えていくべき本質は、人は等しく素晴らしいことなんじゃないでしょうか。
養ってくれる人・上下関係のある人からの呪いの意味
もしわかりづらいようなら、大人の私たち自身に置き換えてみたら分かりやすい。
例えば、自分より体も胃袋の大きさも運動量も上回ってる人が、その人基準の食事を毎食用意して「これだけ食べろ」と提供してきたら。いつ何どきも食べきれますか?
これだけの量をちゃんと食べないと元気じゃなくなるよーとか、病気になるよーとか、かっこよくないぞーとか。
それを言ってくる相手が、自分を養ってくれる人だったり、上下関係のある人だったりしたら。
その人の言うことを聞かないと自分の存在や生存が脅かされてしまうような、そんな相手だったりしたら?
私だったら、めちゃくちゃ怖い。
とんでもなくプレッシャーです。
言うことを聞かないとここにはいられない・ここでは認めてもらえないって思うことって、
めっちゃめちゃ怖くないですか。
身の回りにあふれる呪いの言葉
「◯◯したら~になれる」
「◯◯したら~できる」
「◯◯しないと~になれない」
「◯◯しないと~できない」
って、多分、私たちが育てられてきた時、親や先生たち、社会から数限りなくこんな視線を向けられて、こんな言葉をかけられてきましたね。
親になった今だって、
「◯◯したらいい親になれる」
「◯◯しないといい親じゃない」
っていうプレッシャーが私たちに知らず知らずのうちにのしかかっている。
でもその呪いの言葉を聞き続けて、浴びせられ続けて、私たちは幸せになってきたのでしょうか?
「そうできない自分はダメな人間だ」
「期待に応えられない人間は価値がない」
「何かができるようにならないと人から評価されない」
そんな風に思い込まされてきてないかな?
もういい加減、その人がその人の持っている力を好きなときに好きなかたちで発揮できる環境、
安心して存在できたり、安心して学びに向かえる環境を、子どもを取り巻く大人たちが整えることを当たり前の共通認識にしていけないかなぁ?
お腹は満腹にはなったけれど、なんか宿題をもらったような、そんなお好み焼き屋の夜でした。