「いてさえくれたら」
祖父を見送って半年もたたぬ6月30日。
お昼すぎに祖母が亡くなったことを知った。
反射的に涙が溢れ、言葉にもならない想いを紡ぎながら母に電話をし、「どこでどんな最期だったのか、何が理由だったのか」と矢継ぎ早に質問をしても「まだわからない」の一言。その返事は葬儀の日程がこれから決まることなどが記されていたLINEだったので、本当に逝ってしまったことを実感する他なかった。
何を隠そうおじいちゃんおばあちゃんっ子の私。
そんな私が記す、祖母のおはなし。
世界一かわいい人
祖母はとにかく「かわいい」おばあちゃんだった。
どこへいくにもオシャレをして、元気なうちはメイクしてチークもしっかり塗ってお出かけするような、そんな人だった。
私たち孫が遊びにいくと帰りに必ず手土産を持たせてくれ、それこそが祖母の「どこまでも与える人だったこと」を物語っているように思う。
本当に私たち一人一人を"尊重"して応援してくれ、いつでもどんな境遇でもご機嫌で、人一倍惜しみない愛情をくれた。私たち孫を批判することや怒ることなど一度もなく、どんな時も絶対的な味方でそこに居続けてくれ、「いい子だねぇ」と大人になっても言ってくれた。
それがどれだけ稀有な存在だったか、大人になった今ならよくわかる。ゴキゲンを保つのも楽じゃない。祖母はそれを、少なくとも私が記憶ある30年間で接した間1回たりとも絶やさずにやってのけた。
(私たち三姉弟の「自分が愛されて生きている」という確固たる自信は、両親だけでなく、両家祖父母の愛情からできたものだと常々思う。)
私が出産した直後の「母の日」には「お母さんになったちほちゃんに」とカーネーションを買ってきてくれるような、そんな優しさと愛に溢れる人だった。祖母はいつだって自分のことは二の次三の次で、いつだって誰かのために動いている人だった。
"EVERY SINGLE DAY"
そんな祖母は、実は体がすごく弱く、40代で病気を患ってから何度も家族は覚悟する瞬間があったという。
振り返れば、ちょうど10年前も同じ。祖母は病床にいた。
きっかけは母と訪れたある日。祖母は一時的に断片的な記憶を失っていて、私たちが誰なのかわからなくなっていた。
「これはまずい」とすぐに病院へ行き即入院。その後もしばらくは記憶を無くした状態で、時々赤ちゃんのようだったり、時々怒っていたりと目まぐるしく状態は変わり、祖母とこのまま心が通えないのではないかと思ったほどだった。
それでもなんとか持ち直してくれ、誰もがそれを奇跡と呼んだ。しかし私は半年後に留学を控えていて、「もしも海外滞在中に会えなくなったらどうしよう」と。それだけが気掛かりで心配で仕方ない毎日だった。
だからこそ今自分にできることをしようと、仕事帰りに毎日欠かさず祖母の入院している病院へ会いに行った。当時覚えた英語で「EVERY SINGLE DAY(来る日も来る日も、毎日毎日)」というワードがあるがまさにその言葉通り、来る日も来る日も祖母の元へ行った。
結局祖母は退院し、私が留学している間も、その後帰国して福岡へ引っ越す時も、結婚する時も、出産するときも、祖母は変わらない祖母でそこにいてくれた。
しかしながら年を重ねるにつれ老いは進み、祖父も認知症が進み、夫婦はついに離れ離れになった。息子である私の父が介護しに通っている時もあったし、入院することもあったし、祖父と同じ施設に入ることもあった。
そして前回「祖父との別れ。」でも書いたように祖父が亡くなり、結果的に追いかけるようにして祖母は旅立ったのだった。
コロナでの規制が緩和され、15分であれば施設に面会に行けるようになった矢先。次回の帰省では必ず会いに行こうと思っていた最中の出来事であった。後悔先に立たず、だ。
親族や祖父母を知る人たちは皆、「強引なじいじが寂しくて、天国へ呼んでしまったんじゃないか」と言っていたが、私はばあばが自ら行ってあげたように感じる。
みんなは大丈夫そうだし、祖父を天国で一人にはできないからと。そんなふうに思ったんじゃないかなと思った。いつでも自分より誰かを想う祖母だからこそ、祖母が自分で自分の役割を決めて旅立っていったように私には見えたのだった。
そして迎えた通夜と葬儀。祖母の息子である父たちよりも、孫たちよりも、いつまでも祖母の元から離れられなかったのは、祖母の二人の妹だった。(私からしたら叔祖母にあたる。)
通夜の日は、参列者がいなくなっても、離れがかったのか二人はずっと祖母のそばにいた。そして祖母を前にいろんな思い出話を聞かせてくれ、こんなことを語っていた。
「たとえ話せなくても、会えなくても、そこにいてさえくれたらいいのに」と。
たしかに祖母が生きていないとしても、正直言って私の日常は変わらない。
ここ何年かは、ほとんどまともに祖母には会えなかったのだから。
でもこの世にいないという事実だけが、どこまでも冷酷に心に突き刺さる。
そこにいてさえくれたら、頑張れることもあるのに。
そこにいてさえくれたら、安心するのに。
そこにいてさえくれたら、心の支えになるのに。
そこにいてさえくれたら、生きる糧になるのに・・・。
祖母の死から学んだこと。それは、"生きる"とはだれかの「支え」であること。人はきっと「また会おうね」を糧に今日も生きる。
火葬場で最後に祖母を見送った言葉は、叔祖母の「みっちゃん、ありがとう」だった。姉としての祖母の存在がどれだけ偉大だったかが伝わってきて、そのたった一言が今でも忘れられない。
世界一優しいおばあちゃん、
みんなに惜しみない愛情をくれ、
幸せにしてくれて本当にありがとう。
きっとまた会おうね。
また生まれ変わっても、ばあばと家族になりたいな。
祖母と再会できるその日を糧と支えに、私も全力で生き抜いて行こうと思う。