排他と排除といじめが肯定されるわけ

私はちゃんといじめられたことがない。
すり抜けたことはある。

差別は受けたことがある。
海外での人種差別だ。

日本ではない。

しかし、今日はじめて
これって、、?と思った。

社会人になると、世界が広がり
学校生活に比べるといじめから逃れやすい。

ありがたいことに
長らくそのような現場も目にしなかった。

しかし、地域おこしとして地方にきて、
仕事がなくなり、


初めてその"はしり"を感じた。

今日は年度末の最終報告会。

クビにされたのに何を報告しろと?
クビになっても地域に残る、それだけでも
今しんどいのにそれを上に向けて発表しろと?

これ以上辛い目に合わせる気?
そんなスタンスから

さまざまな方の助けがあって
今日の出席ができた。
多くの人が話を聞いてくれたおかげで
プレゼンの内容も自身の反省と次の展望、感謝を伝えられる
ものになった。


しかし、誰一人として
拍手も
感想も
なく

誰かに話しかけても少し警戒される始末。


まるで
"自分には関わってこないで"
"仲良く思われたくない"

そんな声が聞こえる気がした。

自信を無くしている時
不安な時は孤独を感じ、自身に否定的になるものだけれど


地域おこしの人"だから"仲良くする
地域おこしの人"だから"繋がっておきたい

ここは自分のメリットデメリットで人を判断する世界なんだと
そして今自分は排除される側なんだと
そう思ったらなんとも悔しい気持ちになる。

孤独
自己否定
憎しみ妬み嫉み
虚無感
悲しみ
哀れさ
惨めさ

そんなものを感じながら
過去に同じようなことをしたことがある
自分を憎く感じる。

思い浮かぶのは
慰安婦問題や白人主義のアパルトヘイト。

価値観が違っただけ
やりたいことが違っただけ
下の立場だっただけ
それだけでどうしてこんな思いをしないといけないのか。


誰かの都合で誰かが排除される世の中は
本当に皆が住みたい場所なのか。

人間を含む世界中の生物が平等な権利を持つと考えた時
現代のような
一種の生物よって減らされる他種の命は、
他種のために生け贄になる命は
生きたいと言ってはいけないのか。

増やされる生物の命は
過酷な環境への適応の困難さに音をあげてはいけないのか。

どうして人間が管理しないといけない?
人間が世界を管理できなかった証拠として
地球温暖化や多様な問題が生まれているのではないのか。

まだ続けるのか。

絶滅危惧種のための外来種の駆除
増えすぎた生物の大量排除。


ではどうして人間は減らさないのか。
結局納得できない疑問が残る。


でもこれは全て自己投影的な考えである。

マイノリティ寄りである自分は
進化の効率やなんやらの観点で言えば排除されやすい。

だから、自分にとって排他や排除やいじめによる死。
そしてそれに対する無反応や肯定は、自分も死ぬべき命だと言われているようで悲しい。

だからこんな価値観を持つようになったのだと思う。


社会的圧力や。
見て見ぬふり。
当事者意識を捨てる行為。


これらは生贄制度を助長するのではないのか?


お金を稼ぐということは
誰かから価値を奪うということ。

お金を根源とする社会のあり方につかれた。

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