妊娠は、辛くて長くて愛おしい
2020年4月1日。
一番最後の"早生まれ"として息子がこの世に誕生しました。
弱めながらも10分感覚で陣痛らしきものがきてしまったため、3月30日に分娩室へ。その翌日に一度落ち着き自宅に戻ろうとしたところ、少し破水していることがわかり「産むまで帰れま10」がスタート。
それでも生まれる気配がなかったので、ずっとドラゴンボールを読んでいました。ナメック星でフリーザ様が最終形態になられたところで大きな破水と強い陣痛がスタート。夜中の2時半。私のお産のはじまりでした。
本当は妊娠する予定ではなかった。
分娩台にのぼり、猛烈な痛みに耐えながら、妊娠してからのことを思い返す。あれはアルコールが残る、ある夏の昼下がりでした。ふと、本当にふと頭をよぎったんです、「あれ、妊娠しているかも」と。月一の憂鬱が来ていないというのもあるけれど、それよりもなんとなくの直感でした。すぐに市販の検査をしてみたらその「なんとなく」は的中。お昼寝していた旦那も飛び起きる衝撃でした。
結婚して2年目。子供ができてもいいとは思っていた。もともと生理不順があまりに酷くてレディースクリニックにも通っていたんです。
でもその頃の私は仕事がとても楽しく、出張があまりに多い生活。日本中を飛び回り、月に一度以上は県外で、その上お酒が趣味な私は、あらゆる制限が訪れることに対して複雑な心境でした。「14歳の母」みたいにエコーをみたからと言って「お腹の子に会いたい」という気持ちになるかというと良くわからなかった。そんな自分が母親になれるのか、不安で不安で毎日仕方がない。これが本音でした。
死ぬかと思ったつわり
ただでさえそんな心境の私に、追い討ちをかけるように8週目には"つわり"がスタート。最初は少し気持ち悪いくらいだったのだが、どんどん酷くなり飲まず食わずでソファに横になる日々が続きました。水を飲んでも嘔吐するため氷を舐めることしかできない。「もう無理」と根をあげたのは私の30歳の誕生日。重度妊娠悪阻と診断され、そのまま入院することに。
空っぽになっても尚吐いて、もう全身が苦しかった。精神的に追い詰められて、体重は7キロ減。筋力が落ちて歩くこともうまくできない。こんな状態でもお腹の子はどんどん育ち、少しずつお腹はふっくらしてくる。でも心がついていかない。約1ヶ月の入院を経て病院の外に出た時、セミが鳴いていたはずの季節はすっかり秋になっていました。
そんな中どうにか迎えられた妊娠中後期。大きくなったお腹を誰もが気遣ってくれた。
ミーティングを始める時も「体調はどう?」から始まり、重いものは一切持たなくて良い配慮。お守りを買ってきてくれる仲間。孫の誕生を心待ちにする親と祖父母。どんどん大きくなるお腹。近くなるトイレ。お腹の中から蹴られて細切れになる睡眠。増える食欲。乱れるホルモンバランス。飲みにいく旦那が少し遅いだけで襲われる不安。
なんだよこれ、妊婦ってなんでこんなに忙しいの?と、日々思った。
…総合してこの10ヶ月、とっても辛かった。あれを越えたのだから頑張らなくては。と分娩台で子宮口が開く痛みに必死に耐える。
そして3時間半という短い時間で産声が聞こえた。まずは無事でよかった、あなたも私も。身体中ガタガタと震えて、実感もないまま自分の上に息子が乗っかった。「お疲れさま」と労ってくれる旦那様。「おめでとう!」と助産師さん。
痛かった、辛かった、でも終わった・・・。想像していたような感動の涙は出ず、放心状態のまま処置をされる私。少し経っても足が震えて分娩台から自力で降りれない。そんな状態の私がやっとのことで病室のベッドに辿り着き、少しだけ寝たあと目を覚ましたら…クリアケースに囲われたベッドに、スヤスヤと眠る小さな生き物がいたのでした。(笑)
もう出逢う前には戻れない。
そんな私が今どうかというと、自信を持って「親バカだ」と言える。確かに退院するまでは必死だった。慣れない授乳に、産後の体に容赦ない睡眠不足。泣いてもその理由がみつからず、助産師さんに「助けて!」とナースコールをしたこともあった。でも、それでも、見せてくれる表情ひとつひとつが可愛くて愛おしくて仕方ない。泣き声すら可愛いし、睡眠不足になる授乳も全く苦ではない。この子の為ならなんだってできると思う。
なんなの?この掌返し。
と、自分でも思う。だから、妊娠期間中まるっと実感がなくても人は親になれるんだな。なんにも不安に思う必要はなかった。
「もし過去に戻って未来を選べるならどうする?」と聞かれても私は絶対に今の未来を選ぶ。たとえ大好きなお酒が飲めなくても、やりがい十分の仕事が制限されても、あの地獄の悪阻や妊娠期間をもう一度しなくてはいけないとしても、私は絶対に息子に会える未来を選びたい。
私たちのもとに生まれてきてくれて、心からありがとう。素晴らしい人生を一緒に歩んで行こうね。